3月の山行

五龍
―ラッセルで力尽き、断念した登頂―



◇実施日:2008年3月20~22日(山中2泊)
◇参加者:
男性5人、女性4人
◇経路と時間:
20日 5.00我孫子---9.40/10.15神城駅---10.30/10.45五龍とおみ下の駅---11.20アルプス平駅・・12.05地蔵ノ頭・・15.10小遠見・・15.40幕営地・・・21.00就寝
 21日 5.00起床~6.45発・・11.30/12.30西遠見・・15.15幕営地・・・22.00就寝
22日 5.00起床~8.00発・・10.20/11.30アルプス平---11.00駐車場---18.00我孫子・・・18.50解散

◇携行装備:
〈共同〉テント2張り(スタードーム6~7人用、ダンロップV401)、マット5枚、ランタン2個(+ガスカートリッジ2個)、コッヘル大1セット+外ナベ大1個、ガソリンコンロ2台(+燃料2.5リットル)、雪スコップ3本、ザイル1本(45m)、スノーバー2本など/〈個人〉冬山用衣類一式、寝具、マット、食器、登攀具など
◇経費:
交通費(車代、高速代、燃料代)、テレキャビン(2000円/1人往復;荷物代込み)、食費、帰りの食事代などを込めて1人11520円
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Ⅰ  厳冬期の五龍岳、遠見尾根の魅力と登山計画について

●見どころなど
 
厳冬期から早春期にかけて(12月末~翌年3月)の五龍岳1)に、個人山行も入れると、本会では1995年以来、7~8回の山行を実施してきた。6割方登頂しているが、この山は、登頂しなくとも、登る過程で得られる山岳景観には絶大なものがある。
 1)五龍岳:五竜岳の表記もあるが、『コンサイス日本山名辞典』(三省堂、1974)に従った。
 小遠見を過ぎると展開する鹿島槍ケ岳から五龍岳にかけての光景や、五龍岳を後景にして尾根を貫通する遠見尾根の構図は実にすばらしく、また進行につれて左手(西側)には鹿島槍ケ岳の双耳が徐々に輪郭をあらわす。近づいてくる五龍岳が ◇(菱)形を並べ、迫力ある高所山岳の雰囲気をかもす。鹿島槍ケ岳にかけての雪稜は豪快で、特有のヒマラヤ襞が見事だ。鹿島槍ケ岳の天狗尾根や東尾根、爺ケ岳の東尾根のプロフィールも手にとるようだ。これらが手に取るように、まさしく一望なのだ。
 頂上では、劔岳から穂高連峰に至る北アルプス中核部、遠くには富士山や、浅間山と八ケ岳連峰、長い連嶺を横たえる南アルプスが視界の中にある。360度のぜいたくな展望が待っている。眼下には黒部湖への落ち込みを俯瞰し、唐松岳から白馬岳への峰の連なりも目視できる。鹿島槍ケ岳へのスリリングな鋸状のリッジも記憶に残るだろう。
 小遠見から中遠見までなら、雪山の経験の浅い人も経験者のもとに随行し、雄大な景観が掌中にできる。運がよければ登頂がありえるかもしれないし、五龍山荘までなら進路を伸ばすことは十分に可能だ。また、もっぱら遠見尾根をどこまでも尾根通しに往復し、頂上までほぼ夏道と同じなので、ルートで迷いを生じることはまずない。どこからでも引き返すことができ、個々の山行者の都合や好みで到達点をどのようにも決めることができる。


