マウスを置くと写真が替わります。
引き返し地点、外山から30分の尾根。下山途中の展望、太郎山、女峰山。
◆実施日:2009年12月19‐20日(山中1泊)女性4名、男性5名(9名)
◆行路・時刻:
19日
5.50天王台=5.53我孫子=6.20/6.32北千住=8.26/8.36東武日光-10.00/10.15湯元バス停---11.00リフト乗り場---11.15登山口---14.55外山の峠(幕営)
20日
7.00起床---11.00最高地点(標高約2300m)---12.10幕営地---14.10/14.36バス停-15.56/17.20東武日光=17.33下今市.=19.02北千住=20.15帰宅
◆装備:
隊 テント2張り(ICIスタードーム6~7人用/エアライズ3人用)、マット5枚、コンロ3台(ガソリン仕様2台、ガス仕様1台)、ランタン4台(ガス仕様2台、LED
2台)、スコップ2本、GPS、その他/個人 冬山用装備一式(アイゼン、ピッケルなどと防寒衣類、その他)・・・・わかん・スノーシューズは持たず
◆経費:日光フリーパス4,030円+特急券1,400円+打ち上げ代1,500円=約7,000円
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■概況
奥白根山山行の計画はもともとの会の年間山行計画に組み込まれていなかったが、12月の宿泊山行が1つもなかった事実に鑑み、会山行に承認してもらった。
これまで会では10回程度、ほとんど冬から春にかけての雪ばかりの奥白根山を目ざしてきたが、今回の山行で二度目の敗退を喫した。前白根山までも行けなかったのは、経験の範囲では例外的となった。結果的には、外山の尾根上からわずか行った地点まで登っただけで終わった(奥白根山の山頂が見られる地点までも進めなかった)。
1)冬型の気候が強まっていて、天候が厳しかったこと(荒天)
2)パーティー「全体」としての体力・登攀力が低下していたこと
3)当初10名の参加者から実質的に2名が脱落したこと(隊荷は不変のままだった)
4)始発の電車がかつてより1時間遅くなっており、さらに湯元のリフトの上級者コースが
閉鎖されていたこと(これで計1.5時間のロスとなる)
5)先行した若者が撤退し下山したことが“逃げ”の観念を生んだこと
■山行日・・1日目
2日前だったか、Mhさんから、やむない事情のために参加できなくなったと連絡が入った。隊荷の共同分が残りの9人の肩にかかるが、直前になって装備を変更する面倒と混乱を避けるために、そのままにした。
当日、予定どおり出発し、北千住で9名となった。出たばかりのころは絶好の好天を告げていたが、日光に近づくにつれて山に雲がかかり、車窓を雪が打ちはじめた。東武日光駅までの線路周辺には積雪が一面に見られた。山を目ざす者は、ほとんどいなかった。電車を降りると、改札口に郡山から単身乗り込んだNmさんのなつかしい姿があった。駅前はどんよりと曇り、雪を伴って風が舞う、一面の銀世界だった。10分をおいてバスに乗る。雪をかぶった「いろは坂」をゆっくりと進む。赤沼あたりでは、視界が100mほどの吹雪状態となった。
1時間45分かかって湯元に到着。すぐ荷物を背負ってスキー場に向かう。幸運なことに、この日がスキー場のオープンの日で、リフトが動いていた(そればかりか、初日とあり無料のサービスが受けられた)。第2リフトを下りた地点から登山開始となる。いい調子で進むが、Nkdさんの体調に異変が生じた。それ以上の登高は無理の様子で、単独でリタイアすることとなった。入山口だったので助かった。
途中、2名の若者のパーティーが追い越していったが、その2時間後に、外山の手前で、下ってきたそのパーティーとすれ違った。聞くと、トレースがなく、深雪に阻まれて、前白根までも行かずに撤退してきたという。われわれのパーティーもなんとか3時間余を要して外山に着いた。参考時間の倍近い時間がかかっていた。
外山の尾根に出たとたん、吹雪きはじめた。風の通り道なのだ。小さなテントが樹林の中に1張りだけあった。以前、Nmさんほか4名で同じ時季にこの山域にやってきたとき、ここは嵐の坩堝で、テントのポールが折れ、かろうじてテントをかぶっただけの状態で一夜を過ごしたという話が出る。その日に比べれば、この日は穏やかなものだ、言う。樹林の中にテントサイトを見つけたが、場所が狭く、尾根上に戻った(そこも、掘り下げ、盛り上げて平らにしたが、テントで生活するうちに谷側が少しずつ低下していった)。風に飛ばされそうになりながら、2張りのテントを張る。もう薄暗くなりかけていた。ぎりぎりの時間だった。気温は-14℃を示した(それ以降は観測しなかったが、相当に冷えた)。
