■実施日 2009年9月19~21日(山中2泊)
■参加者 男性5名、女性1名(合計6名)
■経費 我孫子~甲府(鈍行)---往復で約5000円
甲府~広河原タクシー代---片道16000円×2=32000円
テント場代---1人・1泊500円、甲府での打ち上げ代、食事代を込めて、合計約13000円
■行路と時刻
9/19(土) 4.39 天王台・・4.42我孫子・・新松戸・・立川・・8.38/9.00甲府発・・10:30/10.55
広河原・・11:25白根御池分岐・・12.00/12.15第一ベンチ手前(昼食)・・12:50第二ベンチ・・
13:40/13:50水場・・14:00白根御池小屋のテント場(幕営・・20.10就寝)
9/20(日) 2:50起床/3:30出発・・6.00バットレス基部・・7.00ごろ撤収~9.30八本歯ノコル・・
11:35/12:00北岳山頂・・12:45/13:15肩ノ小屋・・15:20テント場(幕営・・21・00ごろ就寝)
9/21(月) 6:00起床/8:00白根御池・・10:40/11.00広河原・・12.15/13:18甲府・・17.00我孫子
■装備
○生活共同装備:テント(ICIスタードーム)6~7人用1張り、マット2枚、らんたん2台
(ガス仕様、LED)、こんろ2台(ガソリン仕様、ガス使用+各燃料)、コッヘル-チタン製/大・2枚重ね
ビニール袋(各自/大小数枚)、トイレットペーパー、ライターなど
○生活・行動個人装備:雨具、衣類(フリース着1枚、カッターシャツ、Tシャツ/半袖など)、
寝袋、帽子、手袋など
○登攀装備:ザイル2本(どちらも50mでφが10.5mmと10mm)、登攀器具類(シートハーネス各自、
スリング25本、カラビナ25枚、クイックドゥロー〔ヌンチャク〕10本、ハーケン各種+ハンマー、
登高器〔ユマール〕4セット)、ツェルト1セット
■食事計画
19日・・・昼=各自食、夕=レトルト食(カレーなどとご飯)
20日・・・朝=食事なし(行動食)、昼=各自食、夕=炊きご飯+野菜炒め
21日・・・握り飯/お茶漬けなど、昼=各自食
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■山行の概要
北岳の集中山行はこれまで2回ほど計画したが、天候に恵まれず、いずれも実施に至らなかった。今回は北アルプス縦走と大山行が2つ並び立つので、北岳からは「集中」を外した(「集中」とはグループ/会を挙げて取り組むとの趣旨なので、複数個の大山行が同時にあるのは不合理だから)。参加者は2003年の同行者であるThさん、Nkdさんと私に、この山行に照準を合わせて自己トレーニングを積んでこられたAbさんとSzさん、それに興味半分で参加のMhさんを加えた6名で固まった。
事前のロープワークのおさらい訓練を組み込むなど入念な準備のもと、山行計画の具体化自体は予定どおりに進んだ。出発日に小さなトラブル発生はあったが、それもクリアーし、今回は広河原から白根御池コースを選択して、予定よりも早く御池小屋のテント場に着いた。もちろん、池のほとりから、夕日の沈む際のアーベントの残照を鳳凰三山の峰に追った。また、仲間で、少しだけ前祝いの素朴な夕餉を織り込み、気持ちの高まりを確認し合ったが、就寝時刻は厳守した。
そして翌日、問題のない時刻、3時過ぎの出発も守った。ルート取りの間違いもなく、北岳バットレスbガリーのたもとまで、6名でやって来た。ここはハイカーの来ない、感動的な、クライマーの心が躍り出す場所だ。崩壊が激しく、基部の場所は以前よりも狭くなっており、何パーティーもが準備をするほどのスペースはなかった。不安定な姿勢で順番待ちをし、すでに到着して登りはじめる数パーティーを上部に見送ったあと、さあ、私たちの番だ、場所も空いた、準備をして登るぞ、と朗々たる気分になろうというときだった。私のサブザックから重い50mザイルを取り出したとたんに、異様さに気づいた。ザックが突然えらく軽くなったのだ。なにか足りないことをこの瞬間に悟った。逆さまにいくらひっくり返したとて、付属登攀具は出てこなかった。主要な登攀具はリーダーが受け持つというのが、この種類の登山における不文律だ。ハーケン類やハンマー、スリング、それ以外に自分用のハーネスなどを入れた一袋分を、ごっそりとテントの中に置き忘れてきてしまったのだった。
ある人は、簡易ハーネスを作って登ってはどうか、と提案された。確かに、他の5名が持ってきた登攀具類を寄せ集めれば、予定の登攀行は曲がりなりにもできたに違いない。Abさんがもう1本を持ち、ザイルは2本、きちんとそろっていた。とっさに、その選択もあることが脳裏をかすめた。だが、私はすぐさまそれを消去しようとした。逃げからではない。この推移に、なにか“つき”のなさを感じ、それを人の力だけで乗り越えることに対して、積極的に突き進んで行く気持ちに陰りがさしたのだ。また、私だけが抜けることも可能だった。
しかし、もともとの山行のリーダーがいなくなった(登攀リーダーのThさんはいたが)この種類の山行で、もしものことがあった場合のことが、どうしても山行を先に進める気にさせなかったという部分もある。「行ける人だけで行って!」という判断を、私はしかねた。
そのとき、登ることもありうるとの提案を、サブリーダーのThさんが他のメンバーに告げた。Thさん主導で登攀を開始する意思があるとの表現だった。ただし、自己責任で、と付け加えた。これが強烈な抑止力となった。こう言われては、初心者(初体験者)は申し出を自制してしまうだろう。だれも、その指に止まる、とは言わなかった。そのうち、どういう収まり方だったのか、その筋道がいまははっきりしなくなっているが、全体の意思が萎えた。バットレスはやめにすることになった。あっけない幕切れだった。
しかし、今回の山行には、いくつかのまずい伏線があったように感じた。ずるい考えかもしれないが、今回の山行は、登るようには状況が仕組まれていなかったのだという理解が、隊員の間に漂った。こういう経緯だった。・・・出発の早朝、Mhさんが天王台の駅でテントを自宅に忘れてきたことに気づいたこと、それ以外に、2日目の20日の朝早くにテント場を後にしたのち、一般道上の大樺沢の遡上で、私が体調がすぐれないことを2~3回口にしたところ、仲間から、「無理することはない」という声掛けをもらっていたこと(持病だけでなく、なぜかこれまでになく体力の上限値がこの日は低下していることを感じて弱気なことを言ってしまった)、またMhさんが登攀場所の基部(bガリー)まで行ったところで登攀の最終的な意志を決めると、確定の意思表示をずっと留保してきたこと、などの“不安定要素”があったことが、みんなの気持ちを後ろ向きに拘束した部分があった。それを知っている仲間たちは、意外とあっさりと撤退について同意を与えてくれた。すまないことはわかっていたが、「申しわけありません」と頭を下げるしか私にはなかった。なお、その装備を取りに戻るには4時間以上かかってしまうこととなり、これでは時間切れだ。もう1つのありようは翌日に順延することだったが、この選択はだれにも考慮外だった。
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●山行の模様
*9月19日(晴れ時々曇り/午後から晴れ)
山行前の打ち合わせの翌日(8月29日)、五本松公園で、参加者全員(+1名)によりロープワークの練習を行い、当日に備えた。気をもんだ天気も、実施の日が近づくにつれて、みるみる好転した。アプローチは最初、新宿発特急を計画したが、武蔵野線の始発を利用することに変更した。広河原までは一般車両は入れず、バスかタクシーしか運行していないので、ジャンボタクシーを予約した。これらの交通機関の確保をMhさんにバトンタッチした。
