2010年5月の山行
鹿島槍ヶ岳
(標高 2889m)





 立山・劒岳を背景に鹿島槍ケ岳南峰山頂にて 

(最も左、雪庇側に出ているオレンジ色のテントが、わが隊のもの。最左へ出た雪稜が赤岩尾根)





〈赤岩尾根〉からの鹿島槍ケ岳(2889m)
―― 眺望は最高なるも、本当にきつかった山行 ――

実施日:2010年5月1日-3日
 
参加者:
女性1名、男性3名(4名)


行路・時刻

1日 8.07天王台=8.14我孫子=9.15/9.28新宿=12.23/13.10松本=14.05/15.35信濃大町・・・16.10/16.20大谷原---16.50幕営地○21.00就寝(幕営)

2日 4.30起床/5.45発---6.40/6.50西俣出合---11.30/11.45高千穂平---14.30冷乗越---14.50冷池○21.00就寝

3日 4.30起床/5.30発---7.30/7.45鹿島槍ケ岳山頂---9.05冷池テント場/10.10発---12.15/12.30爺ケ岳南峰---16.40/17.00扇沢出合・・・17.41信濃大町・・・18.35松本・・・21.06新宿・・・22.40帰宅


装備:
隊 テント1張り(ダンロップV6旧式:6人用)、マット2枚、コンロ2台(ガソリン仕様1台、ガス仕様1台)、燃料(ガソリン1L+0.5L、ガス小1個)、ランタン1台(ガス仕様、燃料小1個)、スコップ1本、ロープ2本(8.5mm×30m、8mm×20m)、スノーバー2本、ツェルト/個人 冬山用装備一式(防寒衣類、手袋、その他)、登攀具(ピッケル、アイゼン+ハーネス・付属具)、その他


経費:1人につき、電車片道約6,300円×2、タクシー3,000円(往復)、テント場代500円、その他で合計約17,000円






今山行のこと:

わが会における本山行の意義
 本会ではほぼ毎年、ゴールデンウィークには、ふだんは行けない豪雪地帯や南北のアルプス級の対象を目標として “大山行”が行われてきた。今回もその趣旨に山行だった。今年は山行が飯豊山域(頼母木山1708m)と鹿島槍ケ岳の2つに割れてしまったが、2つに(さらに日帰り山行も含めると3つに)分けたので正解だったと思う。同じレベルや志向でない会員を抱える以上、選択肢が増えるのは、参加者総数の増加につながり、ひいては山岳会の活動の高まりに寄与するからだ。

 それにしても今回の鹿島槍ケ岳への赤岩尾根ルートは、テント山行として実施するには大変で、鹿島槍ヶ岳山行1本として参加メンバーが募られていた場合、メンバーしだいでは途中での脱落や山行部隊自体の挫折、行路の変更が生じていた可能性さえ想像される。

 しかし、山行の大変さは年齢による体力減退で増幅され、われわれのような年齢の者たちにはその意味でなおさら大変だったとはいうものの、この山を選んだことが誤りだったとは、私はまったく考えていない。身体的・精神的な奥行きが試された山行として考えるなら、なんとかでもやりおおせたことの意味は非常に大きいと思う。今年のがんばりが、とりあえずは“自分たちの能力”を証明することとなったし、“寿命”を1年先に延ばしにしたというひそかな快感もある。


赤岩尾根のこと
〔急壁山脈の形成〕

 鹿島槍ケ岳は白馬岳・針ノ木岳・五龍岳などとともに後立山連峰(劒岳・立山を日本海側から望む富山・石川・福井の各県側を主軸にした表現で、その立山の背後にある山域としての名称。つまり、この名称が言われた当時は、日本海側が松本側もよりさまざまな面で発展していたと推測される;岩波新書『裏日本』参照)に位置し、双耳の特徴で遠方からもそれと認められる山だ。また山の形成過程に関しても特徴がある。長野側には、JR中央線‐大糸線に沿って、糸魚川‐静岡構造線という地質学上の断裂地形が走っており、後立山連峰の東側が急峻な落ち込みをつくっている。加えて、立山・劒岳側からは、日本海性の多雪が強烈な季節風によって吹き飛ばされて東南側に大きな雪庇を形成し、その崩落を繰り返すことによって山面がえぐられて、突っ立ったスプーン状の渓谷が山の基部に向かってつくられる。このようにして長野側の斜面には、内に椀状となった幽谷を刻むこととなった。