広い6~7人用のスタードーム型のテントに全員が入り、宴会に移るが、翌日の天候が読めず、落ち着かない。最悪でも天狗平まで進んでおかなければ登頂は無理だから、登頂の目的自体が消滅していたも同然だったが、翌朝、どのような行動を選択したらよいかが決めがたかったのだ。東京圏は晴天の予報だが、それは北日本(日本海側)の悪天と同義だった。天候への期待は捨てるしかなかった。
ここをテント場とし、この現実から選びうる選択肢は、おおざっぱに次の3肢だった。
① 前白根山までを目ざして、ともかくも行動する。
② あっさりあきらめて、ここまで来たことをもって満足する。
③ ①と②の間の地点(天狗平あたり)まででも進んでみる。
①と③の選択も、翌朝の天候しだいでは、空虚なものとなり、これらのどの選択も前夜の時点ではできず、かといって、どのような事態になっても(天候が好転した場合も含めて)備えられるように、その態勢をとることもしなかった。少し遅めまで男性どもで雪山の雑談を行った。楽しい貴重な時間を共有することができた。
翌朝は5時の時点での天候を見て、その日の行動を決めることとなった。依然、吹雪がテントを打ち続けた。
●ひとり言
夜半、トイレに起きたが、これが冬山だと感じた。備えが不十分で、かつ自身が脆弱な心身だったら、負けてしまいそうなになる気配をかすかに感じた。例えば、今回、Fjさん、Nmさんが指に凍傷を負いかけた。こわいのは、気がつかないまま損傷が進行して、非可逆の結果をきたすことだ。それだけで、登山隊の進行は阻まれてしまう。ささいなほころびなら、まだ修復の望みはあるが、例えば誰かが滑落するとか、テントが飛ばされるとか、別の手段で復元できない決定的な事態を招来した場合、身の危険を負い、死と向き合わせになる。状況しだいでは、死んでしまう。富士山の遭難事故を自分たちと重ね合わせた。僕らの底力も年齢から低下してきている。
もう1つこわいと思うのは、テントの中にいる間は死ぬことはないが、行動を始めるや、むき出しの自然の中に全部を露出させてしまうということだ。だったらテントを出ない、というのも、非現実な話だ。この薄氷状態を背負ったまま、数時間ももっと、人工的な環境のある安全地帯まで移動しなければならない。次の安全地帯までの危険を意味する。厳冬期にテントをたたみながら、いつも雪山の危険や厳しさを感じる。
繰り返し言ってきたことだが、今回の登山では、2日目に五色沼避難小屋のそばのテントを出たあと、奥白根山の頂上に向かって右折し、傾斜が強まる樹林を抜けて、森林限界を出るあたりの、最も急な上りでの雪崩を僕は一番恐れた。新雪が降り、しかも短時間で急激な量の降雪がもたらす危険を想像すると、こわいと感じた。場合によっては、あのテント場まで進めていたとしても、そこから先は断念せざるをえないかもしれないことを、登りの前から考えた。あそこはこわいという気持ちがおきる。以前は樹林が多くあったが、酸性雨・酸性霧の影響で、年々、緑が衰退していった。
■山行日・・2日目
「5時だよ」との声を耳にした。その時点では、前夜の状態と少しも変わっていなかった。ビュービューと吹雪がテントを打ち続けていた。1時間、さらに1時間と寝袋の中でまどろむ。しかし、行動をおこすしかない。最初の起床予定から2時間が経過するころ、全員の起床となった。
そのうちにテントの外が明るくなり、日が差してきた。行けるところまで行ってみよう、ということとなった。早速、昨夜に残った鍋に餅を入れて煮込んで、朝食とした。テントを撤収し、パッキングをすませて、荷をデポしたころ、別の若者の2人がやって来た。後から30人ほどの部隊が登ってくるという。僕たちが先に出発した。すぐにラッセルが始まったが、トレースを先行者がつけてくれており、助かる。森林の中をまさしく“縫う”がごとく、見事なトレースがたどる。Fjさんに、ラッセルの経験をしてもらう。
標高2250メートルあたり、天狗平までまだ30分以上を要しそうな上りの雪深い場所で集合写真を撮って、今山行の最高到達地点とした。隣のテントにいた夫婦らしい2人連れが下ってきたが、到達地点を聞くと口を濁した。やがて、大部隊がやってきた。全員、わかん(1人だけアイゼン)を装着していた。宇都宮の山岳会のパーティーで、総勢16名とのことだった。「行けるところまで」と目標点を示した(下山後に湯元の駐車場で話を聞くと、前白根山までも進めなかったという)。
テントに戻り、下山にかかる。全員、アイゼンを装着したが、その効果は顕著だった。注意して下ること1時間15分で上級者用リフト降所に着いた。そこから第2のリフト、第1リフトとスキー場の端を歩いた。リフトの関係の方に丁重にお礼を言い、スキー場を後にした。
振り返る前白根山や五色山の方面ははるかに高く白く、神々しかった。あの峰はいつも、登攀の満足を与えてくれた。何度見た景色だろうか。温まりつつある体と指、足元が、生きている実感をよみがえらせる。荷の重さが肩にあらためて感じられるころ、バス停に着いた。周辺にあった温泉もなくなり、さびれかけた街並みの中、客はチラホラだったが、人里のぬくもりとともに、終わった、苦役からの開放を感じるときだった。みんな元気で下ってきた。よかった。