天王台で19日の朝、Mhさんに会い、挨拶を交わした。ところが、小さい荷物なので「?」とただしたところ、担当のテント一式を自宅に忘れてきたという。Mhさんには、後から急いでもらうこととして、他の4名は武蔵野線で予定どおりに進む。立川でThさんと落ち合い、乗り継いで甲府に着くと、改札口の外に立つMhさんのいつものにこやかな姿があった。新宿発2番の特急便で急行したとのこと。予約してあったジャンボタクシーに6人で乗り込み、広河原を目ざす。10時半前の到着で、この日の登山の時刻としては文句なかった。
広河原は大幅な河川工事の施工中だった。国民宿舎側への経路は遮断されており、ゲートをかわして北沢峠に向かう車道を100mほど進んだところから、吊り橋で野呂川を渡った。ここから北岳がはるか高くに仰視される。その先、広河原山荘の脇から登山道に踏み出す。ここからしばらくは、登山道が高木林帯を縫っており、私の好きな場所だ。30分余りで大樺沢ルートへの分岐となるが、以前とは異なる御池ルートを選択する。1時間の節約になる。急坂をしばらく登り、第1ベンチ、第2ベンチと順調に進む。第2ベンチにあった行路案内板のとおりで、そこから20分で急登が終わり、そこからは楽なトラバース道となった。この日の最後のおまけは、日射を受けて美しく浮き上がる苔の上を流れ落ちる、小さな清水だった。大汗をかいた体に、水が実にうまかった。そこから10分足らずで白根御池小屋に着いた。先を急ぎ、テント場を探すが、すでにかなりのキャンパーが陣取っていた。以前張ったテント場は藪が広がっており断念し、池のそばを選んだ。
小屋でビールを買い求め、この日の登高の疲れをねぎらい、さらに明日の登攀行の成功を期して乾杯する。太陽が北岳の方面に傾きかける前、この日最後の残照が鳳凰の峰々を明るく照らした。稀有な情景で、とても幻想的だった。みんなで草スベリの登山道を登って視界を確保し、カメラのシャッターを切り続けた。その後、テントに戻って、早めの夕食とした。カレーや牛丼など、個々人で持ってきたレトルト食品を温めた。しばらく談笑したのち、寒くなった外気を閉じ、8時過ぎに就眠とした。
*9月20日(全日快晴)
3時起床のはずだったが、だれかから「起床」との声がかかったのが15分前だった。流れにまかせて起きたが、約束前で、睡眠の妨
害はつらかった。食事はせず、そのまま装備と行動食をサブザックに詰めて、3時半に出発となった。
暗闇のなか、ヘッドランプをともして、水平道を二俣へと急ぐ。私たちより先行したパーティーが何組かいた。大樺沢左岸の登山道を遡行し、道を譲りながら進んだ。次々とヘッドランプをともした登山者が登ってきた。どのパーティーもバットレスが目標だった。2時間余して少し明るくなったときに、岩のかぶさる上部に回ってから、バットレス沢に沿って右折した。一般道とは様相が変わった。以前は、初めての経験だったこともあり、入り口付近はバットレス沢をそのまま行ったが、その右岸に小高い尾根が筋状に走っており、この尾根に沿ってクライマーたちが年余をかけて刻んできた行路が伸びている。藪を抜け、すでに枯れたお花畑の跡を見ながら、傾斜が増した尾根を進むと、眼前にバットレスの基部が現れた。なんと感動的な光景なのだろう。太陽の上昇とともに、紅褐色からしだいに灰色に色が変化する岩壁をじっと見上げた。近づくと、すでに多数のクライマーが群がっていた。バラスをかぶった尾根の下には、もろい土が混ざり、最後の基部までの移動では気が抜けない。Mhさんが基部の間近まで進んでいったが、そこも不安定な場所で顔がこわばりかけていた。「待機」を告げて、ひたすら順番を待つこととした。少しスペースを譲ってくれてもよさそうだが、先にいたクライマーたちは既得権益のようにして、立っているところを少しも動こうとしなかった。
ようやく順番が回ってきた。場所を確保しつつ、準備を始めようとして、ザックを狭いながら確保した地点に下ろした。ザックを開けてザイルを出した。φ10.5mmのもので、けっこうな重さ(2.5kg程度)がある。その瞬間、異様な感触が体を走った。あわてた気持ちで動作が急になったが、結果は同じだった。ザックには、行動食と雨具、水以外に、なにも残っていなかった。同じく2.5kgほどもある登攀の付属道具類が出てこなかったのだ。出発の際に、再度の点検をと考えた瞬間はあったが、出発前の前夜に私は準備はするので、自分の習性を信じた。自分を信じすぎたことを悔いたが、後の祭りだった。バットレスの登攀が暗礁に乗り上げたというよりも、丹念に計画を描き、参加者で準備を進めてきたすべてのこれまでの努力の集積が、この一件のために私たちの間でたちまち瓦解していった。それは仲間たちへのあまりな仕打ちだった。間をおかず、仲間に事態を告げた。登攀リーダーをお願いしていたThさんは、「それでも」行きたいという人を募った。彼は、この参加に、「自己責任」を要請した。これは、リーダーなき登攀の中止を決断することを求める発言だったと私は理解した。私への気づかいとも解釈した。ほかの隊員は、自分の装備を提供するから、簡易ハーネスを作って実施はできないか、と提案された。また、ある隊員は、ここまでの行路上で私がいつになく体調不良だったことを知っていて、原因をそこに求めて撤退のもっともな糸口にしようとした。この発言も私に対する気づかいだと感じた。私を責める発言はひとつもなかった。私は口をつぐんだ。そして、時間が経過したが、2~3分で結論が出た。バットレスの登攀は中止とする、と仲間たちから結論が出された。私はこれを全面的に受け身で聞いた。それを受けて、再度、謝罪した。いい年して、涙が流れそうになった。勝手だったが、二次案として、ようやく発言をさせてもらった。一般道からの登頂を目ざす。それ以外に選択はなかった。会山行の担当者としての責任がそうさせたのだった。せめて、会の山行として、登頂くらいは持って帰らなければ、と考えたのだ。
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一般道とは、八本歯ノコルから北岳山頂を目ざすルートだ。行路のみを記す。
【バットレス基部・・・大樺沢の一般道・・・八本歯ノコル・・・北岳主稜線分岐・・・北岳山頂・・・北岳肩ノ小屋・・・草スベリ・・・白根御池】
この中身は、写真にそば書きしたコメントで読んでほしい。いくら字数を費やそうと、バットレスの登攀が消えた以上、一般路からの登頂
の意味はとても空虚なものとなった。実際にも、登ってみて、そのことをいやというほど感じた。一般道からの登頂、下山を細かく記す元気がいまの私にはない。おゆるし願いたい。
「次回」ということがあるかどうか、いま私に断言する自信がない。健康面、体力面で、従来からの変化の大きさに動揺を生んでしまった気がするからだ。数年前まで、私は不遜にも、人1人を背負う体力を自分に課してきたつもりだった。その意識で山を登ってきた。その身体の状況には、変化が訪れたことを感じざるをえなかった。私よりも年長の諸兄姉に対しては申しわけないが、なにかいやな踏み板を踏み抜いてしまったという気がする今回の山行だった。でも、これで参るつもりはない。
最近紐解いた『ヒマラヤ初登頂 未踏への挑戦』(東京新聞)の著者、尾形好雄氏は私と同年輩だ。以前からこの方の活躍の端々は見聞きしていた。ずっと高みにいる方で、関心を持ってもいた方だ。彼がヒマラヤの高所(6千m)で動けなくなった隊員を、一人で背負って
数百m下山した模様がこの本に書かれている。体力、強靭さ以外に、人並み外れた運動能力の持ち主でもあり、家庭を犠牲に高所(ヒマラヤ)登山に邁進した数十年が克明に記録されている。その結果、彼も膝がぼろぼろになり、脊椎の手術を受けるなど、年取ってから運動器の健康障害に見舞われているという。人間には報いがあるということ、限界があるということ、年齢の壁があるということなど、さまざまなことを自分の状態とダブらせながら学ぶことができた。それを実践したのが、今回の山行だったと言えなくもない。また、今回のようなヘマは、若かりしころは、しようもなかった。気持ちの張りというものや注意力の減退もきっとあるだろう。
