3月の山行 |
茂倉岳~西側山面の偵察 |
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◇実施日:2008年3月8‐9日(山中1泊) ●有雪期におけるこの山域の登山について ①この時季には、1日では茂倉岳には達せない。 ②土樽-茂倉岳の高距(高度差)は1350mで、もし茂倉新道から山頂を往復するとしても、茂倉岳直下の危険地帯(旧傾斜地、岩稜帯)を大きなザックを背負って登高するのは危険だ。ただし、うんと上部は不明だが、茂倉新道上に雪崩の危険はない。 ③登り方としては、矢場ノ頭(1490m;このあたりは岩場と樹林地帯だから、そこを抜けた上部の笹がおおったなだらかな尾根上)付近まで1日目に登っておき、翌日、軽い荷で山頂を往復する。この場合、さらに1泊(合計2泊)を要することとなるだろう(電車の便もないので)。 ④②でふれた危険をあえて冒しても頂上に達する場合は、そのまま進路を先にとり、一ノ倉岳、谷川岳を経て天神尾根からロープウェーを使って下る選択肢もある。季節が後になると寒さは緩和するが雪質が硬くなり、上部の通過では危険が増すので、十分な経験と技量が必要だ。時間と準備を重ねれば、不可能ではない。 ⑤以上のように、この時季以降の有雪期の茂倉新道ルートはかなりむずかしく、この山域で主な雪稜(主稜線)に達するには相当の覚悟と条件が必要となる。その証拠に、尾根上には1本のトレースの痕跡もなかった。好んでこんなところに行く人はいないのだろう。 ⑥また蓬峠へは、土樽側からは行路のとりようがなく(尾根通しのルートがない)、こちらの山域から谷川連峰に登るのはまず無理(雪崩の危険が大きい)と思われる。 ⑦下りに、吾策新道上にトレースらしい跡を遠望したが、この新道から万太郎山、平標山に至るルートを、もう少し遅くに(例えば4月下旬や5月連休)考えてみる余地はあるだろう。気温が上がり、雪がもっと締まった時季が登山には適期だ。 ⑧今回の山行は中途半端に終わってしまったが、どのように考えても1泊では中途半端にならざるをえない以上、必然の結果の範囲に収まったのだと思う。 ⑨今回の山行には、別の意義を見いだしたい。まず雪山での幕営の楽しさ、季節のすがすがしさと山の静かさ、そして山岳景観の素晴らしさが経験できたことがある。 ⑩訓練山行とは銘打たなかったが、訓練的な意味合いも経験できた。めったに使うことのない「ワカン」の使い方(ワカンは持っていくかどうかの判断がむずかしく、さらに適用時機の判断も微妙で経験を要する)や、止め紐の締め方の要領もあらためて学ぶことができた。そのほか、雪山への入山の際に、入り口を見いだすことから始まり、「ここだ」という行路に入るまでの大胆な開削が必要なことを、この前の訓練とは別に、学ぶことができたと思う。トレースのまったくない雪山では、入山口で敗退して帰ってくることが、未経験者の場合にはありうる。 ⑪翌9日の土樽発の上り電車が、1日に12時15分と15時22分の2本しかない(?)。後者では帰宅時刻が遅くなりすぎるので、前者を選ぶこととなるが、そうなると1泊ではおのずから今回のような矮小な山行とならざるをえない。 ●いざ、山へ 8日の早朝、天王台、我孫子から常磐線で上野駅に向かう。高崎線に乗り換え、さらに北に向かう。この前の1月の段階よりも、山面は白銀の度合いを増していた。雪がちらつくなか、水上で40分余の待ち時間で、信越線長岡行きに乗る。土合を過ぎ、長い新清水トンネル(13.5km)を抜け、土樽駅で下車した。備え付けの箱に切符と登山計画書をそれぞれ投函する。ここは無人駅だが、ちゃんとした駅舎を構えている。荷を整えて、駅を後にする。予報どおり、天気はいいほうに向かっているらしい、降雪もなくなり、空が明るくなった。関越自動車道の高架をくぐり、魚野川を渡る。高速道路を行く車の轟音が遠くから響いてくる。