2008年11月の山行


氷室山(1120m)


            氷室山を後にして、下りへの縦走路。クヌギ(コナラ)の林とササの地帯。

[山行報告 ]

◆実施日:2008年11月29日(土)日帰り

◆参加者:男性4人、女性1人(合計5人)

◆経路:5.00 天王台---(高速道:常磐-湾岸-東北-日光)---7.40(みどり市)沢入---
     8.20 登山道---9.15 885m地点---10.25 椀名条山---12.20 氷室山---  
     13.20下山路への分岐---14.50 登山口---15.15 発------19.15 我孫子(解散)

◆経費:高速道路代、燃料代、帰りの食事代込みで1人あたり5,000円

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■氷室山の登山概況
 そもそもこの山を考えたのは、日光の中禅寺湖の南岸の茶ノ木平を越えて南に這い、薬師岳、左に夕日岳を見て、地蔵岳とたどり最後はこぶ(こぶ岳)ケ原(古峯神社)に下る、その登山域(経験ずみ)よりも一山南に寄っている山域で、本会の経験では空白だったからだ。また、もう1つの動機としては、足尾側から鹿沼側に“前足尾”の山塊を越えてついている1本の車道(鹿沼‐足尾線;県道15号線)がある。この道はかす(かす。)お(おす)峠を越えるが(峠から車道は分岐し、左にとれば古峯ケ原のほうに行く)、どこまでもクネクネと曲折し、峠の前後で道は細まり、荒れて落石もありそうで、不安になってくるが、以前一度だけ走ったこの山道の印象が残っていて、その近くの山に登ってみたいと思ったことだ。
 手元の資料はもちろん、さらにネット情報も調べた(あとでわかったが、昭文社の地図「皇海山」にも載っていた)。結果、この山はいろいろな入山口があり、ルートもさまざまにとれることがわかった。しかし、どのルートが一般によく歩かれているか、という実勢の情報は得られなかった。粕尾峠から歩くという選択もあり、不明な状況の中で、数か所の町村役場に電話で尋ねてみた。そして、たまたま出てきた足尾側の黒坂石キャンプ場という場所に注目した。その上を基点にして、ここから目標地点を目ざすのが距離的にも適当そうだと考えた。


■車で出発
 29日早朝の4時半すぎにMHさんの到着を告げる車のエンジン音がした。車を隣の駐車場に置いて、天王台駅まで2人で歩く。今回はAkさんの車のお世話になることとして、日が短い時季でもあり早朝の5時に天王台で待ち合わせた。Khさんの姿もあった。さらに我孫子でMTさんを乗せ、一路、5人で日光を目ざした。東北道から日光自動車道に入ると、男体山、女峰山などの奥日光山群がしだいに大きく視界に迫ってくる。なぜか発色しない枯れた紅葉を両側に目にしながら、順調に進む。
 日光市街を出たところ、いろは坂に入る手前で左折して大谷(だいや)川を渡る。日足トンネルを過ぎると、すぐ足尾町(ここは、合併して「みどり市」と改称されたことを帰りに知る)に入る。左手に渡良瀬川を隔てて「前足尾」と呼んでいる山々が続き、これと並行して走る。松木沢への分岐を右に見て左にバイパスに出、渡良瀬川を渡るが、すぐその先で右岸に戻った。市街を3km程度行きすぎたところで川を渡ると、沢入(「そうり」と読む)と書かれた渡良瀬渓谷鉄道の駅前に着いた(ここは袈裟丸山への至近駅だ)。まだ7時半を少し回ったばかりで、人の気配はなく、静かな駅のたたずまいだった。明け方の山間の高コントラストの光景の中に、水蒸気がわき立っていた。この渓谷地に、山の端で切り取られた空はどこまでも青かった。その先から、黒坂石に向けて左折して細い枝谷沿いの山道を数km進むと、キャンプ場が見えてきた。バンガローなどが数十棟並び、快適そうな場所だ。ここをさらに進むと、車道が行き止まりとなった。地図で確認して、少し戻ったところで、「椀名條(わんなじょう)山登山口」(案内板と山頂の掲示板には「條」とあったが、以下は国土地理院の地図の「条」にならう)と書かれた案内を見つけた。質素なもので、50×30cm程度のペンキの白板が低く地面に突き立てられてあった。
 道端のスペースに車を停めて、早速、出発した。


