11月の山行

雁坂峠~雁峠・笠取山





古礼山からの眺望。もやにけむるのは甲府盆地。右端は黒岳、その左のピークが乾徳山。
視界の左には富士山が大きくたたずみ、はるか向こうには被雪した南アルプスが横たわる。

ここで、僕たちはどれだけ幸福感に浸ったことだろう。


実施日:2016年11月12~13日(山中1泊)
参加者:男性のみ(8名)
行動結果
12日 我孫子4.53=5.06新松戸5.14=6.11西国分寺6.23=6.48高尾7.06=8.12塩山8.20〈タクシー〉-8.50雁坂トンネル
 料金所ゲート前9.10---10.05雁坂峠登山口(沓切沢橋)---10.50峠沢出合---11.45井戸沢出合---13.30雁坂峠
 13.55---14.05雁坂小屋---14.10雁坂小屋テント場(幕営)
13日 5.00起床(テント場)6.45---6.57雁坂小屋---7.46水晶山8.07---8.26古礼山分岐---8.35古礼山下展望地
 9.00---9.55燕山---10.15雁峠10.36---11.10笠取山11.30---11.57雁峠12.20---14.25亀田林業林道終点(ゲート)
 ---15.35新地平バス停15.43-16.45塩山駅17.05=国立=西国分寺=新松戸・・・19.50帰宅
経費:1人あたり/JR電車代(天王台-塩山)2590円×2、タクシー代(塩山-登山口)約1100円、バス代(新地平-塩山)
    900円、テント場代800円 ・・・・合計約8000円

奥秩父の山のこと
 奥秩父を世に紹介し、ここの登山愛好家の嚆矢となった田部重治(雑誌『山と溪谷』の題字の持ち主で、登山家・英文学者)だったと思うが、「(アルプス登山に余念のない若者たちも)いずれは奥秩父に帰ってくる」というような言葉を残しているのをどこかで読んだことがある。人の存在を激しく拒むかのような尖った岩の集積から成る南・北アルプスと大きく違い、奥秩父にはどこまでも人の生存を受け入れる、柔らかな気配が漂っている。実際にも50年ほど以上前までは、山がここに生きる人々に生活の糧を与えていたという。山中に人が住み、標高が2000メートルを超える範囲にまで人々が仕事で入り込んでいたそうだから、生活領域の影を宿した“人臭さ”が今もどこかに残っているのだろうか。
 将監峠を後にして笹の生える尾根半ばを北側に向かって和名倉山へと歩くとき、赤く錆びついた鋼製のケーブルを見る。木材搬出用のものだ。その山頂から秩父側に下る途中にも、人工的な平坦地とともに大きな鉄の塊の形骸を見る。ほかに人工物として、鷹ノ巣谷の沢ルートや川苔山の登山路に沿ってワサビ田や石垣の跡があったと思う。今回の山行では、笠取山への上りの雁峠分岐の先で、錆びついたエンジンの残骸を見た。
 奥秩父に詳しい登山家・山田哲哉さんによると、それ以外に、時代をよりさかのぼると、奥秩父の峠を人々が三峰参りや善光寺詣で、物資の運搬・交易、婚姻などで越え、人々と生活物資や家畜が峠を介して行き交っていたし、炭焼きの窯(かま)や小屋が点々とあったという。今も登山道の脇に見る苔むした石垣や朽ち果てた人家は、その名残のようだ。
 しかし、高度成長期を境に、これらの交易や畑作・林業などの産業の場は淘汰され、森林従事者(きこり)も含めて、今日では人々が山中で活動する姿はすっかり影を潜めたという。彼は著書『奥秩父―山、谷、峠そして人』(東京新聞)の中で、奥秩父を賛美しつつ、戻ってこないその歴史を哀悼する。この現象は日本の進む道、近い将来を暗示する。
 「静かな」「苔むした」という表現が奥秩父の形容に添えられることがある。しかし、かつては人々の生活音と掛け声があちこちに響いていたに違いない。皮肉なことに「静かな」とは、人々が山から利益をもはや汲み出せなくなって退散し、今日の経済功利主義(資本主義)の招いた衰退の結果を象徴していることを考えるなら、単純に喜ぶことはできない。現在、人の声は、登山者からしか発せられない。奥秩父に踏み入れる登山者の1人として、複雑な気持ちがぬぐえない。人々が残した山の生活道がもともとあったからこそ、登山道として僕たちが今日も歩けている。その恵みには感謝しなければならない。
 同じ山域でも、峠には何かがあるような気がする。人の気配、人がいた気配、人が歩いた気配、竈(かまど)から立ち上る煙の臭いなど、人の生活・生存につながる、懐かしい気配や感覚だ。自分たちのルーツをさかのぼるような気さえする。
 峠からは、下れば必ず人里に至る。人里と人里を隔てる峠は、同時に人と人とを結びつける結節点でもある。どちらに下ってもよい自由をも与える。目的や目的地が決まっていたならそちらに、決まっていなければ親たちや気になる彼女のいるほうに下ればよい。その自由さがおおらかであり、山々に視線を送り終われば、下界への移動である。俗世間に戻る前に、ここの景色と空気と風、そして青い空を胸に仕舞い込む場所である。



