12月山行

仙丈ヶ岳(3033m)



晴れ上がった甲斐駒ケ岳方面

北沢長衛小屋前の幕営指定地。白い峰は小仙丈ケ岳


    



北沢峠で終わった仙丈ケ岳計画


◆実施日:2012年12月22日~24日(山中2泊)

◆参加者:男性4名

◆行路と通過時刻:22日 7.00我孫子駅北口--11.30双葉SA--13.00伊那IC--15.00戸台川の駐車場/                21.00就寝《幕営》

23日 5.00起床/7.30発--11.30角兵衛沢への分岐--11.50丹溪山荘--12.05/12.20昼食--
   15.50大平山荘--16.15北沢峠--16.35北沢長衛小屋--21.30就寝《幕営》

24日 6.30起床/1.00発--13.40丹溪山荘--15.40/15.50第3堰堤--17.20戸台川駐車場--23.15帰宅

◆装備:厳冬期のテント山行に必要な共同・個人装備一式(詳細は略)

◆食事計画:22日夕-市販の弁当、23日-レトルト食品、24日-焼肉(夕食以外は各自食)

◆経費:1人約10000円
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●はじめに
 本会では、厳冬期仙丈ケ岳の1回目の山行を1993年1月に試みている。そのときは雨が降り出して撤退した。その後、1995年1月に4人で2回目を試みた際には、-15℃の寒さと吹雪で同行者の1人が頬に凍傷を経験している。そのときは3名で登頂を果たした。3回目は、故Fj君が一緒したが、仙水峠までで終わっている。

 今冬は、昨年12月上旬から早々に大陸の寒気が南下し、本格的な西高東低型の気圧配置が長く居座る格好となった。北陸・日本海側のみならず、南アルプスでも例年以上に天候が荒れることを、昨年12月中旬におきた仙丈ケ岳での遭難死亡事故が告げていた。地形的あるいは登攀的な危険が全体的にさほどないあの山でなぜ遭難がおきたのか、推し量りかねたが、激しい暴風雪が彼らを見舞ったに違いない。

 今回の山行を考えてみても、とくに有雪期には樹林中の小仙丈ケ岳までが長いうえ、積雪量が多く、ラッセルを強いられる。また小仙丈から先も、吹きさらしの雪稜部が延々と続く。暴風雪をまともに受けながら、視界の閉ざされたこの領域を進むのが容易でないことは、誰にも察しがつくだろう。
 今回の山行に先だって、いつものように打ち合わせを行い、山行に備えた。



■12月22日
 登山口となる戸台川の河川敷駐車場までは、車を使うことにした。我孫子駅北口で7時に待ち合わせ、荷物を積み込んで4人で予定の時刻に出発した。連休初日だったが、たいした時間のロスなく中央道に出ることができた。笹子トンネルの崩落事故の影響で迂回路となる30km分は、大月-勝沼間を一般道に下ったあと中央道に戻り、けっこう雪を帯びた甲斐駒ケ岳や鳳凰三山を左手上方に仰ぎ見ながら順調に進んだ。伊那ICで中央道を出ると、市街には雪があちこちに残り、関東平野との気候の違いを見せていた。早速、その日の夕食とする弁当や飲み物の調達にスーパーのAPITAに立ち寄る。夕食に加えて、23日の朝食もでき合いのもので充てることにした。
 高遠を過ぎ、長谷村で美和ダムを右に見て左折し、どんどん山の奥地に入っていく。道が車幅近くまで狭くなり、戸台川の河川敷に着くと、6台の自家用車が駐車していた(ここはちゃんとした駐車場で、トイレもある)。駐車場のそばに環境省の若い野鳥監視員が、大型のフィールドスコープを構えて立っていた。寒さのなか、ご苦労さまだ。この河川敷は乾燥の時期にはほこりっぽくて困るが、今回は雪上なので快適だった。
 僕らは車のそばの平坦地にテントを建てたあと、「山間」という表現がぴったりのロケーションに引かれて、夕暮れ前の小1時間、河原に移動した。雪のある川床につまみとビール、日本酒を並べ、山行の成功を期して杯を重ねた。-2℃まで気温が下がった。寒いが、雲を頂く甲斐駒ケ岳方面の豪快な姿には、何度見ても陶酔感を覚えた。西の山に日が沈むのを見届けて、テントに入った。しばしば鹿の鳴き声を近くに耳にした。スーパーで買った弁当は調理する手間が省けたし、けっこうおいしかった。9時に就寝とした。
 


■12月23日
 5時に起床したのに、予定より30分遅れの7時半の出発となった。SLのHTさんに先導をお願いし、あとはFNさん、NMさん、私TNの順で隊列を組んだ。戸台川左岸のはるか何百メートルも上には、無雪期に運行されるバスが通う道路が見えた。第1の堰堤を登りきり、右岸に沿って進む。ハンターなのだろう、猟犬の鳴き声が車のエンジン音とともに大きくなり、堰堤の上の車道で停まった。