●山行の困難度・危険度や注意すべき箇所
 
その一方で、登頂を目論む場合には困難な点がいくつかある。第一は、傾斜こそ弱いが、長い遠見尾根を進まねばならない点だ。また多雪地帯とあって、かなりな雪を覚悟しなければならない。尾根通しなので雪崩の危険はほとんどないが、もしあるとすれば白岳への上りの斜面だ。この時季に、ここにはしばしば斜め上昇横断のルートがつくが、これは雪崩を誘発する危険がありそうな気もしている。より確実なルートは、白岳へ通じる稜線まで遠見尾根側の辺縁を直登し、ここから白馬岳側への雪庇を避けつつ、できるだけ頂稜部に近いところをルートにとって白岳まで登るのがよい。
 雪面の把握と観察眼もいる。雪面下数十cmの層状の状態を読むには、過去1~2週間の降雪歴と天候歴(とくに気温の変化と日照状況)の把握が必要だ。
 そのほか通過で危険を伴うのは、五龍山荘から先、頂稜部に至るまでのトラバース道上だ。ほぼ夏道だが、厳冬期に先行者がいなければルートは消えるので、広大な斜面のトラバースにおいてルートファインディングを誤る可能性がある(目標物などがないのでなかなかわかりづらい)。また3~4月で雪面がクラストしていたときは、アイゼンによる雪上歩行(フラットフッティング)が完全にマスターできていない人の登高は危険だし、そうでなくとも、万が一のために滑落時に備えてザイルの使用が必要となる。ここでの滑落死亡事故報道の記憶がまだ残っているが、私たちの過去の3月における山行でも、ピッケルが立ち込まないほどクラスト面が硬く、その雪面で滑落を生じてザイルで確保しえた経験がある。肝心なのは、このクラストは厳冬期にはおきず、3月中ごろから4月にかけて、日によって寒暖の差が激しかったときに現われる点だ。
 さらに、そこのトラバースを終わったあと、頂稜部に向けて左に旋回し、主尾根に登るところがかなりの急傾斜で、無雪期でも注意が必要な箇所だ。初心者がいた場合は、ここでも30m以上のザイルがあったほうがよい。もう1か所、頂上直下の岩につけられたプロテクションを以前に見たが、ほんの数m程度、規模は小さいが岩の出っ張りがある。頂稜部に上がってしまえば、風を別にすると危険はほとんどない。
 幕営地点の設定のこともある。遠見尾根を上部に上がりすぎると、テントを背負っての下りが長くなるので不経済で、程よいところ、中遠見くらいが適当な幕営地点となると思う。朝夕の景色を眺望するためには、尾根の真上がよいが、強い北西風に備えていくぶんか樹林が周囲にある地帯が安心だ。幕営地は細い尾根上のほうが、ブロックの切り出し、サイトの掘削・造成は容易だし、吹雪の際のテントの吹きだまりによる雪での埋没も少なくてすむ。なお、1~2月にはさすがに日本海に近い山域であり、猛吹雪になると行動はとれなくなる。テントでの待機を強いられるので、しっかりとした幕営、雪上生活技術が必要なことはもちろんだ。雪洞が掘れなくはないが、今回幕営したような細い尾根では東側は雪庇の張り出しと急斜面のため避けたいし、かといって西側には掘れない。適所は中遠見の太い尾根上の、樹林にかけての積雪帯の東側斜面だろう。ただし、吹雪時にはそれもむずかしく、テントが有利だろう。


●今山行の反省点 
 
標高的には、地蔵ノ頭が1515mで、五龍岳山頂の2814mとの差は1300mだ。これを2日かけて登るのだから、登山自体として体力的には困難ではない。ただし、今回の山行ようにラッセルを延々2日間1つの山行部隊で行った場合、時間(日程)が限られていたりすると、時間切れなどであっけなく幕切れということもありうる。ずるいようだが、他の入山者の心理も推理し、先行者のトレースが期待できそうな日程に山行日を設定するなどの考慮もあってよい。同じく、私たちは雪の質を推測してワカンを携帯しなかったが、これもどちらかというと作戦間違いだったかもしれない。さまざまな困難度を決める要素とその重要度の読みや考量も甘かった部分がある。そして、もし本気で登頂を目ざすなら、それなりの「タイトな」登山行動予定をきちんと決め、実践しなければならないことを、いまさらのように痛感している。
 私たちが登頂に貪欲でなかったこともあるが、この山行日程で私たちが到達しえたのは、わずかに西遠見の頭部までだった。この前の「茂倉尾根」といい、2回続けての敗退ではある。いずれの条件をも満たし、あるいは条件が欠けた場合には無理を通すほどの体力の余裕も登頂欲もなく、ある推定値をもとに少ない主体的な条件・装備などを取捨選択して作戦を立てる。だが、それがはずれた場合には進行が限界を画される。
 もっとも、それ以外の要因もいくつかあり、次回にはもう少し小利口に山に取り組むべきだと考えている。それにしては、初心者も同行しており、全員でほとんど同等にラッセルを経験し、ルートを切り開いたことなど、経験上の意義はとても多く、濃かった。メンバーは若くはなく、何度も「また来年がある」を繰り返すわけにいかないのが実情だが、無益な労苦ばかりではなかったことを信じる。
 今回の山行の失敗(登頂できなかったこと)は、①計画の実施上の甘さ(大ざっぱさと時間配分・設定の誤り)と②心理的な甘さ(登りたいという欲求を欠いたこと)に尽きる。①は主にリーダーの責に帰されるが、②は全員に責任がある。それと、あえて追加すれば、存分な眺望が最終到達点までで得られており、それで目標を達成したと思うメンバーも同行したことだ。つまり、さまざまな目標や思い、願望が混在していたため、1つのパーティーの中でこれらが登頂という高い1つの収束点に行動体系でまとまりえなかった点だ。しかし、それはリーダーの巧みな誘導で修正することはできたはずだ。その点の反省がリーダーに課されていることを自覚している。