奥秩父の香りの漂う、うっそうたる針葉樹の森の中を行く

今山行を振り返って

 今回の山行は、一昨年の11月下旬にFnさんの担当で、大弛峠を基点に金峰山から甲武信ケ岳まで縦走した行路(奥秩父縦走路)の延長線を先につなげて引く、という趣旨で計画した。ところが、11月11日から2泊で予定した、甲武信ケ岳から雁峠までの縦走計画が、またしても雨天模様により実現できなかった。幸い2日目からの2日間は晴天予報だったので、出発を1日ずらし急きょ実施することにした。当初参加の7名全員から快く賛同も得た。これに伴い、日程を1泊にして、甲武信ケ岳を外し、対象を雁坂峠から雁峠と変更した。
 峠から峠までという区切り方は、奥秩父の山に初めて入るメンバーもいたことを考え合わせると、上にに述べた、生活域としての山であり続けてきた奥秩父の一端、ひいては自然だけでない、人とのかかわりのあるこの山域の特徴や歴史を知るうえで、意味あるものとなったのではなかろうか。少しでも奥秩父のことを同行者が好きになってくれるきっかけになったなら、うれしい限りである。
 日程・場所の変更に伴って、会山行の資格を失ったので個人山行としたが、後日の例会で会山行として事後承認をいただいた。
                                                               