 以前には登山道らしい経路が河川敷の中をたどっていたが、15年ほど前の台風で河原はズタズタの状態になった。その数年後に鋸岳遭難を経験し、脱出後、その河原を暗闇のなか歩いたが、荒れたその余韻がまだ河原に残っている気がした。バス便を利用するのが一般で、いまやこの河川敷コースを利用するのは、季節外れに入山する少数者だけとなり、道は荒れている。数か所、小さな徒渉を挟む。第2の堰堤のすぐ向こうには第3の堰堤があり、近づいてきた甲斐駒ケ岳の姿が眺望できた。

 左岸に渡り、鋸岳を目ざす場合のルートとなる角兵衛沢への入り口、さらにその先で
熊穴沢への入り口を示す標識を見る。少し行くと、「甲斐駒ケ岳六合コース使用禁止」と標示があった。そのあと、歩きやすいカラマツ林の中を進む。その先で丸木橋を渡り、10分余で丹溪山荘に着いた。かつての面影はなく朽ち果てつつあった。小屋からの数十メートル上が予想外に危険で、滑りでもしたら一大事となる。注意を促し、手も使って慎重に登る。ここを抜けた樹林帯で昼食とした。とても寒い。

 八丁坂を半ばまで登りきると、その角地が切り払われて開けていた。バス道が目線に近づき、その高さの差がわずかとなったのが励みだ。ここからは針葉樹林帯のなだらかな道となる。直径が50センチ近くだろうか、倒木のオオシラビソの切断面はざっと100年の年輪を刻んでいた。その上で車道に出たあと、再度、樹林の薄暗い道に入った。ここを抜け、小屋の人らしい2人と行き違ったあと、いくばくもなく太平山荘の前に飛び出した。小雪の舞うなか、ゆっくりしている時間はなく、手綱を緩めずすぐに歩を進める。最後の樹林の傾斜を登りきると平坦な車道に出た。北沢峠だ。時間は予定を大きく過ぎ、4時をまわっていた。オオシラビソの大木が街道の並木道のように並び立つ樹間を、遠くに消え入るように疲れた体を運ぶ仲間の姿を最後尾から激写した。長衛荘は光が灯っていた。すぐ峠を後にして下ると、15分でテント場に着いた。雪のテント場に4張りのテントがあった。この山にしては、入山者は少ない。遅く着いた私たちは、雪の舞うなか、そのテント群から距離を置いたところを選んで、急ぎテントを張った。

 北沢長衛小屋に受け付けに行くと、まだ若い主人と奥さんが対応してくれた。「仙丈まで往復は8時間くらいですか」と何げなく聞いたのがうかつだった。「今年は状況が違っていますよ。へたするとその倍かかっています。テントの4人も小仙丈から少し行ったところから引き返しています。あとから行った2人も小仙丈の上までしか進めなかったようです。ラッセルのため、小仙丈までも大変なようです」という予想外の言葉が返ってきた。画面で最新の天気図を見せてくれ、典型的な西高東低の冬型の気圧配置が数日は居座るとの予報だ。言葉を継いで「天候に関しては微妙です」と言う(裏日本ではない長野県南部であり、冬型の影響がどれくらいとは確言でいきないので、各自で判断せよ、という意味だった)。意外な状況に戸惑ったが、仙丈ケ岳に登るつもりで来た私たちにも、自分たちで結論を出せ、と告げられた気がした。

 率直なことを書けば、行動の選択で隊列を分けるというのは、リーダーとして私の気持ちには最初からなく、行動を共にした以上、可能な限り全員が同じ行動をとるべきであり、それができるところまでレベルを下げても、全員で足並みの揃うような選択肢を探索するのが最良の選択だ、とってきた。結論はおのずから出てしまう。
 テントに戻って、3人との宴会にあらためて合流した。乾杯をするころには、私の気持ちも明日に向けて踏み出す気概と希望を見いだそうとしていた。だが、なぜか誰も杯が進まず、だらだらと時間が過ぎた。
 食事を終わり、水分も十分補給し終わって食器の始末をするころになって、FNさんから控えめに「リタイア」という表明があった。僕は聞かぬ振りをした。そして、翌日の山行のパッキング態勢に入った。だが、テントの中はいっこうに片づいていく気配を見せなかった。気がはやるとは思いつつ、先の結論に再度立ち戻る決断をあえてする。山頂を目ざすのは無理で、もともと僕たちには状況的にむずかしい面があった。小仙丈を目ざすとか、仙水峠まで行くという選択肢はありえたが、中途半端に行ったからといって、意味があるとも思えなかった。天候も微妙だし、明日、上を目ざすのは断念することを決断した。9時半過ぎ、明日の予定は白紙に戻した状態で眠りに就いた。夜半、寒さで何度も起きた。



■12月24日
 早朝、テントの外をのぞくと、雪がちらちら舞っていたが、ひとまず6時半に起床した。そのうち、山行行動とらないなら、下山日を1日早めてはどうか、という意見が出、それに自然にまとまった。テントをたたんで下山を開始したのは10時になっていた。下山とはいっても、かなり遅い。周辺のテントは1張りもなくなっていた。