 そのような経過にもかかわらず、長野側に根っこをしっかりと張って、山頂や稜線と基部をつなぎきった尾根が残った。遠見尾根や八方尾根などがそれだが、赤岩尾根もその1つだ。いずれもが一般の登山道を通す。とはいえ、赤岩尾根は基部から稜線までの水平距離が極端に短く(他の山域と比較しても随一だ)、辛くも山体の主斜面に同化するのに堪えた尾根と推測される。一方、鹿島槍ケ岳東尾根や、白馬岳山頂へつながる白馬岳主稜は、赤岩尾根よりもずっと長く尾根を高々と引くが、これらには急激な非凡箇所が登場する。上部には本格的な岩場を持つ一方、森林限界を越えて最後の稜線に飛び出しても、有雪期にはナイフリッジとなる。それに、行路がとても長い。幕営場所もあちこちにあるわけではなく、その“安全地帯”間を許容時間内で踏破しきる力が、この経路の登攀では必須なのだ。頂稜に出る間際の傾斜や状態は、赤岩尾根の比較ではない。

※私たちの山行の10日ほど前に東尾根を試みたパーティーの中に、1人の女性脱落者が出て、彼女が単独で下山する際に滑落をおこし、死亡したとのニュースに接した。

 鹿島槍ケ岳には、有雪期には爺ケ岳南尾根からのルート、赤岩尾根ルートが一般にとられるが、近年、赤岩尾根ルートはハードであるために、ここからの入山はあまりみられなくなっていると聞いた。バリエーションルートでは爺ケ岳東尾根ルートがある。さらに、天狗尾根、北壁ルート、五龍岳からのルートがあるが、どれもむずかしく、一般性を欠く。なお、下りには冷乗越から先、北沢雪渓が使えるが、周囲の状況や雪質を十分に確認する必要がある(雪崩に対する注意書きがある)。


〔赤岩尾根の危険〕
 赤岩尾根は下山には使えないことを、初回の1996年の同じ時季の5月初めの山行で感じた。今回、概算してみて、尾根全体の平均斜度は27度にもなったが、その傾斜は、西俣出合からの1/3あたりまでがとくに急だ。急なこの傾斜を、ほとんど直登するルートだ。しかも、部分的には細い尾根上など、尾根からの左右への転落に対する危険で神経集中を要する場所もある。以前も、もしここで決定的にバランスを崩し、あるいは転倒した場合など、いったん斜面下方への動きが生じてしまった場合には、停止はもちろん、大きなザックを持った自身を保持することはできないだろう、と推測された。

 かなり以前のことだが、赤岩尾根での山岳遭難という新聞記事が目にとまった。たまたまその方の著作(岩波新書『山への挑戦』)などから知っていた登山家、堀田弘司氏(当時62歳)が、2002年3月下旬に登山客7~8人をガイドして赤岩尾根を下山中に滑落し、病院に運ばれたあと亡くなった。ガイド中だったことは最近知ったが、当時、なぜあのような尾根を下るのだろうか、と怪訝に思えてしかたがなかった。

 また、1996年の本会の会報に寄せられたI君の山行記にあらためて目を通してみたところ、赤岩尾根の上りで危険について何度も言及があった。しかし、若かったがゆえにか、時間的には今回よりも少し早めに推移している。とはいえ、今回がとくに遅かったとも思われない。しかも、前体験がザイル2本(φ8.5mm×20m、30m)と個々人のハーネス(および付属器具類)、スノーバー2本、ツェルトを追加させた。往時には、これらの登攀具類は携帯していない。これらだけでテント1張り分の加重となっている。荷は以前よりも重かったのだ。


●1996年5月の山行データ
1日目:夜行の23.50新宿発に乗る
2日目:5.08/5.38信濃大町・・(タクシー)・・6.10/6.35大谷原・・7.50西俣出合・・11.30/12.00高千穂平・・14.35冷乗越・・15.00冷池テント場〈幕営〉
3日目:4.00起床/5.15発・・7.05/7.30鹿島槍ケ岳山頂・・8.50/10.50冷池テント場・・12.50/
13.15爺ケ岳・・16.28扇沢出合・・17.30/18.47信濃大町・・19.47/20.00松本・・22.36
新宿・・0.15帰宅(帰宅が翌日になったのは、新宿で小1時間、反省会をやったせいと思われる)