 
Ⅱ 今山行のあらまし

●計画の実施に動く
 
例によって春先でもあり、天気予報が日々変わっていった。前日の3月19日の時点で、実施1日目の天気は好ましくなかったが、回復基調にあるとの天気係のKwさんの報告に気をよくして、実施を決めた(小さな移動性の低気圧の影響による一時的な天候の悪化で、あとが真冬の西高東低型になる回復ではなかったから、回復後に山岳気象が厳しいほうに移行する可能性を否定しえた。この時季に過去に山岳遭難に直結した2つ玉低気圧には注意した)。20日朝5時に、女性4名、男性5名の合計9名が我孫子駅前北口に集結した。ミニバン型自家用車2台の後部は、荷物でいっぱいとなった。
 柏から高速道に入る。途中、高速道の選択を誤ったが、大きなロスなく豊科インターを出た。糸魚川に沿ってバイパスを北西に走る。やがて国道48号線に合流し、進行左手のまだ氷結した中綱湖に目をとめた。雪のブロックが道路の脇に残るようになり、やがて田畑が一面真っ白に変わった。9時40分、神城駅前に着いた。小雨が降る。駅員さんに断って駅舎前の軒下スペースを使わせてもらい、ひととおりの荷作りと共同装備の受け渡しをすませた。ここから1kmほど、「五龍とおみスキー場」のテレキャビン乗り口の駐車場まで移動し、ここで車を乗り捨てる。5年前にはこの駐車場は満杯で、さらに下の駐車場にかろうじてスペースを得たのだったが、幸い今回は十分な駐車スペースが空いていた。最近、スキーヤー・ボーダーの数がガタ減りなのが顕著で、テレキャビンで上昇中にも、眼下の雪面上に閑散たる様を感じた。
 上の駅(アルプス平)でテレキャビンを降り、すぐさま登山となった。サブリーダーのOsさんを先頭にスキー場に沿って緩傾斜地を30分ほど行くと、地蔵ノ頭に出た。残念ながら小雪の舞う曇天で、ここからの五龍岳、白馬岳方面の眺望はなかった。いくぶんか風が強まった。頭から少し下って、再び登り返し、ここからが本格的な登山になる。トレースは風雪にかき消されており、出だしから行路の白紙検索が始まった。確実に進路を伸ばすが、しだいに気温が下がり、吹雪模様となった。視界は数百mだ。山の基部に近く太い尾根で、初見参だったら進路に不安を感じる地帯だ(写真1)。やがてリッジ状の雪稜となり、雪庇側を避けながらのルートファインディングが続く。5~10分でラッセルを交替しながら、膝上までの深雪をかき分けて進む。途中、撮影が目的という単独行者をやり過ごす(彼はリンホフスーパーテヒニカという最上機種を持っていると話した)。小遠見の数百m手前の尾根に登り上がると、にわかに視界が開けてきた。その先をTdさんが行くが、その重み(荷物がとくに重かった)のせいか、しばしば腰までズボッと埋没した。足を抜き、体勢を立て直すのに一苦労している。小遠見の手前で、ここにかかる雪庇と山との間の雪面に数mの大きな亀裂を目にした(写真2)。
 小遠見の頭をカットし、右に回り込むようにしてルートを先に伸ばす。そろそろ、といった気配がみんなに出てきたのを感じるが、どうしてもこの先の雪稜上までは上がっておかねばならない。「行動停止」の声を飲み込んで、先に進む。小遠見から30分弱の雪稜に上がり、そこを50m程度進んだ深い尾根上を指差しして、ようやくその日の進行を打ち切る決断を告げた。みんなの顔がほころぶ。早速、協力してテント場の造成にかかる。3本のスコップがフル稼働し、1時間弱で2張り分のサイトができた(写真3)。ブロックも適度に積み、テントを建て、立木からプロテクションもとった。2003年の山行のときにも、この辺が幕営地となった。雪はほとんどやみ、好天に向かいつつあった。標高は小遠見を少し超え、2000mをわずかに出たところだ。
 その夜のメニューは「豚肉と白菜の柚子ポンシャブ」だった。9名がテントに入り、早速に宴会が始まった。出てくるわ、出てくるわ、今山行にかけたメンバーの意気込みを、携行した飲み物とツマミで推し量った。ガソリンコンロ(MSRウィスパーライトインターナショナル)の火力はすばらしく、暖房にも威力を発揮した。ICI(石井スポーツ)オリジナルのスタードーム型6~7人用のテントは、ダンロップの8人用(V-8型)に匹敵すると思われるほど広く、天上も高く、快適な前夜祭を施行することができた。女性用には10年以上使い込んできたダンロップV-4型を使った。換気に少し開け放ったテントの「玄関」口から、輝く大町市の夜景が俯瞰された。光がまたたき、空気は清澄の度合いを増しているように思われた。話が尽きないが、8時半をもってお開きとし、9時には消灯した。強くはないが、夜半を通して風がテントを揺すった。