*9月21日(晴れのち曇り)
前夜、隣のバットレスの登攀を計画するパーティーにも気をつかい、早めの8時半の就寝とした。今山行では寒さ対策が十分でなく、夜半に寒さで目覚めて眠れなかった。この日はNkdさんから羽毛着を貸してもらい、おかげで暖かく眠ることができた。2時台に隣のテントのパーティーが出かけたのを気づいた以外はうとうとながら眠っていた。
この日も晴れ続けたが、予報では天候は傾きつつあった。6時前に起床し、昨夜の残りのご飯にふりかけをかけ、さらにお茶漬けにして食す。なかなかいけた。8時、御池小屋の前で集合写真を撮ってもらい、下山にかかる。登山者が次々と登ってくる。タイミングよく休憩地が同じだった人には、草スベリコースではなく、大樺沢からのコースを進めた。日本一のスケールのバットレスをぜひ見ていってください、とお話した。初めての北岳だという数パーティーが、うなずいてくれた。
予定の下山所要時間は2時間半だったが、十分休憩を取りながらも、2時間少しで広河原山荘に着いた。ここは幕営許可地でもあり、
野呂川の縁には萎えかけた大きなアザミの群生があった。気持ちのいい風を受け、北岳の思い出に付け加えた。
早めに着いていたジャンボタクシーの運転手さんが、往路と同じ方で、北岳・間ノ岳の景観に別れを告げる地点で停止して説明してくれた。Thさんと、正月の北岳山行のときにとった鷲ノ住山の行路を探しながら、奥深い南アルプス林道を楽しんだ。
甲府では、時間を延長して駅ビルの蕎麦屋さんで、昼食を兼ねた打ち上げとなった。楽しい仲間との山行も、終わりに近づいていた。
最近の私のヘマぶりを自戒し、今後の糧にしたいと思う。同時に、仲間から受けた温かなお気持ちの数々に感謝する。(了)
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吊り橋で野呂川を渡り、広河原山荘から登山道に踏み
出して大樺沢左岸をいくばくも進まないあたりの高木地帯。
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白根御池の5分ほど手前にある水場。苔が青色を花
ってみずみずしく、大汗を流した体においしい水だ。
豊富に流れており、御池小屋も同じ水系から取水し
ているようだ。
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白根御池小屋のテント場で。テントを建て、くつろぐ仲間
たち。キャンパーには、このひとときがたまらないのだ。
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白根御池から見上げた北岳バットレス第四尾根の
プロフィール(横顔)。驚いたことに、マッチ箱付近の
形状が明らかに一変していた。以前にはなかった凹
型部分がくっきりとわかる。
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白根御池のテント場と池。後景は鳳凰三山。中央の濃い
黄色の大型テントがわが隊のもの。いい時間が過ぎる。
以降、翌日にかけて、しだいに天気はよくなっていく。夜中
には星がまたたいた。
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明け方の6時半ごろ。bガリー基部に近づく。大樺沢二俣
まで水平移動して、さらに大樺沢左岸の一般道を八本歯ノ
コルまでの中間地点まで登った地点から、バットレス沢(小
さくてわかりづらいが、登山道の右手に見えてくる岩を回り
込むと沢になっている)方向に90度右折する。急な上りだ
が十分なトレースがたどっている。ここを30分余り登ると、
バットレスへの取り付き点となるbガリーが見えてくる。ふだ
んは見かけない情景で、胸の高鳴りを覚えるところだ。すで
に何パーティーかが取り付いていて、ほかのパーティーは
狭い地帯で待機を余儀なくされていた。私たちもここに並ん
だ。順番が来るまでじっと待つので、場所が悪いと、足がミ
シンを踏み出すから要注意だ。
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bガリーまでの最後の傾斜面。ザレている。 |
bガリーの基部。真ん中の岩の割れ目(クラック)が登攀ル
ートだ。手ごろなホールドがあり、フリーでも登れるが、登り
上がった30m上の傾斜したスラブにはホールドもテラスもな
く、ボルトとハーケンが残置されているにすぎない。ここでビ
レーを取るパーティーが多い。そこから、さらに上のバンド帯
まで20m程度あり、1ピッチで届かない。ここはツルベで登
るか、ロープを連結して1ピッチで登るのが効率的だ。今回
は後者をとり、ザイルを2本連結して、1ピ ッチでバンド帯ま
で 登る計画だった。しかし、「さあ登ろう!」という段になって
無残な(というか、もっぱら私の責任によるまったくお粗末な)
現実を知る羽目となった。ハーネスをはじめ、登攀用のリー
ダー担当分のギア類一式をテント場に置き忘れてきたのだ。
ザイルと個人の持ち物だけがサブザックにあった。
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バットレス登攀を断念して、八本歯ノコルから頂上を目ざす
ように方向転換をする。回れ右をして、いま来たバットレス
沢の右岸を下る。最初、第四尾根の西側に当たるD沢の
ほうに下り、うまく八本歯ノコルへの近道をとろうとしたが、
ザレがひどく、再度、もと来た道に戻った。振り返り見るバ
ットレスが、遠のいていく。烏帽子(三角錐)状の岩稜が第
四尾根、そのすぐ右側の尾根が中央稜。
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大樺沢から八本歯ノコルに向かう登山道を行く。右手
にはたえず大きなバットレスが立ちはだかる。こんな見
事なバットレスを見たのは、私も初めてだった。 |
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北岳バットレスの正面。バットレス基部から登攀終了地点
まで600mという、わが国では最大の岩場だ。とにかく、で
かい。そして、硬質の、明るい岩場が表面を向いて、鑑賞
に堪えるオブジェともなっていた。 |
北岳バットレスを少し斜めから見る。取り付いている
クライマーが点々と見えた。とくに第四尾根上に上がっ
てからの1ピッチ目のテラス(小さなテントが張れるくらい
な平坦地がある)には、10人ほどのクライマーがいた。
第四尾根の手前の第四尾根下部フランケピラミッドフェ
ース(マッチ箱ノコルの下、尖塔岩から懸垂下降した地
点に合流する)にも6~7人、3パーティーほどが取り付い
ていた。
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大樺沢の上部から振り返る。中景は鳳凰三山。
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八本歯ノコルに出ると、さっと南アルプス方面の視界が
入ってきた。間ノ岳が間近だ。
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赤石山脈の主脈、北岳への主稜までの中間点から池山
吊尾根を見る。中央の頭部は八本歯ノ頭、左端に見える
のがボーコン沢ノ頭。ボーコンは「亡魂」からとったといわ
れ、池山吊尾根を延々登ってその頭部に至ると、眼前に
展開するバットレスに度肝を抜かれる思いがしたことを形
容したもの だろう。ここからの白籏史朗氏の豪快な写真に
以前は見入ったものだ。Thさんと私は、数年前の正月に
本会の会員による同じ山行パーティーの一員として、烈風
に抗して池山吊尾根から一緒に北岳に登った過去があ
り、感慨深いものがあった。