12日   
  我孫子に所定の時刻に7名が集合し、出発。新松戸で武蔵野線に、西国分寺で中央線に、高尾でさらに甲府行きに乗り換えた。楽々、座席も確保できた。塩山駅に着くと、ジャンボタクシーの運転手さんが名前プレートを持って待ってくれていた。
 塩山から30分ほどで雁坂トンネル料金所前のゲート脇の駐車場に着いた。簡単に運動(ウォーミングアップ)をして出発。駐車場の上には旧道がトンネルの上をまたぐように通っており、まずはそこを行く。先頭はサブリーダーのMmさんで、「ゆっくりと」と念を押してトップリードをお願いした。
 交通の遮断された緩傾斜のアスファルト道(この道はNmさんによると、雁坂トンネルができるまでは甲州側と秩父側とを結ぶ要路だったようだが、沓沢切橋の先で車道が切れているのはどういうことなのだろうか)を、広瀬湖に水を集める渓流を左に見ながら進む。紅黄葉はすでに終わり、コナラ(どんぐり)の落ち葉が車道を厚く覆っていた。
 2回目のゲートを通過し、後ろから追ってきた若手の登山グループに先を譲ったとき、そのグループの最後尾の人に一瞬目が止まった。声をかけたところ、昨年末に鍋割山荘に倉岡さんと同行した山行で、倉岡さんに会うために神奈川から来ていたT氏だった。奇遇だ。彼らは「雁坂小屋で会いましょう」の標語のもと、SNS(「ヤマレコ」というサイト)でつながったメンバーたちがにわかパーティーを形成し、やって来たのだという。雁坂小屋での再会を告げられて、10人弱の彼らは車道の先に消えていった。
 雁坂峠がその中にあるはずの奥秩父の山嶺を仰いだ先で車道から別れ、左の細い道に一歩を踏み出して登山道が始まった。右左と曲がりながら登山道が続く。傾斜が落ち、左手(久渡沢側)が激しく谷に切れ落ちたトラバース道を行く(地図上には冬季山行時のスリップの危険性が書かれている)。ナラ(くぬぎ類)の落とした葉が、靴が埋もれるほどに登山道を埋め尽くし、枯れた葉をつけた笹が登山道の脇に見え始めた。小さな枝沢の通過で速度が落ち(①)、その先に沢登りで知られる「ナメラ沢」の掲示があり、さらに入渓点の小さな標示を見た。
 トラバース道をどんどん行って、右からの沢を渡り(②)、そこから小さな尾根を越えて峠沢の左岸に下り、沢沿いに進んだ。やや行って、沢を丸太の橋で渡ったところの沢床で小休止とした(③)。初冬の山中の景色も空気も、とてもすがすがしい。
 ここからの行路は、推測だが、どうも次のように思う。
 ③地点からは峠沢の右岸に沿って進んだあと、沢から少しずつ離れていく。ナラの林を過ぎた地点で、もう一度、沢(井戸沢)を渡る。井戸沢を渡ったあと、井戸沢と峠沢との間の尾根を峠沢側に越え返す(④)。そのあとは沢(峠沢)をずっと右にし、雁坂峠につながる稜線を仰ぎ見ながら、つずら折りの登山道に至る(⑤)。笹が山面をしだいに深く覆うようになり(ここの笹は青い)、針葉樹の樹高が落ちた。
 注)右岸、左岸は川下側に向かっていう(地理学用語だそうだ)。
 針葉樹がまばらとなり尾根が見え出すと、峠は間近だ。傾斜が落ち、笹の丈が低くなり、砂礫混じりの裸地をひと登りすると、峠に着いた。名に反し、風情のない峠という印象はかつてと同じだった(眺望だけはよい)。この山域の山の行路の案内と来歴を記した、不似合いな大きな看板があった。少しもやはかかっていたが、眼下にはここまでたどった山面や山々が重畳としながら陰影を描き、富士山が雲上に姿をのぞかせた。峠でしばらく眺望を楽しんでいると、若い2人連れの女性登山者がやって来た。明日僕らがたどる予定のコースから、例のSNS仲間での集会に参加するために来たという。様子を聞くが、逆に新地平からの林道(亀田林業林道)をたどる下山道を盛んに勧めた。ここで、僕らの下山路が、ほぼ決まった。石原さんが担ぎ上げた三脚を出して集合写真を撮る。
 腰を上げ、そろそろ小屋(雁坂小屋)に下ることとなる。登山道にうっすらと残る雪を踏みながら、10分ほどで着いた。先に到着した若者たちは、とっくに酒盛りを始めており、派手に歓声を上げていた。
 テント場は、以前と同じ場所で、ここ一番の広いサイトだが、少しぬかるんでいた。ビニール袋を数枚破いて広げ、グランドシート代わりとした。8人用ダンロップテント(V-8)と3人用のエアライズを建てた。
 夕食までの時間、テント近くのテーブルに飲み物とツマミを持って移動する。Tuさんがビールを買ってきてくれた。早速、「カンパーイ!」だ。テーブルの上には、焼酎が何本も並んだ。Ihさんは、「黒霧島」半サイズを出す。Htさんは愛用の焼酎専用の容器だ。タバコを欠かさないKmさんは時々離席する。楽しい1時間だったが、峠に陽が落ちると寒さが襲ってきて、テントに入った。
 早速、夕食の準備だ。水汲みや調理に協力して2回の“ヤミ鍋”が終わりかけるころ、小屋から伝令が来た。今夜の若者たちの小屋でのパーティーに参加しないか、という呼びかけだった。
 小屋の玄関扉を開けると、土間中央に薪ストーブが燃え、20人くらいの男女による宴会がたけなわだった。屋内は熱気に満ちて騒々しく、人の声が聞き取りにくいほどだ。土間の奥には板床があり、その一角に座らせてもらった。まわりの若者たちがアルコールやツマミ類を親切に回してくれた。リクエストに合わせてオカリナを巧みに演奏する女性もいた。この催しは、場所だけ提供してもらい、集まったメンバーによる自主主催といったようなもので、小屋の主人の存在はなかった。そのとき、そこに差し出されたアヒージョという料理は、非常に美味だった。
 7時半にこの場を離れ、テントで今夕最後の一献をして、早めの就寝となった。