●五龍岳を目ざす
 翌朝、テントを開けると、下界には薄く雲がたなびき、はるか南方の山々(浅間山や八ケ岳連峰、南アルプス=赤石山地)との境は紅紫色に染まっていた。鹿島槍ケ岳はまだ朝ぼらけの眠たげな表情だ。朝日を真正面に受けつつある五龍岳が、ドカッとそばだち(写真4)、新潟方面の山々(雨飾山、日打山、妙高山、高妻山や黒姫山など)が見慣れた山容を見せる。青紫色に沈むこの時季の山々の姿は、妙に記憶に残っている(写真5)。天候は格段によくなっているが、回復がやや遅れているようだ、風が頬を打つ。
 寝過ごしてしまった。あれほど就寝前に確認し合っていたのに、気づいてみたら、昨日のラッセルの疲れが、若くはないメンバーの体力を侵蝕するようになっていたのだろうか。4時半起床、6時出発の予定が30分ずつ後ろ倒しとなった。湯をわかし、簡単に朝食をとったが、意外に時間がかかってしまった。それにしても遅すぎる出立だった。
※登頂を最優先に目ざす場合には、よりタイトな実施への行動計画を確実に厳守することが必要だ。朝立ちは相応に早くし、朝は水作りくらいで、余計な時間はかけずに、食事も事務的にすませるなどの、目的的行動に徹するべきだった。早朝の雪面は硬く、埋没をしない歩行がよりできる好ましい状態だ。一方、滑落という点では、昼前後のゆるんだ雪質のほうが危険は小さく、フラットフッティングの技術もいらない。どちらをとるかだが、どっちみち山頂付近では昼前後にはなっている。
 外はすっかり明るくなっていた。サングラスを装着し、テントの前で集合写真を撮り、登攀具は小ザックに入れ、アイゼンは装着しないで出発となる(Tdさんはザイルなどが入りきらなくて、本ザックを再び背負った)。いきなり、ラッセルとルート作りで行動が始まった(写真6)。先行者の蹤跡をまったくとどめていない雪面に本格的に進路を伸ばすのは、この山では今回が二度目だ。見えない「トレース(トレール)」が雪面下に伏在しており、急激な落ち込みをおこしては、トレースの脱落から行路を探索し元に戻す。上り下りを繰り返しながら、しだいに高度を上げ、かつ五龍岳にいよいよ近づく(写真7、8)。本会での会員歴は若く、ここがはじめてなのに、Abさん、Tmさんのがんばりは、頼もしい限りだ。一方、山行歴20年以上のベテランのNkさん、Mkさんも負けじとがんばる。鹿島槍ケ岳の北峰の背後に隠れていた南峰が、背後から横にずれるように姿を見せてくる。中遠見あたりで、やっと双耳が左右に並ぶ。この構図は、「両翼を引いたような」と表現される。遠く南西には、餓鬼岳、燕岳や、大天井岳らしい山々が横顔を見せた。遠見尾根の東側にできた大きな雪庇の上を回り込むようにして進むわが登山隊を、後方から何カットも撮る。
 太くなった尾根の大遠見で、小柄の女性メンバー・Ibさんのラッセルが暗礁に乗り上げた。大きく行路を別の方向にとり、なんとか進路を見いだす。無雪期には、太い尾根上の水路状にえぐれた中央部が行路となる。池塘があるが、そこはまっ平らに雪で埋まっていた(水底からの積雪高は5~6mにはなると推測される;写真9)。そして、この尾根にしては比較的長い、ダケカンバの混じる斜面を登り上がると、最後の頭部に連なる純白の脊梁だった。行路をそのまま水平に伸ばすと、この尾根上の最高部に着いた。西遠見だ(標高2268m)。白岳への上り、五龍山荘のある鞍部、五龍岳の南面の岸壁が眼前だ。菱型の岩が至近の距離に手に取るようだ(写真10~12)。