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北岳山頂での1ショット。おそらく100人くらいの登山者が
山頂に渦巻いていた。それくらい、込んでいた。登頂も充
実感を欠き、仲間のみんなには申しわけなく、私の気持ちは
落ち込んだ。中央稜を登ってきた2人連れと話をした。第
四尾根の込みようと違って、貸し切り状態だったとのこと。
ここもフリーで登れるそうだ。山頂に、真下から「あれっ!」
という感じで登ってきた。 |
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北岳からの下りで肩ノ小屋が見えはじめた。遠景は甲斐駒ケ岳(左)と八ヶ岳連峰。
いつも楽しませてくれるたくさんの山々がある。
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北岳山頂を越えて、下りに入った地点から振り返り見た
バットレス側の北岳。 |
北岳肩ノ小屋で。人気のある山だけに、登山者は非常に
多かった。時間的にゆとりがあるので、ここで少し休んだ。
ここのテント場はほぼ満杯だった。私たちよりもずっと遅れ
て、バットレスを通過してきたという人たちを何組か見かけた。
時間がかなりかかったものと推測した。負け者の口上だろう
が、渋滞するほどの岩場には登らなくて正解だった、という
意見をThさんが言って、今回の山行の失敗に関して私に
気をつかってくれた。
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小太郎尾根からしばらく下って左にとり、草スベリ
に入る手前から見たバットレスのプロフィール。
凹部がいっそうはっきりと見える。おそらくは、
尖塔岩(後出の2002年の山行の写真参照)も含
めて、あのあたり一帯がごっそり崩壊・脱落した
ものと思われる。これで、しばらくは第四尾根は
落ち着くだろう。 |
白根御池のテント場。この日は最高の秋空に恵まれた。
中央の鞍部は、八本歯ノコル。ここから草スベリにかけて
は、夏に花畑が一面開花するところだ。このテント場の下、
小屋側にも同数程度テントが張れる場所がある(4人用の
テントで合計60張り程度)が、池の近くに張っているパー
ティーは、その半数がバットレスを目ざしたようだ。少し込み
すぎていた。次回に来る機会があるなら、時季はもっと遅く、
2002年のとき(10月中旬)以降にしたほうが、人は少ない。
なお、帰り着いてみると、私たちのテントの入り口のすぐ近
くまで新設のテントが迫っていたので、そのテントの方に抗
議した。でも、少々大人気なかったと反省もした。少しは譲
り合って、みんなで分け合わねばならないよね。相模山岳
会のみなさん、失礼いたしました。
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上りと同じ経路を下った。途中、大樺沢への分岐の下で
見かけた紅葉樹。 |
もう10分で広河原山荘というあたりの高木の林。
緑を透かして下りてくる光が陰影を作って、実に美しい。
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■2002年10月のバットレス山行の記録を、写真とともに添付しました(2002年10月の会報に掲載ずみの記録を、前半部を省略して再掲
します)。追想していただければ幸いです。 |
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2002年10月に登った
北岳バットレス/第四尾根
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◇実施日:2002年10月12~14日(山中2泊)
◇参加者:男性3名、女性1名(計4名)
◇行路・時刻:
12日 4.30我孫子--5.30渋谷--11.00/12.00広河原--15.00二俣--15.40~14.20白根御池(幕営)
13日 3.00起床--3.50発--4.10/4.30二俣--6.15/6.45バットレス基部--8.00・8.10緩傾斜地
--8.30/8.50第四尾根基部--12.45マッチ箱ノ頭--15.00登攀終了点--16.00北岳山頂
--14.40北岳肩ノ小屋--18.50御池
14日 7.00起床--8.50発--二俣--広河原--奈良田--早川町--富士IC--18.30渋谷--20.30我孫子
◇装備:共同 テント(ダンロップ4人用)、マット、こんろ(ガス+ガソリン)、燃料、らんたん(燃料)、コッヘル、
まな板、および登攀具
個人 幕営山行で必要な装備一式+登攀装備(ウエストハーネス、スリング、カラビナ、サブザック、
クライミングシューズなど)
※登攀には、全体でザイル2本(8.5mm×45m、9m×50m)、クイックドロー(ヌンチャク)10本、スリング25本
カラビナ30個、ユマール(登高器)1個、ハンマー1本、ハーケン5本を携帯した。3人のパーティーでは、
ほぼこれで十分だった。
◇食事:12日夕食=すき焼き+うどん、13日夕食=山菜おこわ+チンジャオロース
◇経費:交通費(車使用代など)+食材費+テント場代+食事(帰り)で計約10,000円
◇集中連絡先:ks氏宅
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山行が終わった翌日の10月15日夜半、疲労のたまった重い身を自宅でベッドに横たえ、眠気におそわれながら、30時間ほど前までの山行を反芻していたとき、一陣の風が吹いたかと思う間もなく、突如、雷鳴が一帯にとどろいた。山中でテントにいて見舞われていたとしたらどんなだったか、などと想像した(それはそれでまた、自然の豪快感あふれる恵みなのだが)。翌朝は見事に晴れ上がり、すがすがしい陽光が射した。
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今回の北岳バットレスの登攀計画が実質的に浮上してから、3年以上はたっている。きっぱりとは事は運ばないものである。しかし、実施へのいちばんの早道は、公言することによって、引き下がれないように狭い状況に自分を追い込んでいくことだ。
以前ふれたK氏が谷川岳の一ノ倉沢あたりをやるのと前後して、胃炎に悩まされていたのが記憶にある。よく胃薬を飲んでいた。高度な登攀がもたらすストレスによるものだった。今回、僕の身体もわずかながら変調をきたした。夜中にうなされるという経験もした。
昨秋の鋸岳に懲りて、できるだけ多くの資料を渉猟した。『日本登山体系-南アルプス』(白水社)や遠藤晴之さんの『クラシックルート集』『アルパインクライミング』(山溪)のほか、『Rock & Snow』(季刊)などを細かく読み込んだ。インターネット情報も検索した。
バットレスには、a~dの4つのガリーという「関所」みたいな難所があること、まずはその上部の緩傾斜地(バンド帯)に登り上がるまでが第一の課題と了解した。困ったことに、どの資料や地図も出所が同じらしく、いまひとつそれ以上に詳細さを欠いていた。途中で出会った千葉大山岳部の2人が、毎ピッチが終わるごとに確認をしていたが、あれはどこから得たものだったのだろうか。
しかし、それにしても、たまたまかもしれないが、僕たちは手本を絵に描いたように模範的なルートをトレースした。山行中、1か所もルートの選択を間違わなかった。
■ 山行1日目(10月12日)-------- 白根御池まで
13日の夜半近く、Khさんがわが家にザックを持ってやって来た。軽く一杯交わす。3時半起床。僕の車を駆り、4時半前、Nkdさんを拾って都内に向かった。早く出たにもかかわらず、もう首都高速では渋滞が始まっていた。5時半すぎに、渋谷南平台のThさん宅のチャイムを何度か押したが、まったく応答がなかった。公衆電話から再度起床を促し、ようやく返事があった。昨夜は帰宅がおそく、ぐっすり寝込んでいたという。眠たそうなThさんと大きな荷物を積み、準備を整えて、再び首都高速道に乗り上げる。