山行の実施

5月1日/晴れ(ほぼ快晴)

 初日は大糸線・信濃大町駅まで、午後の遅くない時刻に行くことを目標とした。Tmさんのおかげで新宿発の特急には、日ごろ出勤の時刻よりもゆっくりとした出発でよかった。我孫子で3人がそろい、新宿に向かう。臨時便で、青空の下、新緑に萌え出そうとする山面を眺めながら車中・車窓外を楽しむうちに、松本に着いた。

 松本駅でKwさんと合流し、大糸線に乗り換えた。ところが、いくらも行かないうちに、Mhさんがピッケルをどこかに置き忘れしまったことが判明した。スノーバーとスコップの取っ手をつないで、ピッケルの代行とすることを私が思いつくよりも早く、Kwさんの対応が開始された。ピッケルの入手を携帯電話で調べはじめたのだ。松本まで戻れば、石井スポーツ(ICI)の支店があり、入手できることがわかった。そのうち、穂高にも登山用具店があることがわかった。Mhさんだけ車内に残し、3人は信濃大町で改札口を出て、Mhさんの再来を待つこととなった。標高680m程度の信濃大町駅前の桜はちょうど満開だった(我孫子とは1月の時差があった)。2時間余のロスを覚悟したが、1時間半ほどで新しいピッケルを片手にMhさんが着いた。

 早速、タクシーに乗り込み、大谷原(「おおたんばら」と読む)に向かう。以前、登山者をよく世話したことで有名な鹿島山荘のお婆さんの話を、運転手さんからあらためて聞いた。大谷原の橋の手前でタクシーは停まった。ここの標高は約1050m。ここには山荘があったとの記憶があるが、その形跡はまったくなかった。雪を帯びた冷池あたりの寒々とした雪稜が視界に入ってきた。

 先を急ぐ。ゲートを左からすり抜けると、雪道となった。わずかに上りとなる。30分ほど行ったところで、河川敷の縁にある平坦面を幕営地とした(すぐ手前に東尾根への取り付き口があった)。ひと通りの宴会をすませ、9時前に就寝した。

5月2日/快晴・無風

 4時半起床、5時半出発。今山行では、これを早朝の行動パターンとした。Kwさんを先頭に、車道上と思われる雪面を登る(トラック用の治山道路だそうだ)。水平距離にして約1.5km、小1時間進むと、西俣出合に着いた。ここは、鹿島槍ケ岳の東面から水を集める北股本谷と爺ケ岳側から流れる北沢がぶつかり、大冷沢と名を変える箇所だ。単独のスキーヤーがシールをつけて北沢を登っていった。

 アイゼンを装着し、出合から北沢側に数十m進んだ地点で右へとると、赤岩尾根への取り付きとなる。いきなり急な傾斜となる。ところどころ根が露出した地帯や岩混じりの地帯をやり過ごしながら、雪面の登高を繰り返す。傾斜は40度以上だろう。尾根は細く、左右への切れ落ちも急だ。樹林はまばらで、“危険隠し”の効果はあっても、実質的なブロックの役をなさない。転倒や滑落は絶対におこしてはならない。傾斜が緩んだところに、若者2人が下ってきた。

 赤岩尾根の出だし1/3の急な部分がすむと、少し傾斜が落ちて尾根の幅も太くなり、左右への危険はなくなる。25kg前後の重荷を背負っての登高で、歩速は伸びない。本当にきつく、愚痴が口もとまで出かかっては、胸に押し戻す。標高はなかなか上がらない。この日に標高2400mの冷池乗越まで、いったい何ピッチを要するのだろう。高度計の数字は5mずつしか上がっていかない。

 ハイマツの林を左側に回り込むようにして進むと、左手高くにはヒマラヤ襞をまとった爺ケ岳北峰が大きく見え、程なく高千穂平に着いた。標高2000m。鹿島槍ケ岳全容の観望台だった。冷池は崩壊が激しく、赤茶けた色を雪庇の下ににじませていた。指呼の間にあるようだが、ここからさらに3時間を要する。

 以前は、このあたりからハイマツ帯が露出し、2~3か所、急な上りもあり、そこを激しく乗り越えた。今回は、植物はすっかり雪の下だった。真っ青な空にダケカンバが映える急な雪面を登りきると、植物が消えて、尾根の上の行路となった。