坂峠トンネル入り口料金所・・・タクシーを降りる 登山口の駐車場前で/紅葉の真っ最中だった*
             

登山口を出たところ 雁坂トンネルが山中に顔を出す*
                                    

今は閉ざされた舗装道路を行く 沓切沢橋を渡った地点から登山道になる


しばらく傾斜の緩やかなトラバース道を進む      ナメラ沢の表示、そして入渓地点の表示がある


枝沢を渡る 峠沢の徒渉


峠沢を渡ったあと右岸を登る さらにどんどん右岸を登る


その先で突然、枝沢の井戸沢を渡る その後は尾根を1つ越えて峠沢を右に、右岸を進む
                         

ジグザグのつずら折れ道になる つずら折れの道を行くと傾斜が落ちる


今回は難なく峠に着いた* 峠から東北に下ると10分で雁坂小屋だ
*印は左クリックで大判写真が出ます。


テント場脇のテーブルで「お疲れさん!」「かんぱーい」*    その夜、Isさんがテント場の夜景を撮影していた*
                                

13日
 早朝、テントの中で話し声が聞こえる。起床予定の5時だった。外をのぞくと、昨日よりも好天だった。
 テントをたたみ、集合写真を撮って、予定の15分遅れでテント場を後にした。小屋に寄り、昨夜のお礼も兼ねて挨拶をし、小屋を出たのは7時前だった。振り返ると、昨夜の宴会席にいた年配の方たちが、私たちをずっと見送ってくれていた。
 小屋から東南に向けてダケカンバと笹の中の緩やかな登山道が這う。オオシラビソとコメツガの大木がつくる森のアーケードを行くと、20分ほどで尾根(⑥;2072m)に着いた。ここからしばらく、さらに緩やかな上りが続く。昨日の女性が言っていたとおりの、気持ちのよい、なだらかな道だ。登山道上に雪が現れ、ひと登りで水晶山山頂(2158m)に着いた。この日の縦走路上では最も高い地点だが、眺望はまったくない。
 針葉樹にダケカンバ類が混じった混淆林の中を行く。わずかに下ったあと、古礼山への経路が二手に分かれた。「巻き道」をとったが、この選択は誤りだった。巻き道は古礼山の北東側をたどり、うっそうたる針葉樹の中を通っていた。巻き道が終わり、開放的な広い笹の原に出たところで、隊列の進行が止まった。誰かの希望があったのだろう、少し古礼山山頂方向に逆戻りすることになった。後を付いていくと、古礼山の山頂には向かわず、手前で笹の原を横切って真西に進んだ。なんと、大きな展望台がそこにあった(⑦)。歓声が上がる。
 富士山が全容を見せ、甲府平野に南から西から裾を伸ばす山々がつくる尾根と谷とが重畳とした造形模様を浮き上がらせていた。20分以上もいたかもしれないが、そろそろこの展望台ともお別れだ。


