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涸沢・奥穂高岳 |
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A 山行の概要
◇実施日:2014年5月3~6日(山中3泊4日)
◇参加者:男性9名、女性2名(計11名)
◇移動・行動経過:3日 5.06天王台---5.10我孫子---5.14柏(5.27松戸)---5.40日暮里 ---6.05/6.30新宿(特急あずさ)---9.39松本---10.15バスターミナル(上高地直行バス)--12.10/12.45上高地・・13.35/13/45明神・・14.40徳沢(幕営)
4日 5.30起床/7.50発・・8.55/9.25横尾山荘前・・11.20本谷橋・・14.40涸沢(幕営)
5日 4.30起床/6.30発・・9.05/10.30穂高岳山荘前・・12.30涸沢(幕営)
6日 4.15起床/6.30発・・7.30/7.40本谷橋・・8.55/9.15横尾山荘前・・10.20/10.40徳沢・・12.40/13.20上高地---14.30/14.45新島々---15.16/15.19松本(特急あずさ)---18.06新宿---19.10我孫子---21時ごろ帰宅
◇装備:高所の春山山行装備一式(衣類、テント類、なべ類、コンロなど)、および登攀具(ザイル45メートル1本、個人用小物)、その他
◇食事(夕食のみ):3日 カレーライス 4日 すし飯 5日 レトルト食
◇経費(1人当たり):電車代(特急料金含む/往復)約15000円、バス代(復路は新島々→松本間電車)4550円、テント場代(3泊2700円)など 合計=約3万円
■まえがき
年間で最も山が輝く時季であり、本会では5月の連休と11月初旬には大きな山行を計画してきた。これまで、前夜発2泊で実施してきた涸沢・奥穂高岳山行だったが、今回は当日発で3泊を充てた。趣旨が共感を得たのか、12人(結果的には11人)もの参加があった。年齢幅2世代強の老若の組み合わせとなった。もちろん、テント山行以外にはありえない。
十分な装備の携帯のもと気持ちを込めて臨んだが、悪天候のため登頂は成らなかった。しかし、とくに小豆沢(涸沢から穂高岳山荘のある白出ノコルまでザイテングラートSeitengradに沿って左側にある沢部)の雪の急坂では、登下降、行路のとり方(ルートファインディング)の訓練の意味でも貴重な経験を積むことができただろう。また、多人数で隊を維持しながら行う登山の形式は団体で行う登山では必須の習得事項であり、学んでくれたに違いない。
風と激しい降雪があったとはいえ、もう5月だというのに、2張りのテントのうち1張りが雪でつぶれるとい
う珍事を体験した。ダンロップ8人用(V-8)は雪に耐えたが、ICIのスタードーム(6~7人用)が被雪でつぶれてしまった。それもそのはずだったのかもしれない、涸沢に陣取った多数のテント組の大半が、5日には上を目ざさず撤収しており、それが大方の常識的な選択だったということを下山後に知ったのだ。
連休中、穂高岳山域でも数件の遭難事故が起こり、全国で多数の登山者が遭難で命を落としたが、われわれにおいては、とくに危険との遭遇もなく山行をやり終えることができた。全体にゆっくりとしたと思われる、行動に比較的ゆとりを持たせた山行だったが、この歩みがよかったのかもしれない。とはいうものの、個人的には体力・身体面で相当に厳しいものがあった。
多数による山行の難しさ、予想外の天候にもかかわらず、不完全な結果ながら、なんとか目標が達成できた。多々ご協力とご配慮をいただいたおかげである。深く感謝する。 |
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1:上高地バスターミナルに到着。雑踏で込み合う例年に比べて、行楽客もバスも少なかった。東南アジア系の観光客が多かったようだ。
2:準備を整えて、出発前に、はいパチリ。
3:徳沢のテント場。ハルニレの大木が、少しここの知識を持つ者には歴史的なたたずまいを感じさせる。梓川を隔てる前穂高岳北尾根はもちろん、蝶ケ岳に向かう長壁尾根への深いし針葉樹林帯を控えた山と森林が取り囲む、自然豊かな場所だ。多くの登山者間で宴会が佳境に入ろうとしていた夕方近くに、地鳴りとともに地震があった。ここは、子ども連れや若い男女の、色とりどりのテントでにぎわっていた。