 やせ尾根を越え、最後のトラバース道にかかる。乗越に出ると、一気に西方の峰々が視界に入ってきた。テント場が気になりはじめ、先を急ぐ。冷池キャンプ地に着くと、満足にテントを張るスペースは残っていなかったが、雪庇側への寄り過ぎの危険を呼びかける「注意書き」ぎりぎりのところをもらうこととした。

 締まった雪を掘り、西側(黒部川側)にブロックを積む。テントを建て、ザック類をテントの中へ入れた。Tmさんが山荘に幕営の申し込みしにいったついでにビールを買ってきてくれた。みんなに笑顔が戻り、野外で「乾杯!」の声が響く。冷池は、小規模ながらテント村の趣だった。日没というときになって、あふれるほどの登山者が外に出てきた(小屋泊まりの登山者も多い)。劒岳の方面に沈む夕日を眺めた。

 私たちは明日に備えて水は多量に作り置きし、昨夜と同じ時刻に就寝した。見事な星空だったと言う。


5月3日/晴れ(快晴)

 4時半に起床し、とくに食事としての食事はしないまま(めいめい勝手に食べ)、サブザック1個で5時半にテントを後にした。アイゼンを装着した。ここからの標高差は600m弱だ。山荘の前を通り、雪稜部を東側に寄り過ぎないように注意しながら、踏み跡をたどる。布引岳には大きな雪庇が張り出し、山体との境目に割れ目(ラントクルフト/ベルクシュルント)ができはじめていた。北峰から連なる東尾根を真横から眺めながら、ずっと上を行く3名を添景に、シャッターを切った。2時間ちょうどで山頂だった。

 眺めが素晴らしかった。景観に関して言うと、私の好みは立山‐劒岳方面ではない。劒岳の東には、毛勝山や猫又山が並び、山脈規模としては勇壮だが、立山連峰があまりにもしゃしゃり出すぎて、その背景を隠してしまうため、一重の山脈を真正面から見ることしかできない。むしろ、そこから120度右に視点を回す。八峰(はちみね)のキレットを配する長いスリリングな稜線を足もとから派生させ、ぐっと落ち込みながら黒々とした岩を露出させた五龍岳にまで架かるその姿と、さらにその背後に横たわる唐松岳、白馬三山など、奥行きのある何重にも重なり合った山々のほうに目がいく。

 山頂には15人程度いた。私たちの集合写真の撮影をお願いして、山頂を辞した。下山は速かった。冷池のテント場が見えたが、雪庇の出は往年よい小さいように思えた。

 テント場に戻り、1時間での撤収ののち、10時にこの日の下山にかかった。爺ケ岳への上りを、ゆっくりと歩いた。蒼空下、大きな爺ケ岳南峰がドカンと居座る。その左右に北アルプスの西部(餓鬼岳、燕岳、穂高山域など)が背後に並ぶ姿に圧倒された。立ち止まって、この日最高の1枚をカメラで切り取る。爺ケ岳山頂では針ノ木岳、蓮華岳などの眺望を堪能したあと、下りにかかった。下りで見る北アルプスの峰々の、すっきりとした青みを帯びた透明感が記憶に残った。

 長い尾根だった。爺ケ岳からの南側直下は、融雪して岩礫が露出していた。数か所、テントが残置されてあった。東側に出た雪庇が格好の下降路を提供してくれたが、この先で雪稜が終わり樹林に入ってから、下りの速度が顕著に落ちた。今回の山行の本当の“苦しみ”は、ここからの数時間に凝集されていたといっても過言ではなかった。樹林の根の間に残って張り付いた薄氷が、下山を悩ましいものにした。アイゼンを外すタイミングもむずかしかった。

 しかし、みんな苦行者の顔相を隠さないままにも、他を少しもたのむことなく、確実に扇沢出合の安全地帯まで下りおおせた。当初予定していた、扇沢のバスターミナル(BT)まで車道を上り返して、BTから長野まで定期バスで移動し、長野新幹線で帰途に就くという安楽計画は断念し、タクシーを呼んだ。大町まで戻り、幸運にもとんとん拍子に乗り継ぎがいった。Kwさんと松本まで一緒したあと別れ、松本から飛び飛びの席ながら「スーパーあずさ」に座ることもできた。帰宅は当初の計画で予定した10時半を少し回ったころであった。