見送りを受け雁坂小屋を後にする 2070メートル地点の峠がもうすぐ*

          
自然いっぱいの縦走路         この縦走路上で最も高い水晶山

◎「山の魅力」について――個人的で勝手な解釈

 「山の魅力」とは何なのだろうか。多くの人は山の魅力を、スケールの大きな景観、自然の息吹や心地よい尾根上での風、あるいは下界では見られない可憐な花々などと答えるのではなかろうか。この回答は、通俗的だが正しい内容ではある。ただし、この回答は山というもの、登山という行為にまで踏み込んで答えていない。というのは、私たちは登山を行って、その結果として山から恵みを魅力として感じているのであって、山の一部やある面だけを切り取って、それらを個々に魅力と考えているのではないからだ。
 皮相なことを書くつもりはないが、スケールの大きな山が魅力なら、ヘリコプターで上空や谷筋から山々は見ることもできるし、ハイウェーが敷設された乗鞍岳や立山なら山の景観を得るのは容易な話だ。また山の花でなくとも、人工的な庭園の花も十分に美しいし、利尻島や礼文島に行けば、浜辺近くで本州の亜高所でしか生息しない花がたくさん見られる。風は山でなくとも川べりや浜辺にも吹く。しかし、山の魅力として、楽をして獲得したこれらの所産を、一般に登山者は山での収穫物と同列には置かないだろう。山の魅力とは、登山ないしは登山の苦しさを介して得る行為にどこまでも縛られ、その実践経験を背景にして初めて、その人にとって存在するものなのだ。
 魅力とは、誰にとっても共通する抽象的な場合(概念的なもの)と、個々人における内面的な、経験のレベルにおける場合とで区別されるが、以上に見たような山登りの行為と不可分な限りでの魅力とは、後者の個人的な領域のものである。登った人にだけ約束される。これと関係する次元では、それらを魅力と感じるのは自分自身の心性(心)や感性である。さらに魅力をいう場合の受容体は心性にあって、感情的な面とも密接に関連するため、山の魅力を語る場合にはデリケートな問題となる。また、登山という営為には、個々人の生き方や時間の過ごし方をどうするかの意思が関与する。それは、心性や感性と同居する精神作用全体に大きく及んでいるがゆえに、山の魅力の定義や感じ方には個人の価値観が投影されざるをえない。
 ここで、別の観点に目を転じてみよう。心の内は人の表情や態度に現れる。山上では、それ自体をふだんは見せない、同行の仲間たちの心理が、そのまま表情に表現される。しかも、それは厳しいアルバイトの末に与えられる満足でもある。苦痛を乗り越えたあとの達成感や解放感もそこにはあるだろう。登山者は登山を成し遂げたことを自身の心で喜ぶのだ。
 同時に、登山の結果は、どうでもよい場面とは違った、その経験の末に迫る力であり、どの登山者もその力に抵抗することはできない。それは、個人のありのままのそのときの感情を発露させる。山頂で悲しむ理由はない。ゆえに登山者は誰もが喜ばざるをえずして喜ぶ。その表現は、率直という単調な心の動き、一般的な筋書きの上にあり、そこに個人での内面の粉飾はない。
 このようにして、山頂で示す笑顔を普遍的で第三者的なものとして同行者に見る。ここには、集約した一般的な側面が託される。まず、個人の一般的で自然な感情を発露させていること、ここには心の歪みがないこと、同行者の喜びも他者の喜びも等質な感情の発露として表現され、ゆえに自分以外の者の表情に自身の内的な表現をも見ることができるという点(自分は他者の、他者は自分の鏡である)、これら自分-他者が同一となる関係が仲間どうしを通して見られる。さらに、内面は相互に増幅されるという点もある。孤独な山行、単独行では、それらがない。




