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 本会でいつの時期にか言い習わされるようになり、その独自の意味を育んできた標語(モットー)です。
  
 山の会において山がすべてであるならば、山登りができなくなったときには、その人は会を去らざるをえなくなります。しかし、登山を行うに十分な健康を損ない、あるいは年をとって山へ向かう力がなくなっても、その人を排斥するというようなことは論外であり、山の会において末永く、それまでの仲間とともに同じように親しく過ごせるという意味合いを、この標語は含んでいます。そこには山・山行だけでなく、個人の尊重、一度出会った人と人との関係のかなう限りの維持というもう一方の理念が、底流として流れています。
 どの人の行跡も、その人が個人の存在とその誇りを込めて実践した結果である限りは、後々まで仲間との話題や後続の者たちに教訓・戒めとなり続けるでしょう。また、山を介した共通の体験は人と人を結び付け、それらを仲立ちとして末永く関係の維持に役立ちます。山を共にする間に育んだ間柄は、体力面のみならず経験や知識、豊かな感性や人柄など、幅広い人の「蓄積」を受け入れさせます。それゆえ、過ぎ去ったことだからといって、ただ自然の勢いに任せて時間が坦々と過ぎ去るままに放置するのではなく、健康を損なった人をも会の中に引き戻し、輝かせます。さらに、その人の経験が語り継がれ、その人の言葉に後から来た者たちが耳を傾けるのです。そこには、人間としての「意思」ある能動的な関係が成り立っています。
 「人が半分」は、現実の山登りだけではない役割において、個々人を肯定し、その将来と互いが長くつながることを志向する言葉でもあります。人が多くいれば、輝く言葉や実績がそれだけ多くに散りばめられることになるでしょう。ただでさえ短い人の生命寿命、さらには、もっと短い選手寿命です。山だけで個人が消え去るというのは、あまりに切なく、はかないではありませんか。
 また山の会は、会という「入れ物」「容器」を介して、そこに集まってきた人たちが、普段ならけっして出会うことのないような機会をもたらします。それぞれの人はそれぞれの社会で半生以上を過ごし、別々に生きてきましたが、そのような違った世界の人どうしの出会いをもたらすのです。その出会いがあったことを肯定し、これからの人生の励みに変えるという意味も、この標語は含んでいます。千載一遇ということであるかもしれませんが、その意味は、その持続の意思をもってこそ実現できるのではないでしょうか。

 最後に、もう1つの意味を書き添えておきます。例えば、家庭が平安であって初めて家人は安心して山に向かえるのと同様に、山の会における集団での山登りが順調に行えるには、運営面が民主的に、多数の会員の納得を得て進められていなければなりません。「運営」とは、山登りに属さない活動領域であって、人の関係を整える営みです。「人が半分」の意味がここにもあります。山登りだけでなく、運営を丁寧に進めていかなければならないとの戒めが込められています。
          
 いろいろな理解や解釈がありうるでしょうが、会が年輪を重ねるように、もっともっとその意味を深め、大切にするとともに、味わっていきたい言葉です。

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