 同行された方々、たいへんお疲れさまでした。今後も、かなう限り高い山を目ざしたいと思っています。懲りずにお付き合いください。


【補足】今回の食事は簡素に、1日目の夕飯は駅弁か何か、2日目はレトルトカレーとパックご飯(またはアルファ米)の組み合わせだったが、なかなかいけた。なお、パックご飯は、事前に家で温めて粒をほぐしておくと、当日は短時間の加熱ですませられる。







 今年の雪の量は多いのか、少ないのか、について。

今冬は、いわゆる“西高東低”型の気圧配置をとった時期が意外に長くなかった。その割には雪が多いと言われているが、その実態はどうなのか。雪のもととなった水分を調べれば、どこの水域の水が雪となったかがわかる。結論から言うと、日本列島に今冬に降った雪の多くは、太平洋からのものである。西高東低の気圧配置では、日本海性の湿った、重い雪が北西から吹き付け、南東側に雪庇を大きく張らせる(この雪は寒雪といわれ、雪の粒子どうしの結合が強く、雪庇も崩れにくい)。この型の雪でなかったために、降雪の嵩自身は多いのだが、雪庇をあまり大きくはつくらない。季節風が吹く時期も短かった。代わって、太平洋岸に近いため、富士山や南アルプスの高所に例年よりも多くの雪をもたらした(通常、この雪は春雪、暖雪といわれる)。日本列島脊梁部の谷川連峰も例年よりも寡雪だったと私は推測している。平年だとほとんど積雪がないといわれる新潟市なのどの平野部に、珍しいほどの降雪があり、積もった。太平洋ではないにしても、移動性の低気圧に、たまたま大陸の寒気がぶつかって雪となったのであって、従来型の本来の厳冬期の雪と基本的に異なる生成過程による。このような根拠として、中国からの黄砂の飛来の影響が雪層中に見られた(冷池テント場の雪表面下約60~70cmあたりにあった)。中国からの影響は、春型の気候の推移を示す移動性のものであり、西高東低の大陸型の影響を否定する。
 
            
   