行程の3分の1ほど渋滞が続いた中央高速道を走り、甲府中央ICで高速道を降りた。コンビニでアルコール類などを買い込み、南アルプススーパー林道に入る。長い夜叉神トンネルを抜け、かの鷲ノ住山を左に見たあと、予定より約1時間遅れて11時に広河原に着いた。驚いたことに、広河原の中心部に入る手前の車道まで、あふれるばかりに自家用車が駐車していた。時季が時季だけあって、繰り出した人馬(車)の多さを示していた。駐車場が満杯だったときは、野呂川の奈良田側に寄った車道の路肩に駐車する、とのインターネット情報を得ていた。野呂川の鉄橋を渡って、試しにと、国民宿舎のあるほうに進んだところ、川に沿って西側に広い空き地を見つけた。ゆっくりと準備をし、正午に広河原を後にした。φ10.5
mmのザイルを車に残したが、これが失策となる。
歩き出して間もなく、大樺沢にかかった吊橋から、はるか上に北岳の堂々たる全容が視界に入ってきた。6年ほど前の11月に、塩見岳から北岳を越えてここまで下ってきたとき、この同じ景色を見ながら、残っていたインスタントラーメンを作って、山行中の最後の食事としたのが、ここの下の河原だった。大樺沢左岸を行く。20分ほど先で、早々に休憩をとる。進行方向左側に2か所堰堤を見、やや行ったところで枝沢をまたいで針葉樹の林に登り上がると、御池への尾根コースを右手に分ける分岐となる。ここの道標を右に、大樺沢側へ合流するゆるやかな下りとなる。ここからは、二俣までほぼ沢通しの登山道となる。
しばらく左岸をたどる。伏流水が登山道にあふれ、流れ下る。Thさんが、500円で買ったという運動靴をはいてきたが、後ろを行っている者としては気になる。その先で、すばらしい秋の化粧を木々に見た。赤と黄が、真っ青な天蓋を背景に映える。ブナの黄葉が樹冠をおおっていた。こじんまりした登山隊もいいねー! と言い合う。互いが発し合う言葉や笑みなどが、多数での間隙に消え去ることがない。以前は、小太郎尾根側の崩落の危険のあった左岸傾斜地をトラバースするが、もう崩壊の不安はなさそうだ。
沢に大きな角材を渡した橋を右岸に渡ると、細い枝の清らかな水流があった。この日のほぼ真ん中の地点だ。荷をおろして、大きな休みとする。ところが、なんだかNkdさんの調子がいまひとつ上がらない。腰を上げたが、すぐに遅れる。言われるなりに、3人は先に行くこととする。Thさんも、大きなザックできつそうだ。右岸を少し高巻くように進んだあと、再度、左岸に渡り返す。
そこで、下山者に聞いたところ、二俣はまだ40分も先だという。数分前までのヘリコプターがバットレス近くを飛び交う爆音が何度かしていた。「おかしいね。この前の正月の北岳でもそうだった」などと言い合っていたが、この登山者から、バットレスで事故があったことを教えられる。すぐ上に、傾斜がゆるみ、大樺沢の川幅が広がる地点がある。北岳の全容はもちろん、バットレスや、八本歯ノコル、池山吊尾根がぐっと迫る。太陽が傾きかけ、陰となった北岳南面の岩肌が紫色に沈んだ。時間切れで、予定していたバットレス基部の事前偵察はできそうもなくなった。ズームをきかせて何ショットか撮る。
砂利の混ざる河原を越えると、二俣だった。調子上々の片平さんがここで待っていてくれた。Thさんも着いた。下山してきたクライマーに聞いたところ、バットレス基部までここから約1時間だという。しばらく待ったが、Nkdさんの姿は見えなかった。到着を待たず御池に向かって3人で歩みはじめたが、思いとどまって、ThさんにNkdさんを待っていっしょに来てくれるように頼み、Khさんと2人で白根御池に急いだ。
二俣の分かれから御池に15mほど行ったところに、立派なバイオトイレが新設されていた。軽いエンジン音がしていたから、人工的なエネルギーを使っての装置なのだろう。二俣から広河原のほうに鋭角に逆戻りするかたちだ。僕はこのルートは初めてだ。ほぼ水平移動となるが、途中、木の根っこやらを盛んにやり過ごす。30分というところを20分で御池に着いた。池の周辺には、ざっと10張りのテントが建って、岳人たちがくつろいでいた。幸い、池から最も離れた西側の高い場所に絶好のテント場を見つけた。
Khさんにあとを頼んで、遅れている2人を迎えに急いだ。トイレから少し来たところを、2人とも重い足取りでやってきた。僕はThさんの荷を、ThさんはNkdさんのザックを受け取って、白根御池のテント場を目ざした。予定は大幅に過ぎ、4時を回って御池に全員到着した。北岳の向こうに太陽が傾き、いまこの日が暮れようとしていた。
このテント場は、池畔という条件に加えて、北岳の横顔が、その前景となるダケカンバ越しに十分すぎるほど楽しめるところであった。標高は2100mくらいで、鳳凰三山をはじめとする早川尾根を真東に大胆に眺められる地点にある。「テント場10選」に入るだろうと、みんなと話し合ったものだ。隣にいた2人のパーティーに明日の目標ルートを尋ねたところ、とても感じよく僕たちと同じルートであると語った。さらに、さっきのヘリは、バットレスに取り付いたクライマーが、近くに死骸を見つけたが、時間が経過していた、と教えてくれた。西宮からはるばるやって来た、若手と年配の組み合わせだった。
この日の献立は、Thさんが食材からなにからすべてそろえてくれたすき焼きだった。広河原までやって来て忘れたことに気づいた醤油と砂糖だけは、広河原の売店で急きょ調達したが、この日の食事ばかりでなく、翌日の分まで、忙しい身でありながら、Thさんが引き受けてくれて、まことにスマナイネー。たらふくいただいたあとは、うどんを入れて仕上げとなる。しかし、明日は3時起きと早いとはいうものの、Thさんは元気がなく、7時を過ぎるともう寝てしまった。Khさんとチビチビやったあと、僕たちもあまり間をおかず、あとを追った。鹿の甲高い鳴き声が、細く森林に響いた。その夜は月夜だったにもかかわらず、久々に天の川やオリオン座を見た。見事な星空だった。
とうとう、僕はその夜は眠れずに過ぎた。
■ 山行2日目------(1)バットレス第四尾根から北岳山頂まで
3時に起床。めいめいに水分と栄養を補給し、サブザックに登攀具を入れ、3時45分にテントの外に出た。鉄材が入ったため、相当の荷重となった。外はまだ暗かった。ポツポツとテントに明かりが灯っていた。Khさんがテントの外に出て見送ってくれた。隣に「お先に」とひと声かけ、3時50分に出発した。昨夕来た道を二俣まで取って返す。
小太郎尾根に向かう右俣の沢を渡り、大樺沢の夏道をたどる。暗闇なので、道を迷いそうになる。3人組が追い越していった。下からは明かりがいくつも登ってくる。地図上では、二俣から八本歯ノコルまでの一般道の約半分まで登った地点で直角に右折して、バットレス沢の右岸をたどる、と了解していた。バットレス沢とおぼしい沢(結果的に当たっていた)に向かって一般ルートから右に取ったが、あとの2人がバットレス沢の中心部をそのまま遡上していたので、上から、いったん引き返して沢の右岸の小尾根に登るようにと言う。このあたりで明かりをしまう。沢の中央部をそのまま行ったパーティーも1組いた(あとで聞いたところ、あの隣の2人であったようだ)。
小尾根を行くと、下から単独の若者が僕たちのあとを付いてきた。「はちほん」などと尋ねてくる。八本歯ノコルのことだ。危ない話だ。一般道に戻るように言って、上部を目ざす。大樺沢がしだいに下に見えるようになったころ、モルゲンロートに紅色に輝くa、bのガリーが視界に入ってきた。そこはかとなく興奮がわきおこってきた。下部からヘルメット姿の数人が登ってきた。写真で見た異様な光景を認めた。ガリーの基部に近づくと、すでに2~3パーティーが登攀の準備をしていた。ここは崩れやすい不安定な砂地で、狭い安定地を得て、ウエストハーネスを着け、登攀具をまとう。