■いざ、登山!
 MHさんに先導役をお願いした。が、踏み跡らしいものは、おびただしい落ち葉に隠されていたためなのか、見当たらなかった。しかし、地図読みでは、われわれの目ざす氷室山は椀名条山から尾根をずっと伸ばせばあり、これで間違いないことを確認した。さらに数十メートル登ると、崩れて腐食しかかった木製の幅広の登山道跡を見る。小さな沢だが、その木道が沢のほうに落ちかけ、かろうじて登山道としての機能を残していた。滑りそうなので、注意して通過する。しかし、その上の針葉樹林帯で、進路を失ってしまった。登山道ばかりか、踏み跡も見当たらない。偵察後、地図で方角を確認し、進路を見いだした。
 左(東)側の沢の方角に進み出ると、登山道の痕跡を見たが、すぐ上で消えた。暗い樹林の中を、ただ目ざす方向に進む。やがて枝尾根の上に出た。視界が抜けるように広がった。ひと休みを入れ、衣類を調整し腰を上げた。ゆるやかな尾根道が続き、主尾根の上に出たようだ、左右の景色が開けてきた。この時季の、実にいい山の情景がいくえにも満ちる。コナラの林が並び、落ち葉が登山靴を埋めるほどの堆積だ。枝が切れたところから、さっと男体山が大きな山容をのぞかせた(この日は、男体山が下山にかかるまで見え続けた)。さらに左後方に視線を移すと、奥白根山の真っ白な頭部がのぞく。皇海山や足尾の山々も居並ぶ。尾根を進むと、突然、尾根になんの変哲もない椀名条山(1052m)があった。針金で縛り付けられた板切れだったが、これがなかったら、けっして気づかれないような山頂だった。
 進む尾根の右手、南側に、谷を1つ隔てて山が走る。凹凸があるが、山の規模は小さく、苦労なく走破できそうなところだ。そのまま尾根を東に進むと、ドリルによる工事音がしてきた。さっき見えた右下の谷に車道を造設する工事が行われていた。この山塊は実はずたずたに人工化された、病む状態だったのだ。みんなの気持ちも顔もくもるのがわかった。
 その先の右側(南側)に、山を囲うように大規模に緑色のネットが敷設されていた。程なく、大規模に伐採の行われた山面を右側に見やる。そのあたりは裸山状態で、一部には植林が行われていたが、ネットは鹿の食害から守るためのものだった。さらに進むと、山の陰になり、または昼の時間近くになったせいか、工事の音はすっかり消えて静寂が戻った。植林帯を過ぎ、笹を林床に置く広葉樹林帯に出た。やがて尾根にT字状にぶつかり、右にとると、鹿沼側から通じる登山道との分岐を通過する。残った松の林が切れたあたりから来た方角を右に見やると、袈裟丸山から皇海山、奥白根山にかけての足尾-奥日光の山々が視界を占めた。
 氷室山は地形的には左に少しとって進むと読んだが、宝生山への分岐点の先の登山道のわきで、「氷室山←→宝生山」の表示を見つけた。行きすぎてしまったのだ。数百メートル来た道を戻って笹の道を分け入り、こんもりとした高みを行くと、氷室山の頂上だった。しかし、頂上かどぅかを示す表示はなかった。小さな祠が置かれてあったにすぎない。きりもよく、昼食とした。