 
大谷原(「おおたんばら」と読む)の橋の手前でタクシーを降りる。先に開けてきた景観に目を凝らした。この地点の標高は、1000mジャストといったところだ。自家用車が何台も停まっていた。すでに斜陽化したその日だったが、「進めるところまで」と当初の予定に従って場所を上に進め、30分程度行ったところで幕営地とした。その手前の右への踏み跡が、鹿島槍ケ岳東尾根への入り口だった。周辺に赤布が何本も垂れていた。
2日目、出発後の様子。進行方向右手が赤岩尾根、左手が冷尾根(ここに登山ルートはまったく取られない)。このあたりで標高は1100mそこそこ。
この地点が西俣出合。ここから右は北俣本谷、左は西沢に行く。この左右を合わせて大冷沢となる。昨夜幕営した川原の岸辺も大冷沢の縁だった。1人のスキーヤーが西沢を登っていった。僕たちはここから右にとって、赤岩尾根に取り付いた(黄色い小さな標識があった)。
地図でも明らかなように、赤岩尾根の取り付きからしばらくは急激な傾斜が続く。木の根っこや瓦礫の落ち込み以外にほとんど裸地となった箇所はなく、雪のついた細い尾根をひたすら登る。尾根の左右に樹林を配しているが、尾根自体の傾斜はもちろん、尾根の左右に落ち込む斜面も急だ。以前の山行では、ここは上りに使っては危険だと銘記した。そこを、2人連れの若者が下ってきた。
赤岩尾根を逸らさず、ひたすら高度を上げる。尾根の幅が少し太くなり、危険を感じることはなくなったが、傾斜は相変わらずだ。
出合から歯を食いしばること4時間半かけて達した高千穂平で。背後に爺ケ岳の東尾根が走る。爺ケ岳の北峰がぐんと近づき、いわゆる“ヒマラヤ襞”が特徴的だ。90度右に目を転じると、土崩れで赤茶けた下部を見せる冷池、そこかから続く布引岳、鹿島槍ケ岳の南峰・北峰、さらには東尾根にかけてが、湾状に1枚の障壁をなして立ちはだかる。冷池が指呼の間に見えるが、実は、距離からすると、西俣出合から冷乗越までのまだ中間地点でしかなかった。2人の夫婦連れが登ってきた。
以前と比べて雪の量は多いように思えた。このあたりは、以前はハイマツが出、かといって登山道はなく、植物を傷めながらの登高だった。今回は、被雪した斜面を行く。この下は傾斜が急で、雪が緩むとブロック雪崩がおこる危険性がある。ダケカンバが空の青さに映える。
写真を撮りつつ最後尾を行く。目を離せないのが、やはり鹿島槍ケ岳方面だ。左から布引岳、鹿島槍ケ岳南峰、北峰。
最後のトラバースを終えて飛び出た冷乗越。これまでの苦しさが、ここからの展望で一気に癒される。遠くは立山から劒岳にかけて、近くは爺ケ岳の3峰や冷池山荘が視界に入ってくる。苦しそうな後続にエールを送るが、トラバースが大嫌いなMhさんの耳には届かない。
冷池のテント場に差しかかって、尋常ならざる状況を見た。なんとテントの多いことか。以前の数張りに比べると、あまりな違いだ。推測するに、年配者が定年を迎えて、再度、山に戻ってきたのではないか。若者もけっこういたが、わが隊と同じような年配者による隊も少なくなかった。
テント場近くから見た、残照に輝く鹿島槍ケ岳の頂稜部。太陽は写真の左側から最後の斜陽を注ぎながら、劒岳の八ツ峰付近に沈んだ。同時に、真っ赤な残照が爺ケ岳に当たった。近くは針ノ木岳、遠くは穂高連峰・槍ヶ岳まで、残照が最後の北アルプスの山岳部の造作を浮かび上がらせた。
冷池のテント場から見た、この日最後の爺ケ岳の北側斜面の輝き。濃度を下げながら、色彩の度を下げ、墨絵の世界に入っていった。場所をテントの中に替えて、疲れてはいたが、わが隊の仲間は遅くまで話を継ぎ続けた。
下山日の3日の早朝、テントを出てしばらくして振り返り見た冷池乗越。冷池の山荘の向こうにあるケシ粒ほどのオレンジ色の点が、わが隊のテント。松本平野に霞がたなびいた。この日も晴れ上がる!
鹿島槍ケ岳がしだいに近づいてくる。左から布引岳、鹿島槍ケ岳南峰と北峰。
鹿島槍ケ岳への上りで振り返り見た爺ケ岳方面。早朝の荘重感が漂う。最奥の山脈は穂高連峰と槍ヶ岳。
山行まで数百メートルの距離。高所の雪稜の、えもいえぬ情感がかもされる。
鹿島槍ケ岳南峰頂上から見た北峰。南北の峰の間は吊尾根とよばれる。北峰から右に下る尾根が東尾根だ。南峰から北峰へは、急なナイフリッジを下り、さらに雪稜を進んで取り付かねばならず、危険と時間の加減から今回も断念した(この時季の南峰登頂者のほとんどは北峰をパスする)。東尾根からかすかにたどるトレースが見える。吊尾根の中ほどの平坦面は幕営が可能だ。
鹿島槍ケ岳山頂から見た五龍岳、白馬岳の方面。画面上部の右手に伸びる白い稜線が遠見尾根。撮影者として、今回の写真ではこの一こまがいちばん好きだ。
爺ケ岳中峰から望む南峰。意外に、けっこうなスケールだ。右の尾根に下れば種池に、山頂を越せば南尾根に続く。
爺ケ岳山頂付近から見た劒岳の方面。下に顕著な刻みをうがつ谷筋は、欅小屋沢。この沢が黒部川にT字状にぶつかった地点が、有名な十字峡だ。十字峡から左へとると下ノ廊下、それをさらに6~7km遡ると黒部湖に至る。
爺ケ岳南尾根を下り始めた。進行方向に見えるのは、中央部左の平たい山が蓮華岳、その右が針ノ木岳。針ノ木岳から下っている雪渓が、有名な針ノ木岳雪渓だ。雪渓をさらに下にたどると、最低部となり扇沢に至る。この写真では見えないが、おびただしい自家用車が駐車している光景が俯瞰できた。南尾根は、ここからさらに左に進み、そこから右のほうに回り込むようにして扇沢出合に下る。
ようやく扇沢出合に着いて、ほっとした仲間(Mhさん、Kwさん)の表情。扇沢バスターミナルまで登り返す苦労を厭い、ここでタクシーの到着を待った。そのため、長野までバスで行って、長野新幹線で帰るという選択肢はなくなった。

 
    

   
                        

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