bガリーそのものは上部で行き詰ってしまいそうで、どうもここを避けて、bガリーの右面にあるクラック(細い岩の割れ目)をたどるようだ。この基部は40mが2ピッチ分と案内にはあった。1番目にやるパーティーが、見覚えがあると思ったら、あの隣の2人だった。お見かけしたところ、かなりの熟練者のようだ。若い山田さん(と聞いた)がリードをとって、スルスルと岩壁の上部に消えた。さらに2パーティーが登り、続いて僕らだ。Thさんのビレー(確保)を受けて、最初に僕が登る。出だしで多少の不安はあるが、慎重に取り付き、2~3か所のランニングビレーを取って、上部に達した。上部の確保点にはまだ他のパーティーが取り付いていたし、おまけに2本のザイルのうちの紫色のほうがもう一方よりも5m短かったことを知らず、下から「紫はザイルの残り5m!」とThさんから声が届いた。上までザイルを伸ばして足りなくなった場合を心配して、その下の、ハーケン1本のアンカー(ビレー点)のある地点で、後続の2人を確保することとする。NKdさんが登ってきたが、ここでは不安定だし、上の確保点も空いたので、そのまま上まで行ってくれるように頼む。Thさんも僕の上まで行った。このピッチの次に、僕が彼らを越えて上部に抜けたが、残りの2ピッチ目は傾斜もゆるみ、わずか20mほどで「緩傾斜地」に着いた。ここまでで、それまでの気苦労の半分以上が氷解した。
●メ モ
1)登攀靴のこと:今回は、登攀に使う靴について迷ったが、例えば11月だとクライミングシューズでは冷たすぎるだろうし、氷雪の登攀もありうることを考えると、クライミングシューズではだめだ、ということとなる(窮屈な不快さはあるし、凍傷にかかってしまう)。条件のよいときには有利なクライミングシューズで登るという了見なら、その有利さが去ったときには、土台ここは登れないこととなる。これは、僕に納得ができない。ともあれ、基本は登山靴だから、これでやってみようと僕は決めた(ただし、登山靴とはいっても、靴底は堅牢なものであった)。サブザックの底にクライミングシューズを入れたが、結果的にはこれを使うことはなかった。もちろん「微妙な」フリクション(摩擦)や、フットホールドがごく小さなスラブ(一枚岩)などでは、クライミングシューズが有利だが、登山靴でとくに困難はなかった(まあ、やさしかったからだが)。
2)登攀のスタイル:僕が真っ先に立ち、僕からNkdさんとThさんにそれぞれ1本でつながる、いわゆる「ダブルロープ」という方式をとろうとしたが、上にふれたようにザイルの長さが違っていたため、これ以降はシングル(1本)ロープに切り替え、ミッテル(中間者)であるNkdさんには登高器(ユマール)を使ってもらった。Nkdさんからは、「安心して登れた」と聞いた。なお、ダブルロープ方式が最近、賞用されているようだが、今回はランニングビレーはわりとまっすぐに取れたから、むしろシングルの太め(10.5mmか11mm)のものでよかったのではないかと思う。1本のほうがザイルが錯綜せず、間違いなく使いやすい。流行なのだろうが、他のパーティーは9mmダブルが多かったようだ。
緩傾斜地は、バンド帯(横に長く安定地帯が続いているところ)であった。ひと休みしていると、まだこのルートに向かってやって来るパーティーが眼下にケシ粒のように見えた。ここを、圧倒的な中央稜をやや右上に見ながら登る。ルンゼの通過では、雪が出てクライミングシューズの2人を困らせた(靴底が滑って摩擦がきかなかったという)。ここのハイマツの藪の中の踏み跡を横に5分ほど西に這うと、四尾根のプロフィールが見えた。振り返ると、鳳凰三山と池山吊尾根の大きな黒い陰が大きく見えた。基部まで行くと、「四尾根」とペンキで大きく書かれていた。現実感のわりには、緊張やこわさはなかった。四尾根の左側の沢筋には、けっこう雪が付いている。ここの下で簡単に食事とした。
ここから40~50mほど行ったところから、第四尾根に取り付くようだ。bガリーで僕らより先んじた立教大学山岳部の2人が、岩場の取り付きで準備をしていた。普通の登山靴だったが、先蹤者をいただく誇らしさを彼らに感じた。
ここの取り付きまでの簡単なところで、またしても雪にクライミングシューズの2人が泣かされる。Nkdさんからザイルを要求される。ここで立教大隊に追い付いた。側壁にハーケンを打つが、ほとんどきかなかった。先行者の登攀を見ると、雪が付き、さらに順層でホールドが滑るようだ。僕にその番が回ってきたが、意外と簡単に15mロープを伸ばせた。2人が合流したが、ザイルをつけたまま上の稜線まで進んでもらう。
この稜線からが、第四尾根の核心部になる。この尾根は、脊梁のほぼ真上を這うルートとなるので、ルー上から雪が消えた。通常、この地点からピッチ数は起算することとなり、登攀が終了するまで合計7ピッチを要すると聞いた。bガリーを除いて、短いながら、僕たちはここまででもう3回ザイルを使用していた(これは時間がかかるなー!)。
見たところさほどではなかったが、1ピッチ目の取り付きは3級上(3級までがフリー〔確保されていない状態〕で問題なく登れるレベルで、3級でも上、または4級となると落下の可能性が出てくる)のレベルになるだろう。左右のカンテ(出っ張りの岩)状のところを試したが無理で、やはり真ん中のクラック部を行くこととなる。ザックを下に置き、空身で思いきりフットホールド(足場)を上に取って、レイバックスタイルで一気に乗り越した。その上部は、どうということのない広い稜線だった。ザックを吊り上げるのに細引きを垂らしたが、結び目をつくっていたために、クラックに引っかかってしまった。回収できず、ザックはThさんに持ち上げてもらうこととなる。Nkdさんは、その結び目をつかんでうまく登ってきた。続いてThさんが、僕のザックを背中で引きずりながら苦しそうに登ってきた。上でザイルをいっぱいに張る。ラストの苦労を思う!
2ピッチ目。ゆるやかな広い稜線をまっすぐに行き、最後は右に回り込むように30m伸ばす。隣を、千葉大学山岳部の2人が稜線を避けて登っている。立教大生よりクライミングの技術はかなり高いと見受けた。なかなか格好いい青年たちだった。
3ピッチ目。ルート図には「白い岩」と書かれているところだ。脊梁から右、つまり東側に下りた斜面をトラバースぎみに這い、それから脊梁上部まで岩壁を登る。かなり長く、回り込んで行くため先が見えず、高度感あふれるピッチであった。下の仲間からもかなり距離をとったので、ザイルの不足が心配になるころ、脊梁上のビレー地点に達した。その間、何か所かランニングビレーを取った。千葉大生が僕のいる確保点を、僕たちのところから取ることについて、断りがあった。Thさんたちとここから声が届かなかったが、そのうち、風に乗って彼の声が届いたので、大声で「登っていいよー、OK!」と返した。意思疎通の不確かな状況の中だったが、いいぐあいにNkdさんの姿が見えてきた。
4ピッチ目。やさしい脊梁上に、3ピッチ終点からわずか15mザイルを伸ばす。
5ピッチ目。ここが今回の核心部だった。取り付き部は、小さいのならテントも張れそうなほど広い平坦地だった。インターネット情報では、ここのわずか3mにアブミを使ったというケースもあった。千葉大生の先行者も難儀していた。彼らが行ったあと、僕らの番になる。ホールドらしいホールドはなかったが、「微妙な」隆起部につま先をかけ、思いきり股を開いて取り付く。この壁にハーケンが2本打たれてあり、そこを手がかりに上を目ざそうとするが、上部のホールドに手が届かない。つま先でやっと立っているので、震えがきそうになるのをこらえ、思い切って右足を小さなホールドに載せて、上部のハーケンに3本目のビレーを取った。これで落下だけは免れた。ひと息入れて、エイヤッ! でビレー点をつかんで(反則なのだが)、上部に乗り越えた。上でザックをすぐ引き上げる。NkdさんとThさんが続く。
