数年前から、登山者の中に、真夏や春の暑い時間帯にもかかわらず、黒っぽい下着、それも皮膚にぴったりくっついている、化学繊維素材だとすぐにわかる、きわめて薄手の肌着(上・下とも長袖・長タイツタイプ)を着ている姿を多く見かけるようになったと思いませんか。以前は「山ガール」などと呼んでいた若手の女性が好んで着用していたようですが、最近は年配の女性、さらには男性にも広く見られるようになりました。ファッションなのかと思っていましたが、どうもそうではなさそうで、実益主体の着衣法のようです。
これは撥水性素材と呼ばれる繊維素材でできている衣類です。撥水性とは、「水を除く」性質です。「撥」は「除く、捨てる、払う」などの意味があります。似通った言葉に、親水性、疎水性があります。親水性の素材は綿が代表的ですが、登山では激しい発汗を伴い、その汗が揮発(発散)しないで皮膚の表面を覆った下着にたまり続けると、発汗による熱の放散(気化熱)を遮り、さらには発汗が収まる峠に着いたときなどに、下着にたまった汗の水分で体の熱が逆に奪われて、寒さをもたらすことになります。2つの意味で、登山では肌着に木綿(綿)の製品を着用することは禁忌とされています。疎水性は、水を寄せ付けない(含まない)性質ですが、ナイロンなどの化学繊維素材があるでしょう。
■汗の働き
人間は運動によって汗を出します。その目的は、運動によって代謝が増し、体温が上昇した分、その熱を外部に放出して体温を下げ、生理的に好ましい体温に低下するよう調節することです。動物のうち、ほとんど人類(ヒト)しか(ほかにはウマがあるそうですが)汗腺を持っておらず、発汗による体温調節機能はヒトが特異的に進化させたものとみられます。
運動を行うと、筋肉・肝臓のエネルギー代謝によって体温が上昇します。この体温上昇は4つの機構によって制御されています。まず、①血液循環が加速され、体表面に近い部位の動脈血は外気によって冷やされて、末梢血管(毛細血管)で静脈血となった冷えた血液が体の中心部に戻る間に体を冷やします。激しい運動だったとき、それでは体温の冷却が間に合わない場合に、汗が動員されます。②汗は血流から体表面(汗腺)を介して体外に出るときに熱を持ち出すと同時に、③その汗が外気に触れて冷やされ、その温度低下が体を直接冷やします。さらに、④体表面からの汗の蒸発(気化)によって熱を奪います。つまり、汗は三重に体温を下げる役割を果たしています。
ここで重要な点は、気化熱による熱の発散が、汗自体による、直接の体温低下よりも圧倒的に大きい効果を持つということです。すなわち、水1gが気化すると、その水のあった場所から580カロリー(cal)の熱を奪います。なお1cal は、1mL(ミリリットル)の水の温度を1℃上昇させる熱量の単位ですから、580calは、580mLの水を1℃上昇させる熱量に相当します。
ここで、汗が例えば100mL体外に出たとして、直接に体温を下げる効果と、同じ汗が気化して体温を下げる効果について比較してみましょう。
登山中など活動時の体温を血流が反映しているものとみなし、体温が仮に39℃にまで上がっているとします。100mLが体外に出て、外気が15℃だったとします。このときに汗が体の表面にとどまっている限り、外気に触れて冷やされる汗による直接の冷却効果は、「100×(39-15)」から2400calとなります。外気温が低ければ低いほど、体温低下の効果は大きくなります。一方、同じ100mLがそのまま蒸発したとすると、気化によって奪った熱は「100×580」から58000cal、すなわち58kcal(キロカロリー)になります。直接の体熱低下と気化熱の体熱低下の効果比は「2400÷58000=0.041」、すなわち、わずか4%にしかなりません。
これから、ヒトは汗を気化熱にして放出することによって体の熱を下げ、激しい運動を可能ならしめていることがおわかりだと思います。人間の進化した「汗による体温調節機構」の仕組みがこういうふうになっていたとは! しかし、まだ驚いてはいけません。上で述べた「撥水性素材」の仕組みが、実は発汗に関係しているのです。
■撥水性素材の効果
汗は、激しく発汗する場合に、ポタポタと流れ落ちる割合が少なくありません。それは、本来の汗の機能としての体温の低下に役立っているのでしょうか。・・・汗は揮発(気化)してこそ最大の機能を発揮しますが、落下した瞬間から、直接の体温低下効果はもちろん、気化による役割もまったく果たしません。汗は体表面に薄く張り付くようにして気化面積を大きくした場合に、体温による過熱が持続し、気化しやすくなりますし、その量が多くなります。そこで登場したのが、上に述べた皮膚密着型の薄地の撥水性化学繊維の肌着です。この肌着は、そもそも世界戦クラスの水泳で水の抵抗を少なくするために作られたのが、流用されたというようにも聞きます(真偽のほどは知りませんが)。
超薄手で皮膚密着型の撥水性肌着は、汗のしたたり(流れ下り=滴下)による気化の効果ロスが起こらないように水分を体表面に保持し、発汗による水分を皮膚表面に均質に薄く引き延ばし、それによって汗の水分による体温発散を均一的に発揮させ、体温の低下効率を大きくしています。撥水性なので繊維の中に水をためる作用も非常に少なく、超薄手なので、皮膚からの体温発散効果を遮ることがほとんどないうえ、体温の伝導で気化が起こりやすくなっています。たとえ体表面からの伝導または輻射による体温放散の妨害効果があったとしても、それよりも大きい気化熱による体温低下効果が働くので、収支としては相当に大きな体温低下効果を生じるものと考えられます。
使用経験者に「暑くありませんか」と尋ねても、「いいえ、暑くなく、快適です」という回答がほとんどです。なお、真夏のような暑い時期にこそ発汗が多く起こるので、暑い時期にこの種の長袖肌着が威力を発揮するというのは、なにか皮肉か逆説のような感じがしますね。
ただ、世のファッション的な流行を追うのにためらいを感じる年配者には、この種の衣類を試すということは少々抵抗があることを想像します。私自身がその当事者ですから。それでもというのだと、登山者が少ない冬場に目立たないように着てみることになるのでしょうか。(2015.10.20 TK)
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