しばらく川沿いの道路は除雪されていたが、川上(蓬沢)に進むとすぐに雪道になった。雪かさが1mはあるだろう。ワカンを装着する。下ってきたスキーヤーのトレースだけが残っていた。 蓬沢にかかる橋を左岸に渡り、ここからが山になるが、入山口が雪に隠れてしまってまったくわからず、右往左往してしまった。吾策新道(万太郎山にT字にぶつかる尾根)と茂倉新道、さらに西尾根の3本が眼前にあって、どれなのか一見しては同定もできず、地図を取り出して当てをつける。方角を決めて雪面を登り上がると、広い平坦地に出た。雪原に1本のトレースができる。シラビソの幼木の生える、山の袖地帯に着いた。まぶしく日が射す。歩き始めてから1時間半が経過していた。ひと休憩を入れて昼食とする。 先頭を交替しながら、ラッセルが続く。20~30cm落ち込むが、この山域の雪質は水分が多くて重く、比較的楽なラッセルだった。ルートに不安を生じたが、迷わず見当をつけた方角に進路をとることとした。万太郎沢らしい沢部分を渡ると、小さな建物が雪の下に見えた。尾根と並行する雪原のゆるやかな登りのあと、尾根に取り付くべく左に進路を切った。枝尾根(支尾根)だ。傾斜が増し、ピッケルが支点となる本格的な登高となった。ラッセルを交替しながらここをどんどん登る。葉を落とし、雪を枝に抱いたミズナラ、ブナの気持ちのよい混交林が慰みとなる。 途中、空洞となった雪の亀裂を越えられず、トラバースで抜ける。やっと尾根が近づき、先頭から「高度差にして20mで尾根」との声が届いた。最後の雪面を行くと、尾根に出た。ここから傾斜は弱まり、尾根を30mほど登ったところに絶好の平坦地があった。すでに2時半であり、ここで荷を解くこととした。樹林が切れていて、周りの広大な眺望が得られる絶好の展望台だった。標高は1000mほど、登高距離は400m程度で、実質的には3時間半のアルバイトにすぎなかった。 ●静かなテント場での一夜 雪を踏み固めて、ダンロップのM602(6人用)を建てた。気温はちょうど氷点で、さほど寒くはない。車の音が遠来するが、このロケーションそのものは感動的といえるほど山岳らしく、幽玄さをかもすものがあった。「だから来るんだ」と言わしめる山の気に満ちていた。すぐ隣の西尾根が、武能岳にまっすぐ伸び上がる。谷川岳主稜線の上部はガスに閉じられていたが、ここまで来ると、さすがに雪深い山域の豪快な眺めに圧倒された。標高が1500m程度の北側に見える山にヒマラヤ襞が、その襞に横に走る亀裂が見えた。地図上にクロガネノ頭とかコマノカミノ頭と奇妙な名が付されているが、上越のマッターホルンと異名をとった大源太山などよりも、むしろ格好がよく、鋭鋒のように見える。素晴らしかったのは山ばかりではなかった。木々のたたずまいもおごそかで、葉を落とした樹林が実に清楚だ。その夜は、瓶つきの上等の焼酎、日本酒とウイスキーと並んだ。カキとイカの団子、それに大量の小松菜を入れて煮込んだナベで仕上げとなった。10時半前に就寝。夜中に起きて外に出ると、空一面に星がまたたいた。 ●下山、そして帰還 翌朝は電車の便数も少なく、登高を試みる意味もないと判断して早く帰る方針とした。6時起床。簡単な食事をとって、8時45分にテント場を後にした。尾根筋をそのまま下れば夏道だが、ラッセルのやり直しを嫌って、前日の行路を引き返すこととした。早朝のうちなら雪が硬いが、ワカンをつけた(これが逆効果だったし、膝を痛めるおそれがある)。登りの倍のスピードで下る。ゆっくり歩いて、11時半に土樽駅に着いた。今回のアルバイトの程度では疲労感もなかったが、納得する何かを得ることができた。12時15分に上りに乗り、水上で途中下車して、いつもの駅前の蕎麦屋さんで打ち上げとなった。帰宅は早い6時半ごろだった。 これで幸いとしよう。いつの日にか、ここを再登する機会があるかもしれない。
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