●到達点
 雪稜上をちょっと下がると、とたんに風が弱まり、みんな、座り込んでしまった。同時に真剣味も失っているかのようにも見えた。なにか意味ありげに含み笑いを浮かべている人もいた。締まりがない感じの一方で、表現のしようのない、とても悠揚な、温和な表情が全員にあった。この間のラッセルにもかかわらず、だれ1人にも疲労はみられなかったが、私は内心、一瞬あせりを感じた。そして、自然な、吸い込まれるような収束だった。それは、「ここで終了」との気持ちとともに、それを自分たちに指示した、もはや不可逆的な感情だったようだ。「それは、まずい!」 リーダーとしては、山頂を、と強力に主張してきて、「ここでいいのか!」という気持ちが湧きおこったし、目標地点からすれば、少々達成度が低いのではないか、とメンバーを叱咤したい気にもなった。せめて白岳(2531m)か、五龍山荘まで行っておきたかった。
 これらはほんの十秒ほどの心の中での自問自答にすぎなかったが、事態を察した。みんなが平和的に選び取ったあとの、揺るぎのない感情は変えようがなかった。この場合の雰囲気の支配のしかたは、全員ではないにしろ、多数の者が退却を選択することとなるだろうことを最低でも覚悟させた。そして、とりあえずは、ここでしばらくの休憩を告げた。ひととき、私は結論を先送りしたのだった。30分ほどの休憩の時間を告げたかもしれない。絶好の展望台にいたとはいえ、まだ進行中であり、長すぎる時間だった。それは、ここから下ることを半ば強いられた、覚悟の告白を意味していた。
 状況は察したが、質問を投げかけた。選択肢として提示した「五龍岳往復を“あえて”希望する方は」に対して、簡単に総意は決した。「白岳まで」もいなかった。一方的に事は決まった。ここで前進を断念する、という8名での選択となった。リーダーを除く全員の選択だった。仲間を直視できず仰ぎ見た空はとても青く感じた。
 西遠見に到着したのが11時半。この地点から白岳山頂までに要するのが「1時間」と言った私の見込みに対して、あるメンバーから「1時間半」という時間が対置された。なるほど、白岳への上りでは、表層雪面の剥離が見えたし、ここまで以上の深雪上のラッセルが待っている。見かけよりは時間がかかるだろう。妥協して1.5時間としよう。さらに、そこから山荘まで10分程度はかかる。そして小屋から五龍岳山頂の往復に、雪のコンディションはいいから、意外と簡単に達することができるかもしれず、頂上での眺望の時間も入れ、ざっと見積もって3時間としてみた。その結果、西遠見のこの地点に戻ってこられるのが、いったい何時になるのか。ややこしい計算はいらなか
った。すぐさま察した。日が長くなったとはいえ、日没ぎりぎりか、もしくは宵闇の降りる時間がほぼ推測された。
 さかのぼっていえば、出発の時刻からして、この日の行程は間延びしていたのだ。だが、それはそれだ。昼ごろ登頂する機会を失うとそれっきりとなるヒマラヤの高所ではあるまいし、いつでもまた来る機会はある。1996年1月1日に登頂したときは、10時過ぎには五龍岳の山頂にいた。西遠見で撮った写真も、白岳への雪面が払暁の赤紫色を帯びていた。日が長いといっても、軽く3時間はそのときよりも遅い。そもそもの出だし、計画実施への熱意や慎重さが不足していた今山行だったし、別の表現では甘かったというしかない。状況は、ざっとそんなところだった。
 事は決まった。休憩の時間を思い切り延ばした。西遠見と白岳の間の鞍部へ下る。Abさんが下りてきた(写真13)。この鞍部にも雪庇がかかるが、今いる西遠見の北西に張り出す雪庇は白岳側から見ると、とても立派だ。それにしても、西遠見に漫然といる自分たちが、巨大な雪庇の上にいることを気づかないでいた。仲間がカメラに向かって手を振る(写真14)。