古礼山下の展望台での仲間たちの満面の笑み
*

古礼山下の展望台からの大眺望は ➡ こちら 

 大きく開けた笹の原を戻る。少し下って、笹の広がる太い尾根の上で簡単に食事をする。登山道の脇の樹林帯にテント適地があちこちと散見された。木々の間には、富士山が絶えず見え続けた。
 心地よい、なだらかな、笹の尾根をたどり、針葉樹林を縫う登山道が続き、先の展望地からは50分弱で燕山(つばくらやま;2004m)に着いた。雁峠まで0.9kmと標示があった。この標示は登山のおおよそが終わった安堵感を与えたが、相当に甘い思い込みだったことをのちほど思い知らされる。燕山から下り坂を行くと、笠取山が特徴ある陣笠形を見せ、雁峠への草付きまでジグザグの行路となった。仲間の隊列が高原の草地にリズムある動きを刻む。駆け下りると、雁峠の鞍部に着いた。ベンチが何個か置かれていた。
 10分ほど休憩ののち、ザックを峠に置き、数人のサブザックに託し、笠取山に向けて出発した。茅戸*の原を進むと、左手に廃屋となった雁峠小屋があった。山小屋のたたずまいは暗く、なんとももの悲しげだった。原を南にとったあと左折すると、小高い雁峠分岐だった。笠取山をバックに集合写真を撮る。
   *茅戸:かやと。茅(かや)におおわれている山稜または山腹などの傾斜面。(広辞苑)
 そこからの笠取山までの標高差150メートル余りは、昨年末の雲取山山行時の七ツ石山に似ていた。荷は背負っていなかったが、湿った急な登山道が滑った。ジグザグに切る登山道が、何重にも錯綜しながら山頂に向かっている。裸地を避けて、より安易な草地を登山者は選択しがちとなるためだ
 苦しみもほどほどに山頂に着いた。山頂からの眺めは、雲取山山頂からのそれにとても似ていた。仲間が地図を出しては、まわりの山々の同定にいそしみ、景観を堪能した。30分もいただろうか、下山にかかる。上りで想像したほどの下りの苦労もまったくなく、あっという間に雁峠分岐に着いた。そこで、さらにNmさんから呼びかけを受けて、カラマツ林の端から南側を望むと、そこには今までこちらの角度から一度もそれと認識したことがなかった、大菩薩の峰々を確認することができた。意外に尖った三角形をしていた。
 雁峠に戻り、昼食をとって、下山路に踏み出す。緩やかで、気持ちのよい登山道が続いていた。付かず離れずの広川の上流のせせらぎに、空の青さとまわりの木々が映る。ミズナラの広葉樹が厚く覆った落ち葉の上に林を形作り、その陰の中を進む。
 ところが、「林道終点」近くで2か所、大きな徒渉場面に遭遇した。1回目にはHtさんが苔のついた石の上に乗って転倒し、水流に入ってしまった。幸い、大事に至らなくて、ほっとする。2回目では、徒渉場所が特定できず、人によってあちこちと迷ってしまい、かなりの時間のロスとなった。「林道終点」がどこかも結局わからず、目当てとした「ゲート」までも、それから予想外の時間とアルバイトを要した。
 黄昏のきざすころにゲート、そして舗装された車道に着いた。さらに、そこからバス停まで、タクシーをキャンセルして歩いて下る羽目となった。待ち時間を入れると、下山後から塩山駅まで2時間以上もかかった。遅くなったため、駅前での打ち上げも省き、幸便の「ビューやまなし」で帰途に就いた。いい仲間との車中でのビールと会話は最高に楽しかった。帰宅は午後8時前であった。


古礼山下で眺望を堪能して先を急ぐ⋆ 燕山。雁峠まで「0.9km」


雁峠への下り 笠取山の特徴的な編笠形の山容*


人の気配がない雁峠小屋(廃屋となっていた) 大きく開けた雁峠分岐


ザックをデポして笠取山を目ざす 笠取山山頂で*


雁峠に戻り着く 雁峠を後に帰路へ


広川が付かず離れず並行する(徒渉に難儀した場所) 長かった亀田林業林道


やっと林道の「本物」のゲートに着いた タクシーも来ず、とうとう新地平部落まで歩きで下ってきた

 同行のみなさん、たいへんお疲れさまでした、そして、ありがとうございました。(2016/12/05 T・K)

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