6ピッチ目。いわゆる「マッチ箱」(その由来は知らない)とよばれる地点までの、約30mだ。すぐ「リッジ(背骨、脊梁)」とよばれる鋭利な刃物状の細い尾根になる。左右はばっさりと鋭く切れ落ちており、ここは馬乗りになって通過する、とあった。立っての通過は危険だ。ここを過ぎると、マッチ箱の頭だが、その狭い空き地には千葉大生がいまから懸垂でここを下降しようとしていた。頭にはボルトが2本打たれていたし、ハーケンも2本ぐらいあった。そのどちらにもスリングやテープが絡められていた。懸垂下降の拠点はそのボルトから取っていたので、ここは遠慮し、ハーケンから自己確保を取った。ハーケンはボルトのバックアップ用にも取られていた。
彼らが降りたあと、後続の2人が到着した。以前は、この頭を越えるように懸垂下降し、そのコル(鞍部)には小さなテントが張れるくらいな平坦地があったそうだが、10年ほど前にここが崩壊してそのサイトはなくなったし、頭から下降した下はスパッと切れ落ちていて、いまは下降点としては使えなくなっている。そのため、頭からdガリー奥壁側(西側)に下降し、このガリーを登るルートが取られている。15mを、まずNkdさんが下降し、続いてThさん、僕と下降する。降りたところが草付きの小さなテラスとなっている。ここにいったん集合したとき、dガリーフランケを登ってきた大須賀(あるいは大菅)さんという方に出会った。彼は2人の初心者らしい人を連れていたので、「ガイドさんですか」と尋ねたところ、「ガイドなんて職業はありえませんよ!」といやに強い口調で言ってきた。
7ピッチ目。同じように、Thさんに確保を頼み、ガリーを登る。ここは、傾斜こそたいしたことはないが、ホールドらしいホールドがなく、ちょっとしたスリルを味わった。ガリーには岩の大きめの割れ目(クラック)が長く走っており、ここがホールドを提供していたが、グリップホールドとするには大きかったし、岩質が硬く、滑りやすかった。30m伸ばしたところで、もっと上に進むつもりでいたが、上のレッジ(岩の上の小さな平坦地)は別のパーティーによって占領されていたので、下のスラブ(一枚岩)の上でハーケンから自己確保を取り、Nkdさんを呼んだ。するすると登ってきた。カメラを構えた。マッチ箱の頭には男女数人がいた。その上のリッジ状のところにあるフレーク状の岩は、半分が岩で支持されていただけで、半分は宙に浮いていた。谷側に乗るのは避けるように言った。Thさんがやって来るころ、大須賀さんのザイルが絡まった。
8ピッチ。Thさんに、そのまま上の「枯れ木テラス」といわれる地点まで1ピッチ、ザイルを伸ばしてもらうこととした。彼は、左のdガリー側に降りて、そこから上部に達した。その際、その大須賀さんが、リッジが第四尾根の連なりだから、この尾根をトレースする趣旨なら、リッジを行くべきだが、リッジは部分的に5級のところがある、と教えてくれた。僕たちは、さすがに迷わず5級の岩壁登攀は避けた。
9ピッチ。僕が枯れ木テラスまで行ってThさんに追いついたが、そのまま最後の1ピッチを伸ばせ、とThさん。そのまま進み、雪の付いた岩溝を飛び越えると、一気に傾斜がゆるみ、ハイマツ帯に着いた。
登攀終了。ザイルを回収しながら、2人の到着を待つ。危険地帯の通過は終わった。他のパーティーもまだあとから続いていた。ここで登攀具をかたづける。Thさんが疲れた様子だったので、ザイル2本を僕が預かる。2人は、運動靴に替えた。
ここから、わずかに岩面を登りきると、ゆるやかな砂地の踏み跡となる。北岳山頂まで20分と聞いた。あとわずかで北岳山荘から頂上を目ざす一般道に出るというときに、先を行っていたThさんに異変がおこった。彼のザックが音もなく、バットレス下部に向かって転がり落ちていったのだ。もはや、あとの始末だった。疲れから、ザックをなにげなくおろしたが、その場所が悪かったようだ。財布やカメラなど、ひと財産が収まっていたという。やっと一大山行を無事成し遂げたばかりの一方で、がっくりと肩を落とすThさんにかける言葉はなかった。Nkdさんが「自分が落ちなかったんだから、いいとするのよ! ねっ、Thさん。お姉さんのこと、聞くのよ!」となだめているのが痛々しかった。僕は、そのザックをできたら回収に下りたかったが、2人に強引に引き止められた。
「ヤットキタ ダケド ジット タットレス(ズ)」なThさんであった。
■ 山行2日目------(2)北岳山頂から白根御池まで
頂上からは360度の展望だったが、3日間の晴天続きにも、かげりが見えはじめていた。塩見岳の特徴ある瘤状の岩峰が、雲間にのぞいた。歓喜にあふれている登頂後だったはずなのに、笑いもなく、ほとんど言葉の交わしもなく、下山を始めた。重い歩みであった。時間もかなりおそかったが、遅々たる歩みを重ねた。僕が先頭を行ったが、まったくおそい歩速をそのまま刻んだだけだった。身体に対して以上に追い討ちをかけた精神的な打撃が大きかった。Thさんの歩みは、まさしく老体そのものであった。
北岳肩ノ小屋には16時40分に着いた。山好きの年配の女性たちが顔を赤らめ、寒風に身を縮めながら地平線を眺めてたたずんでいた。僕たちはビールを1本だけ空けた。
間をおかず、下山を開始した。Khさんがいなくて、われわれだけだったとしたら、肩ノ小屋で一夜の寝床を所望することができた、ということは選択肢としてはありえた。だが、僕はこういったことはまず考えなかっただろう。それは、計画に対する一定の敗北となろう。むしろ、ここまで下ることを山行のさらなる仕上げとしか僕は考えなかった。
1989年2月、厳冬季のマッキンリー峰のアタックに出た山田昇、小松幸三、三枝照雄の3氏を、ランディングポイントのベーステントで見送った佐藤俊三氏が、とうとう帰らなかった3人を、下山予定日を過ぎて「いつか、いつか」と心休まることなく待ったときの心境をつづった手記が僕の手元にある(『極北の烈風に死す』東京新聞出版局)。いささかでもそうした気持ちは、Khさんにいだかせるわけにはいかない。あえて、自分の役割と自分なりの楽しみ方、居場所をきちんと認識してKhさんが加わってくれたことを、僕はすごくありがたく感じた。かといって、登攀をする僕たちに気後れするでなく、同じ仲間としてしごく当たり前に接してくれたことが、うれしかった。
家族がいるから、無事帰らなければならないという気持ちにつながるのだとすると、今日明日に自分たちを山の中で身近に迎えてくれる仲間が「いる」ということ、そしてだれかが明かりを灯して心待ちにしていてくれるということが、感動的であったし、また彼に責任をもってできるだけ早く帰還を知らせなければならない、と感じた。Thさんの悲痛な気持ちを除けば、その思いだけが下山の動機だった。
歩みは依然、おそかった。小太郎尾根に別れを告げようとするとき、2人の声がした。Thさんの声もした。南アルプス南部から中央アルプスにかけての、日没のひとときであった。最後のカメラを出した。ここから、草スベリに向かって、下降を始めた。夏なら、百花繚乱のお花畑となっているところだ。すぐに宵闇がおそってきたが、幸運にも煌々たる月夜だった。Thさんがヘッドランプもなくしていたが、ラストとなったNkdさんとの間にはさんで前後で照らす。こんなに遠かったかというほど下降路は長く、また急でもあった。下りで、1時間先の光とはどれくらい下なのだろうかと言い合った。
あとから、若者の4~5人パーティーが追い越していった。御池のテント場の明かりがしだいに近づいてきた。北岳御池にまっすぐ行く登山道からわれわれのテントを認め、「Khさーん!」と声を発した。待ち受けていたように、「お帰りなさーい!」とはっきりと返事があった。うれしい瞬間であった。隣のテントにも、おそくなったけど無事帰ったことを告げた。18時50分であった。この日、出発からすれば、なんと15時間に及んだ。らんたんのガスの残りを思って、明かりは最小限にしたことをKhさんから聞いた。
その夜は、さぞかし疲れていただろうに、Thさんが持参の食材で、きのこ入り山菜おこわと、さらにチンジャオロースを作ってくれた。小屋で飲み物の調達を試みたが、ビールは収穫できなかった。戻ってみると、昨夜のビールが1本残っていた。