●2日目の夕げ、そして帰還
 五竜岳の登山は西遠見で終わった。せめてもと、写真にだけは存分に収めて、ここを後にする。そのまま、来た道をゆっくりと下った。しばしば足を止めては周囲の景色を楽しんだ。撮影にいそしむ人もいた。途中で、この山域に来た数人とつぎつぎと行き交う。最初に会ったのは3人のパーティーだった。私たちがラッセルしてつけた行路を最初に踏む人たちだ。「雪の状態はいいので、十分登頂が可能だと思います、気をつけて」とエールを送った。中遠見を通過したあと、私たちのテントで本会の名を認めて、「我孫子の鈴木さん」の名前があがった。登山倶楽部のほうの鈴木菊雄さんのことだ。彼らは、アマチュア写真家で成る日本山岳写真集団「四季」のメンバーだった。あいさつをして下る。めいめい、景観を楽しみ、雪上の歩行を楽しみながら下った。
 3時すぎにテントに帰着した。なんだか、みんな疲れきり、放心しきった顔つきが隠せなかった。KwさんもTdさんも、Abさんも目がうるんでいた。男性ではOsさんだけが、五竜岳の登頂経験があり、いつもながら冷静なように思えた。女性の4名は所作なくめいめいが時間を過ごした。Ibさんだけは元気だった。この時間は大切だ。
 テントに入ったのは、夕闇が降りはじめたころだった。疲れがなにに由来するのかは尋ねなかったが、肉体の疲労ばかりではなかったと思う。重大な局面を選択する判断を行っても、安直な道の判断を行っても、個々人の意思がそのパーティー全体の選択に組み込まれていたなら、選択した結果に対して責任意識は逃れられない。しかし、それをわざとかき消すような宴会の盛り上がりとなった。私は内心こだわったが、そもそもの元凶はリーダーにあるのだから、強いことは言えなかった。本会のいいところは、だれをも責めないことだ。もういいではないかと、言外に伝わる切実なものがあった。夕食は、2鍋に作ったシチューだった。その夜は10時まで時間を延長した。大町市の夜景はますます光輝の度合いを増していたように思われた。
 22日は5時に起床した。残りのメモリーを使い切って、明け方の山岳景観をカメラに収納した。富士山はとうとう姿を現さなかった。起床から3時間もたった8時の出発となった。幕営地に別れを告げ、遠見尾根の脊稜からすぐ、小遠見までの鞍部を中景に、大きなダケカンバを添景にNdさんが撮影に余念がない。小遠見の先の細いエッジ状の雪稜を越えると、入山者を目にした。つぎつぎと行き交い、10人以上が登っていった。これでも、最近の登山事情は雪山への入山者の減少を伝えている。
 休憩時間を除けば、わずか2時間でアルプス平に着いた勘定だ。テレキャビンに収まり、標高差800mを下った。あと、2台の車に分乗し、帰路を急いだ。大町駅前の「がんこ蕎麦」に寄ろうとしたが、この店がなくなっていることをMkさんから伝え聞いた。大町市の街中を歩き、老舗の「小林」という蕎麦屋さんを訪ねながら、いやに人通りの少ないことが気になった。田舎の過疎化が進んでいるに違いないとの理解に至った。山ばかりではない、「そして、だれもいなくなった」というシーンが、あちこちの町や村に出現していくのではないかといささか心配になった。大町市の商店街にも、ほとんど人はいなかった。常念山地が高々と横たわっていた。知っているはずなのに、同定のきかない山々ばかりだったのは、なんだったのだろうか。
 帰りは中央道をとった。若干の渋滞にも巻き込まれて、我孫子帰着は予想の3~4時を大きくはずして、6時になっていた。時間設定がどこまでも甘かったことを感じる今回の山行だった。
 今春の山行を、1つの反省材料にしよう。あまり時間にゆとりはないが、来季、気持ちと健康が持続していたなら、いくらかは満足のいく山行につなげたいと思う。