1便バスを見送ったが、15分後に次便が来た。日光では、別れるNmさんとの時間を打ち上げの口実で引き延ばして、山行の整理、反省会をすることができた。帰りは特急を使った。
今回の山行にご参加いただいた方々、いろいろとお世話になりました。
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■今山行の反省点や課題など
1)体力・気力:人数が多くなると、確率として、具合の悪くなる人が出ます。1人でも不調な隊員が出た場合は、その人の進行度に全体を合わせるしかありません。酷かもしれませんが、雪山をやるにはやはり「体力」です。お互い、がんばりましょう。
2)装備:今回は「わかん(輪環)」を持たないことにしました。全員に徹底しました。わかんの実際の適用は、とてもむずかしいものです。わかんは1人でも持たない者が隊にいてはならないのです。また、わかんは雪の密度と持つ荷物の重さとが大きく影響します。ふかふかの軽い雪にわかんを持ち出しても効果はなく、重い荷物を背負ってでは、なおさらです。3月から5月くらいの時季に、靴だったらずぼっと落ち込む雪質の歩行時に、わかんがあると沈まないですみます。絶大な効果を発揮します。しかし、荷物がそれ以上に重かった場合は、わかんのまま雪中に沈むと、足を抜くにも負担がかかり、むしろわかんはないほうがよかったりして、一定ではありません。また、持っていっても、実際にわかんが使えるかどうかは、そのときどきの状況で異なります。わかんも500グラム以上は重さがあるので、無用の長物となります。僕の限られた雪山経験ですが、わかんは経験した全山行の1/4回ほど携行しましたが、実際に使ったのは(使って効果があったのは)、そのさらに1/5以下だったと思います。
3)アイゼンの装着:外山への登りで装着していたほうが、体力、時間ともロスがなく登ることができたと思います。下りで、アイゼンのありがたみがわかりました。
4)いつも思うことですが、食材が多すぎました。「翌朝に残さない」ことを徹底する必要があると思います。翌日の行動開始に支障になります。最近の行動パターンは、朝の食事にはあまり時間をかけないで、短時間で簡単な食事をして出発とし、行動食であとまかなったほうが、時間の割り振りとして効果的だと思います。
5)寒さ対策:今回、Fjさんが手の感覚がなくなったと言われました。経過としては、寒さ(冷感)→痛み→感覚麻痺(無感覚)→凍傷となるでしょう。痛みのところで気づいて、その進行を止める必要があります。凍傷まで進行してしまい時間が経過すると、手の組織を冷凍したのと同じことになり、細胞・組織が壊死してしまいます。深部にまで及ぶと、植皮ではすまず、壊死部の切断に至ります。まず「やばい」と感じることが大切で、そのときは手袋から手を出し、懐や股間にじかに手を入れて、感覚の戻りを促し、さらに手袋から少し手を抜いて、手袋の中で指を丸めておきます。
第1リフト乗り場の前で。小雪が頬を打つ。 雪の舞う中へ、リフト上の人となる。
幸い、スキー場オープンの日で
この日は無料でリフトのお世話になった。
関係の方々、ありがとうございました。
第2リフトを降り、登山口から歩きはじめた。 外山までの急坂を登る。
膝上まで雪でもぐりながらのラッセルとなる。 峠まで暗い樹林の中の道となる。ほぼ夏道をたどる。
外山から続く尾根へ着いた。風が強まり、急激に冷えてきた。 翌朝、青空が見えた。
テント適地を探したが、結局、尾根の真上の南側をならして 上へ少し足を延ばしておこうと準備をする。
テントサイトとした。 テント撤収前の情景。
今山行最高到達地点(約2250m) 下山を開始した。樹林の中をただ下る。
あと30分余りがんばれば、天狗平まで進めただろう。 装着したアイゼンの効果は大きかった。
残念だが、いろんな事情が重なってしまった
枝間から五色山、根名草山の方面がときどき視界に現れた。 第2リフトの手前まで戻ってきた。ここで膝上の積雪だ。
急坂を注意して下る。
外山方面をバックに。五色山、前白根山の稜線を仰ぐ。 湯元バス停に戻ってきた。中央の白い峰は五色山
左は前白根山。山はうっすらとながら、
再び雪雲がおおいつつあった。
東武日光駅前から見た黄昏の女峰山。寒そうだった。 駅前から見た鳴虫山。
きれいに晴れ上がり、下弦の月が空に映えた。
黄色の街灯が駅目を浮かび上がらせた。
日没後の東武日光駅前。予約した特急を待つ間、
駅前の蕎麦屋さんで打ち上げとなった。
郡山に帰る仲間を見送ったあと、電車に乗り込んだ
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