 12時20分に八丁峠の開けた角の休憩地で食事とし、アイゼンを装着した。丹溪山荘の手前の危険地帯の通過は、案じたよりも簡単だった。一方、下山の歩みは速いが、山荘の下で食事をしたときは2時前になっていた。少しあせりを感じたが、遭難時にはこの河原で真っ暗闇になっていたことを想起して、自らなだめた。丸木橋を渡り、順調に進む。右岸の歩行となり夕暮れの気配が近づき、終着点が見えだすころ、なんでもない徒渉で私が苔むした石の上でスリップして転倒し、水に下半身が左半分浸かってしまった。カメラも水没した。

 車まで戻ったのは5時20分だった。荷を解いて、すぐ出発した。高遠の、山岳救助隊の副隊長をしていた方が経営する華留運(けるん)といういつもの蕎麦屋さんに立ち寄ったあと、中央道の上り車線を一路、走る。幸い、高速道は正月前のせいか空きに空いており、3名を送り届けて帰宅したのは11時過ぎだった。同行のみなさん、お疲れさまでした。(TN)

■凍傷:生体(ヒト)の組織は、生理的な温度域(34~42℃)を外れた、高温と低温域で破壊を受ける。タンパク質からできている組織の構造が崩れるためだ。体温は血液によって供給されるので、末端にいくほど血液は流れにくくなるため、凍傷は通常は手足の指先や、頬・耳・鼻などの露出部におこる。食塩水を氷らせたとき、凍結した表層部分は塩辛くないことをご存じだろうか。水溶液は凍結する際に溶質成分(NaナトリウムやKカリウム、糖分など)を解離させて、その純水となった部分だけがまず氷結する。凍傷でも、組織中の体液(体内にある液体)から電解質が解離して、水だけが先に凍結する。その結果、血流が止まり、体温をはじめ酸素と栄養素の供給が途絶えて、準凍傷状態が出現する。さらに進むと、凍結による機械的な破壊がおこる。これらの多様な傷害作用を受けてタンパク質の構造が崩れ、組織が崩壊する。一度崩れた組織は壊死し、壊死のあとにはタンパク質の腐敗や炭化がおきる。凍傷のおきた組織はその結果、潰瘍化するか、黒く変色する。凍傷を負ったGtさんの頬のその部分は、黒くなっていった。


12月22日の夕刻時の河原での宴会風景。3人の視線から先には甲斐駒ケ岳を中心とした豪快な景観がある。

22日の甲斐駒ケ岳の方面の日没前

12月23日の朝、出発して間もなくのころ。ひたすら先のこの山間のギャップに向かって歩を進める。
雪の戸台川河川敷上を進むと、少しずつ奥の方面が視界に入ってくる。

戸台川上、荒れた河川敷の登山道からの甲斐駒ケ岳。まだまだ丹溪山荘までも遠い。

角兵衛沢への分岐。鋸岳登山への最も一般的なルートだが、岩棚から上が砂礫の急な傾斜地で、登りづらい。角兵衛沢の上2/3に「岩棚」という名のテントサイトがあり、ここで1泊する(▼後掲の写真参照)。日没前のここからの甲斐駒ケ岳の中央アルプスへのシルエット投影は、圧巻だ。

駒ケ岳(伊那側からは「東」駒ケ岳とは呼ぶ)六合目石室へ至る、丹溪山荘とを結ぶルート(七丈ケ岳尾根)は崩壊が激しく、「通行禁止」となっている。


どこが行路ともつかない、荒れた戸台川のルート

八丁坂の間、針葉樹林帯の中の緩やかな傾斜地 林帯を抜け出ると、林道(バス道)が近づいてきた。バス道を左へ行けば、太平山荘に間もなく至る。


同じくバス道を見る。右端の三角錐型の山は横岳(釜無川から鋸岳に入る場合に通過する)。 八丁坂の上部で樹林の切れ間から見た角兵衛沢の岩棚。垂直の岩壁が横50メートル、高さ100メートルの規模でむき出しになっている。棚の下端に、4×12メートル程度の岩の平坦地がある。岩棚の下部の亀裂からは清水が得られ、季節によってはそれが大小さまざまな氷柱(つらら)を作っている。

北沢峠(2032メートル)。周辺には大平山荘、長衛山荘、北沢長衛小屋の3つがある。この時期にもこれらの施設にバス路線から車両で物資類を運んでいるのだろう、わだちの跡がみられた。                    


北沢峠にあるトイレ付近。閉鎖されていた。その向こう側から仙丈ケ岳への登山道が通じている。
北沢長衛小屋前のテント場。背後の上に見える白嶺が小仙丈ケ岳(ここから標高差が850メートルもある)。テントはわずか4張りだけで、閑散として寒かった。


下山を開始した直後の北沢峠
日が傾き始め、下山を急ぐ。


丹溪山荘の下部にある丸太の橋を注意して渡る
川敷上の下山路から振り返り見た、雪雲が一瞬去ったあとの甲斐駒ケ岳方面の峰々。右から双子山、駒津峰、甲斐駒ケ岳

夕暮れが近づいた戸台川。はっきりした登山道はなく、トレールを探しながらの下山だ。


第1の堰堤を過ぎて振り返り見た甲斐駒ケ岳方面

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