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タクシーを降りてから少し上流に進んだところ。荒海川右岸を伝う。ところどころにコンクリートの堰が残っていて、人の行き来した往時の鉱山跡を偲ばせる(後出の写真参照)。
15年前には、この少し下の川ぶちで、20人もで芋煮鍋を囲んで、大々的に宴会を開いた。その跡を横に見て、すぐ上の地点だ。 |
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二度ほど徒渉して上流を目ざす。この川幅が狭まったあと、傾斜が強まる。しばらくは荒海川の源流域の左岸を行く。清水が流れ下る。夏なら顔を浸し、喉を潤したいところだ。ゴロゴロとした石が登山道を埋めているところもある。ところどころ雑木が登山道に突出して、上りでは注意しないと顔をぶつけそうになる。危険地帯はほとんどないが、登山道の傾斜は強く、あまり一般のハイキング向けの山ではないかもしれない。ロープが張られた箇所がある。 |
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峠までの間、登山道から南側に眺望された、荒海山と思われる大きな山塊。目標地だけに雲がかかっているが、山頂付近の山容がだいたい想像できる。ここから、「おおっ!」と感じるほどの高みにあり、なかなか大きい峰を擁しているのがわかる。 |
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長かった尾根を進んで頂稜部に取り付くあたりで、とうとうさっき見ていたガス(雲)の中に突入する。頂上まで1時間弱、樹高が落ちるところから、左側の斜面が切れ落ちる細い尾根上のルートとなる(ヤブで隠れていて、その状況のスリリングさはほとんど感受できない)。傾斜は急峻になる。ここは3月、ナイフリッジになるといい、そこを登るんだそうだ。しかし、リッジ上はいいが、登山口から峠までの沢地帯は、雪崩の心配もありそうだし、どんなふうに進めばいいんだろうか。もちろん、別のルートがとられるのだろうが、冬にこの山に登るのには苦労が必随のようだ。 |
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最後の、ササと低木に激しくおおわれたやせ尾根を進むと、高度計はその上で1600m超を示した。荒海山の山頂だった。頂上は正確には1580mで、今朝、北千住で高度を合わせてきたのからすると、20mほど低く、つまり気圧が軽く出ている。天候は低気圧のほうに移行しつつあることを示している。頂上はササにおおわれているが、天気さえよければ360度の展望が約束される。この山を、最後には絶賛することとなるが、この山をなぜ登るのかの意味を求道者よろしく上りでずっと考え続けた。次の機会にこの山があがった場合も、担当していいよ! と下りにリーダーが言った。気に入ったというのだ。 |
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山頂まで2分のところ、登山道の左側脇に立つ避難小屋。わずか2畳ほどの床面積だ。そこに観測器具などを入れた箱が置かれてあり、横になるスペースはない。が、非常の場合に安全だけは得られる。
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八合目あたりの林の切れ間から、来し方を望む。向かいの山との間の尾根の最低部が峠だ。ここを右に進んで下山するが、上りでは真っ青だった空がしだいにどんよりとしてきた。 |
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下り切る少し手前の、荒海川右岸を登山口に向かう。登山道は整備されているとはいえないが、さほど悪い道でもない。そんなことを言うと失礼にあたるだろう、急な傾斜のところなど5~6か所にロープが張られていた。登山道管理者の存在をありがたく意識した。このあたりにも、鉱業所あとの残骸がわずかにみられた。人が生活していたことが、遺跡のようで、しかも同時代の人間の生活の跡が残っていて、なにか哀しい。 |
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八総鉱山の鉱業所跡を刻印する看板。徳川時代から開坑され、昭和44年に閉坑となったという。ここは縦坑で、ニッケル鉱、亜鉛鉱などが採取された。最盛期には家族を含めて4000人がこの荒海川の両側に沿って住んだという。現在は、ここには生活人は1人もいない。しかし、まだ立派な小学校がある。ここがキャンプ地となっていて、本会でもここを使ったことがあるが、最近、神奈川県の遠隔施設として買い取られたようだ。使用目的の変更とともに、模様替えが行われていた。 |