1日目。視界は不良で、進路の不安が出そうだ。左側が雪庇状に切れ、右側にルートをとった。幸い、天候はこれからしだいによくなっていく。
小遠見から来し方を振り返る。近くの大きな穴は、クレバス。ここを境に、右側はいずれは谷側に崩れ落ちる。左側が五竜岳だから、左側から右側(大町市側)に向かって季節風が吹いたことがわかる。しかし、左側のさらに奥(北側)は劔岳方面だから、それでも雪は少ないとすべきだ。遠くの黒点は、カメラを持ち、この日唯一出会った山行者。

翌朝、テント場近くから、妙高山方面を見る。雨飾山、日打山、妙高山、高妻山の順。下界は白馬村。
2日目の早朝、出発前にテント場の近くから、朝日を受ける五龍岳を望む。五竜岳の右側が白岳、その手前が西遠見、さらに手前が大遠見。連綿と尾根を連ねる。

テント場。小さく、樹林のある尾根上を選んだ。見晴らしも最高によかった。

2日目、テント場を出てから早々のラッセルの様子。脊稜部を乗り越えて、ルートを探索するわれらが隊のメンバー。こういうのが延々と続く。
五竜岳の全景。遠見尾根が五龍岳に通じる。進行につれて大きくなるのが、励みとなった。
中遠見への上り。この尾根にしては、比較的大きな上りだ。右側に雪庇がかかり、左側に進路を求めた。ダケカンバが美しかった。本隊の連鎖が進む。
さらに五龍岳が近づいた。中遠見のあたり。尾根が太くなると、ルートどりがむずかしくなる。このルート上の下部には、夏には池塘がある。
五龍岳から鹿島槍ケ岳にかけての稜線から薙ぎおろすヒマラヤ襞。今年は規模が小さかったように感じた。ソフトクリーム状とでも表現しようか。谷川連峰など豪雪地帯でみられる。
さらに五龍岳が近づく。5つの菱形がはっきりとわかる。
西遠見での力強いわが隊のメンバー。雪稜上では風が強かった。五龍岳を背景にしているのが残念だった(本来は、山頂で劔岳を背景に収まっているはずだったのだが)。
西遠見から白岳への鞍部。ここを中景にいい写真が撮れる。ここまで下ったが、雪はさらに深くなった。ここをそのまま進み、左に直角に折れて白岳に登る。
この日の到達地点の西遠見の頭部。安全だと思っていたのが、実は雪庇の上だった。ここの雪庇は特徴的だが、この規模でも今年は小さかった。

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