結果的には、4人とも2泊3日に延びても、家族や知人に心配されないように、予知してきていた。乾杯のあと、複雑な状況があったせいだろうか、Thさんはまたしても早々と寝袋に入ってしまった。Khさんと僕とが、この夜はしつこくやった。隣には、今夜はおそくまで失礼することをあらかじめ断っておいた。10時、就寝とした。お酒が多量に余ってしまった。
■ 帰還・帰宅
翌日は寝坊したが、7時ころには起きた。外に出ると、隣はもういなかった。このテント場から、北岳の横顔が、さまざまの色を帯びたダケカンバの上に静かに、穏やかにたたずんだ。潤いのあるテント場に加え、亜高山特有の自然豊かなロケーションだった。
Thさんが、またしても朝食にラーメンを作ってくれた。この日は、もう昨日の暗さはなくなっていた。コーヒーを飲んで、8時半、テント場を後にした。
下りは尾根ルートを取らず、二俣まで引き返す、来たときと同じルートを、多数決で決めた。二俣のトイレでは、昨朝のトイレの使用料の借り(カンパ)を払った。二俣からのバットレスに別れを思い切り惜しみ、大樺沢の下山にかかった。
ここからがまた長かった。僕は軽登山靴だったが、硬い靴のつま先に足指が当たって、痛かった。わかっていたが、そのようにしたのだから、しかたがなかった。あの枝沢でのどを潤し、左岸に渡って、大樺沢が広葉樹の疎林に入るころ、見事な紅黄葉の局面にみんなどよめきの声を上げ、足をとめ、カメラを出した。その下、大樺沢と白根御池の分岐を過ぎ、吊り橋を渡って12時ごろ駐車場まで戻った。Nkdさんは、この場所だけのためにフイルムを1本充填した(今回はNkdさんには写真の係をお願いしていたが、さすがに肝心の登攀中は命のほうが大事で、カメラを出さなかったようだ)。
車に乗り、正月山行でくぐった真っ暗なトンネルを抜け、奈良田の先で若い2人連れの登山者を拾い、彼らを早川町の町営温泉に案内したあと、僕たちは渋滞が必至の中央高速を避けて、東名高速に向かった。富士市から高速に乗ったあとは、ひどい渋滞もなく都内に着き、Thさんを渋谷まで送り、僕たち3人は我孫子まで戻って、別れた。
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数日してThさんから、「日をおいてますます高まる山行の感動をかみしめている」とのメールが入った。主宰者を気づかった気持ちがありがたかった。図に乗って、山行企画の一係員として、来年の同じ時季における北岳集中山行を山行計画案に提案した。
今回の山行は、同行してくださった仲間に負うところはもちろん限りなく大きいが、会の仲間と会が背後で応援してくれていると感じ(ようとし)たことも励みになった。また、一方で平ケ岳山行が行われており、会で山行が並行して行われるというこの「おおらかさ」「余裕」が、僕たちこじんまりとした山行パーティーの寂寥感を緩和して、温かな、豊かな気持ちにさせてくれたことも確かであった。「仲間」を感じたと同時に、互いに高め合え、励まし合える関係を、本会の精神的な蓄積だと思った。山の会の財産が何なのかは、いまだ僕にもわからないが、1つの解答を心に仕舞い込んだ気がした。
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大樺沢を詰め、二俣の手前からバットレスのプロフィールを
仰視する。すでに黄昏が降りはじめたころで、紫色に沈む
シルエットが印象深かった。2009年9月の写真と見比べれ
ば、その輪郭の変化が明らかだ。2009年の写真では、マッ
チ箱周辺の岩が落ちている。 |
白根御池での夕べ。北岳から小太郎尾根にかけての稜
線上に夕日が沈むにつれて、鳳凰三山を残照が明るく浮
かび上がらせた。 |
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バットレス沢の右岸の小さな尾根状地帯を、bガリー目ざし
て這い上がる。しだいに傾斜が急になってくる。bガリーの
基部が目前だ。 |
この登攀行では第1ピッチとなるbガリーをツルベで登り、
上部のバンド帯を第四尾根まで200mほどトラバースすると
、目標の第四尾根の登攀口に出る。C沢と名づけられた沢
状の地形で、ガレているが、この経路の上では気持ちのな
ごむ所だ。C沢の右岸を直上すれば、中央稜に出る。われ
われは、C沢の基部で食事をすませ、沢を少し上がり、そ
こから鋭角状に左折して、右岸から一気に第四尾根に取
り付いた。尾根への上りのスラブで、雪面が出てきた。登
り口で、ハーケンを打ち、補強した。クライミングシューズ
を履いていた仲間は、ここを上がるのに多少の苦労があ
ったようだ。私は登山靴で簡単によじ登ることができた。
ここを登ると、第四尾根の真上に飛び出した。 |
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第四尾根の脊梁に達した地点から見上げたところ。ここ
からが、第四尾根上の登攀になる。以下で使ったピッチ数
は、尾根上に取り付いてからのもの(すでにここまでで3ピ
ッチが過ぎている)。いかにも、といったところだが、正確に
登高を続ければ、さほどのむずかしさはない。右奥は中央
稜。烏帽子(三角錐)状の岩は、3~4ピッチ目で右から回
り込むようにして、その上部に達する。 |
2ピッチ目。この前の1ピッチ目は、2メートル少々の落差
の岩場だが、そこの通過に手間取った。上にハーケンが
打たれている。ここを登ると、その上で傾斜は落ちた。岩
面の摩擦性もよく、登りやすくなった。大樺沢や池山吊尾
根の見晴らしがきく。千葉大学の学生と一緒になった。 |
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数ピッチをつないで、マッチ箱のコルの手前の尖塔岩から
懸垂下降することとなる、その岩に立つクライマーたち。
マッチ箱とは、この尖塔岩までの20m程度のリッジと尖塔を
それぞれ一辺として長方形とみたたとえのようだ。だから、
マッチ箱のコルは、尖塔岩の上部(つまり、いま私がカメラ
を構えているところ)と尖塔岩の間をさすものと思われる。
2009年の写真を見ると、この岩はもちろん、私が撮影して
いる現在の地点の岩場などが、ごっそりと崩落してしまい、
見事に凹型にえぐれている様が明らかだ。この尖塔岩はC
沢側に傾き、その付け根は危うい状態になっていたので、
いつ崩れるか、と不安に思っていた。 |
枯れ木テラスの下で確保しながら、Nkdさんの登高を見
守る。尖塔岩から懸垂下降した地点のクラックを手がかり
に登る。左手(白根御池=C沢側)はごっそりと垂直に切れ
落ちており、しかも、ザイルがあるこのあたりの板状の岩が
宙に浮いていた。「左には寄らないで」とNkdさんには伝えた。 |
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第四尾根における第8ピッチの終了点。枯れ木テラスから
1ピッチで、ほとんど傾斜のない安全地帯に着いた。ここの
左には盛り上がった岩があり、「弁当岩」と名がついてい
る。あと1ピッチで、この登攀も終わる。この上でザイルを
解いた。Thさんのほっとした表情がある。 |
9ピッチ(尾根に上がるまでの行程も含めると合計12ピッチ)
で登攀が完了する。そのあと、ザイルをしまい込み、ハイマ
ツの横をトラバースして、北岳山荘から北岳山頂につなが
る主稜線に飛び出す。しかし、登攀完了地点からどれほど
も行っていない地点で、Thさんがひと休憩したとき置いたザ
ックが、無残にもdガリーめがけて転がり落ちていった。衣
類や登攀器具、財布、カメラなどが入っていたが、後の祭り
だった。この写真は、北岳、肩ノ小屋を越えて小太郎尾根
から、すでに夕暮れの気配のしかけた北岳上部。 |