 目標の地点を踏んでからは、この尾根をさらに進めば、十二山とか根本山とかの山頂が並んでいるが、そうした山は今回はやめにして、最短で周回の下山コースをとった。下り始めるところで、登山者に出会った。僕たちがとったルートがマイナーだったようで、今は椀名条山からたどる人はあまりいないという。どうりで、登山口に人の気配がなかったわけだ。コースによっては入山者が多いことを聞いたが、僕たちのとった長い椀名条山経由のルートで出会ったのはわずか1人だけだった。
 下山にかかった。足尾から日光にかけての山域の全容が、今回の最後の、遠くに横並びに姿を見せた。谷に入り込み、杉の人工林をほんの20分ほど下ると、広い平坦地に着き、ひと休憩した。ここには、車道がかろうじてだが通じていた。あまりにも簡単に、山岳という危険地帯から抜けえたのだった。この山は里山を少し越え、いりあい(いりあい越)の領地の線上にあった。そのぶん、人の支配や造成など人工の手を手痛くこうむっていた。勝手な理解でもあるが、関東の数県は、日本の保守政党への支持基盤であってきたこともあり、地元への還元も大きいだけ、自然は破壊をこうむっている。帰宅後に地図を見ると、氷室山の周辺はメチャクチャに開発の手が及んでいた。
 その車道を数km回るようにしてたどり、黒坂石まで戻った。そこから15分ほどさらに回り込むと、車を預けた車道に着いた。最後は3kmほど、約1時間程度の車道上の歩行になった。靴の土を払い、車に乗り込んだ。帰りには、春さんと僕のお勧めの、足尾市街地に1軒だけある、ラーメンがおいしい食堂に寄った。この山域に何度も足を運ばれているMTさんにして、ここは初めてだとのことだが、味は期待を裏切らなかった。そこのおかみさんに聞くと、昭和11年に築地から、お父さんがこの足尾に引っ越してきて、それ以来だという。ということは、すでに日本が満州を拠点に大陸への侵略を開始し、三国同盟を締結し、戦争に突き進んでいく時代で、この足尾町が古河鉱業所を擁して最後の勢いを誇った時代と一致する。労働者が大挙してこの地に住むようになったのは、戦時体制確立の時期と一致する。昭和11年に、そのおかみさんはまだ生まれていなかったという。そのお父さんは約10年も前に、敗戦や東京大空襲を予想して、東京から逃れ、山間に身をひそめて生きる選択をし、この地まで移住したのかもしれない。70歳近いだろうそのおかみさんに、田舎の人ならぬ雰囲気を感じた。
 そのまま、来た道をたどって我孫子を目ざした。紅葉の真っ盛りの時季であり、高速道路はところどころで渋滞を繰り返したが、たいした遅れもなく、6時半ごろに我孫子に帰着した。