4:一夜明けた4日の徳沢から見上げた前穂北尾根。
5:横尾山荘前に着くと、多数の登山者でにぎわっていた。 |
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B 山行を振り返る
■出発まで
4月19日に打ち合わせをし、往路の新宿からの特急(あずさ臨時便)指定券も購入して、当日に備えた。ところが、まさかのI・Yさんから、腰椎椎間板ヘルニアで参加が無理になった、と出発間際に連絡を受けた。人はどう転ぶか知れないものだ。隊荷の分担を調節し直し、出発日を迎えた。
連休の初日だ。新宿駅で、最後の1人(N・Aさん)が合流した。20分ほど待って、6時半、始発の臨時特急「あずさ」に乗車した。立川あたりで席はほぼ埋まった。まだたくさんの雪をかぶった八ケ岳、甲斐駒ケ岳方面を仰ぎ見るうちに、松本駅に着いた。バスターミナルまで急ぐが、いつになく観光客も登山客も少なめで、列が短かったのは、複雑な昨今の日本を反映していたのだろうか。
ピッケル・ストック類とザックを、バスのトランクルームに積んでもらい、バスに乗り込んだ。久しぶりの信濃路沿いの田園・山岳風景を眺め、常念岳や大天井岳など北アルプス前衛の山々を楽しんだ。規制で釜トンネルから先にマイカーは入れないので、車組は沢渡の駐車場に停めていくが、相当の入山者がいるだろうことが駐車率から推測された。
釜トンネルを過ぎると、激しく崩壊した焼岳の裾の部分が目を引いた。崩壊は今後繰り返し起こるだろうから、放置すれば下流が堰き止められて、大正池が下流域のそこまで拡大、増嵩するかもしれない。層雲にかすむ穂高連峰が視界に入り、左に帝国ホテルを見やると、すぐ上高地のバスターミナルに着いた。荷物を整え、水をもらって出発した。今回は進路が阻まれるような雑踏というほどの込みようではないが、上高地はいつ来ても観光客が多い。
小梨平を過ぎ、懸崖の明神岳を左に見るころ、花崗岩質の砂地の道となる。小さな池が左に現れ、道が湿っぽくなったと思うと、間もなく明神に着いた。ベンチで小休止だけさせてもらい先を急ぐ。ここから数百メートルで、右に徳本(とくごう)峠への入り口がある。かつて「岳人」だった人なのだろう、奥さんがカメラを構えて撮影をしていた。
梓川の川幅が広がり、東の方角がまっすぐ視界に入ってくるころ、左後方を振り返ると明神岳東稜の乱杭歯状のシルエットが見られる(かつて本会に在籍した奥林正史君から話は聞いていた)。ケショウヤナギ(太古からの生き残り種)を河床に見ながら30分ほど行く進むと、やがてハルニレの大木が徳沢に導いてくれる。かつて昭和の中期ごろまで、ここは放牧地だったという。僕らよりも数十年前に、民間人として山の世界を切り開いた昭和人の一人、故芳野満彦氏の『山靴の音』(2部作)に出てくるが、井上靖の『氷壁』でもつとに知られた場所だ。広い草地に入っていくと、数え切れないほどの色とりどりのテントが建っていた。微妙な空模様となり、横尾での幕営予定を変更して、今夜は徳沢にお世話になることとした。
ここは周囲を深い山々と森林が取り囲み、開けた草地がなんともいえぬ柔らかな雰囲気を醸すテント場だ。テントを2張り建てた後、冷たい風が吹き始め、どんよりとした雲がおおい始めた。そのときだった、地鳴りと同時に、地震が見舞った(横浜で震度4だったとのこと)。15年ほど前に、穂高岳山域に群発地震が起きた後、新穂高温泉から地震で傷んだ登山道をたどった槍ケ岳山行の記憶が頭をよぎった。岩崩れ、がけ崩れがあたりに生々しかった。今回は、雪崩が心配になった。その間に、小雨が降ってきた。幕営地変更の判断は正しかったようだ。
その夜、周囲の小さなテント客に迷惑にならないかと懸念されるほど、僕たちのテントはにぎわった。一通り献酬が終わると、夕食作りが始まった。本隊最高齢のS・Kさんが準備のうえ、ここまで一人で運んでくれたカレーだ。2鍋でご飯を炊き、おいしくいただいた。時間内、献酬が続いた。解散後も、星空を眺める人たちの声が聞こえたが、9時前にはテントに入った。 |
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