■余談
 単純に推計して、山の高さの比の2乗倍以上の広さを裾野はもつ。足尾と鹿沼との間にある「前足尾」は、山としての高さを欠いており、同時に裾野が狭く、高さを欠いていた。このことが人の限りない侵害を許してしまう。それは、自然の領域を人間の領域にしきることを示す。日本列島改造以来だろうか、いまや鎮守の森を守った敬虔な心はすっかりすたれてしまった。奥足尾の山にそんなことを感じた。
 しかし、最近の山域・山間の問題はそれにとどまらないという。後継者の不在はもちろん、林業従事者の激減から、里山の手入れ・管理がおろそかになり、人里と林地との境目があいまいになって、森は荒廃しているという。住民が猪や熊の被害に遭うという事例が報じられるようになったが、動物たちがこれまでテリトリーとしてきたところが、森林域の荒廃から人里に接してしまった結果だともいわれている。袖群落などといい、森林域の周辺境界がどんどん人の生活域に近づきつつあり、廃屋を山が飲み込んでいく。(KT)




 
渡良瀬渓谷鉄道・沢入(「そうり」と読むんだと)駅前の静かなたたずまい。7時40分だったから、我孫子を出てから2時間半余だ。左側の車道を真っすぐ行って左に曲がり、谷間に3~4km入っていく。途中、黒坂石という地名のところに、大小のバンガローが並ぶ、けっこうな設備の整ったキャンプ場がある。
椀名条(條)山コースへの入山口。小さな、低い立て札が1枚あるにすぎない。登山道というしるしも踏み跡もほとんどない。ここから先には、壊れかかけ、苔むして滑る木製の登山道補修部があり、入山者の少なさを示していた。
一度道を見失ったが、地図読みで沢側に行路を切った。うっそうたる人工林の沢部を尾根目ざして登る。
尾根に出た。落葉広葉樹が葉を落として、周囲は明るかった。葉が登山靴を隠すほどに積もり重なり、柔らかな尾根道が楽しめた。ときに男体山や奥白根山が枝間から見られた。
一度登った尾根から先は、なだらなか上り下りのある心地よい登山道が続いた。尾根上はほとんどクヌギ(コナラ)を主な種とした広葉樹で、静かな雰囲気が楽しめた。登山道という明らかなしるしはなかったし、道標の類はほとんど皆無だった。丹沢や奥武蔵、奥多摩など、標高1000~1500mの山でしばしば出くわす、尾根の共通する情景を備えていた。
尾根の上からずっと左側に見え続けた奥日光の山々。枝が切れたところから、パチリ。この時期に男体山、女峰山にもおごそかな感じを抱かせるほど降雪があったが、今季は雪が多いのだろう。奥白根山山頂付近は岩場がゴツゴツしているはずだが、その部分が完全に埋もれてしまうほどに雪がかぶっていた。
椀名条山。この山の読み方を依然として知らない。下ってくるにつれて、椀名条山を経て氷室山を登る人は非常に少ないということがわかった。しかし、初の経験からは、椀名条山の手前の尾根が最も素朴で、落ち葉も深く、山のよさを感じさせた。
椀名条山がよかったのがなぜかというと、その先で、右(南)側の谷間には工事が行われ岩を崩す轟音がここまで鳴り響いたし、尾根の右(南)側斜面は大規模に伐採されて植林が行われるようとしているところで、山としての基本条件を欠いていたからだ。植林したばかりの稚木を鹿の食害から阻止するためにセットされた網が見える。
氷室山山頂の手前から見た袈裟丸山(遠景)と椀名条山(中景)。ちょうど写真の左右中央の中景の山の向こうから尾根を這い、そのまま進み、現在の地点の右のほうから直角にここまで達したわけだ。ここまで3時間半くらいかかっている。中央部右側の比較的白いところが、前の写真で示した植林地帯。
氷室山山頂で。この日、山の中で出会った2人のパーティーの方に撮っていただいた。山頂には、その名をとどめ、あるいは山頂であることを示す標識はなにもなかった。こういう素朴な(人が味付けばかりをしていない)山もいいなー、と思った。ヒマラヤの高所の山頂に標識の類がないのとはわけが違うが、世の中、とかく騒がしすぎる気がしてしかたがないことを、この山で再認識した。

氷室山山頂から、下山路にかけて出発したばかりのところ。今回の山域は背丈の低い、葉の周囲が白斑を帯びたササが敷き詰めていた。また、この山域の樹層の特徴として、樹幹径はさほどではないが、高さが高く、ひょろひょろとした木々が多かった。奥多摩と違う特徴だ。

同じく、氷室山から先の下山路上で。たまにミズナラも混じる。この周辺には、テント適地(テントが張れる平坦地)が5か所くらいはあった。それだけゆるやかな尾根だ。雪の降りた季節に、方向や時間を定めないで、2~3日かけて峰々をテントで歩き回るのも楽しそうだ。遠くで鹿の鳴き声を耳にした(しかし熊も出るらしい)。

尾根から右(西北西)に直角に右折して下りにかかる。中央部にやや左側の丸い山が椀名条山。そこから右にとり、大きく迂回して現在地点に至った。その背後の遠景は袈裟丸山の連山。現在地点から400m程度下ると、四駆(四輪駆動)車だったら上ってこられるだろうという地帯に着いた。

車道に下った。フランス-デモよろしく、ホッとして楽しげな横並びの仲間たちの表情。車道がこれから登山口まで3kmほど続く。この山域には、谷(尾根-尾根間の地帯)に入込む多数の車道が敷設されている。山塊が小さいからそれが可能だが、それだけ車道の終点や途中から山に取り付くルートがあり、なるほど、どのルートというお定まりの経路がなかったわけだ。結果にすぎないが、幸い、われわれがたどったルートは、「正道」だったようだ。


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