5月GWの山行
 
   涸沢・奥穂高岳  

 
 
 
 
 
 山行の概要

◇実施日:2014年5月3~6日(山中3泊4日)
◇参加者:男性9名、女性2名(計11名)
◇移動・行動経過:3日 5.06天王台---5.10我孫子---5.14柏(5.27松戸)---5.40日暮里 ---6.05/6.30新宿(特急あずさ)---9.39松本---10.15バスターミナル(上高地直行バス)--12.10/12.45上高地・・13.35/13/45明神・・14.40徳沢(幕営)
   4日 5.30起床/7.50発・・8.55/9.25横尾山荘前・・11.20本谷橋・・14.40涸沢(幕営)
   5日 4.30起床/6.30発・・9.05/10.30穂高岳山荘前・・12.30涸沢(幕営)
   6日 4.15起床/6.30発・・7.30/7.40本谷橋・・8.55/9.15横尾山荘前・・10.20/10.40徳沢・・12.40/13.20上高地---14.30/14.45新島々---15.16/15.19松本(特急あずさ)---18.06新宿---19.10我孫子---21時ごろ帰宅
◇装備:高所の春山山行装備一式(衣類、テント類、なべ類、コンロなど)、および登攀具(ザイル45メートル1本、個人用小物)、その他
◇食事(夕食のみ):3日 カレーライス 4日 すし飯 5日 レトルト食
◇経費(1人当たり):電車代(特急料金含む/往復)約15000円、バス代(復路は新島々→松本間電車)4550円、テント場代(3泊2700円)など 合計=約3万円

まえがき
 年間で最も山が輝く時季であり、
本会では5月の連休と11月初旬には大きな山行を計画してきた。これまで、前夜発2泊で実施してきた涸沢・奥穂高岳山行だったが、今回は当日発で3泊を充てた。趣旨が共感を得たのか、12人(結果的には11人)もの参加があった。年齢幅2世代強の老若の組み合わせとなった。もちろん、テント山行以外にはありえない。
 十分な装備の携帯のもと気持ちを込めて臨んだが、悪天候のため登頂は成らなかった。しかし、とくに小豆沢(涸沢から穂高岳山荘のある白出ノコルまでザイテングラートSeitengradに沿って左側にある沢部)の雪の急坂では、登下降、行路のとり方(ルートファインディング)の訓練の意味でも貴重な経験を積むことができただろう。また、多人数で隊を維持しながら行う登山の形式は団体で行う登山では必須の習得事項であり、学んでくれたに違いない。
 風と激しい降雪があったとはいえ、もう5月だというのに、2張りのテントのうち1張りが雪でつぶれるとい
う珍事を体験した。ダンロップ8人用(V-8)は雪に耐えたが、ICIのスタードーム(6~7人用)が被雪でつぶれてしまった。それもそのはずだったのかもしれない、涸沢に陣取った多数のテント組の大半が、5日には上を目ざさず撤収しており、それが大方の常識的な選択だったということを下山後に知ったのだ。
 連休中、穂高岳山域でも数件の遭難事故が起こり、全国で多数の登山者が遭難で命を落としたが、われわれにおいては、とくに危険との遭遇もなく山行をやり終えることができた。全体にゆっくりとしたと思われる、行動に比較的ゆとりを持たせた山行だったが、この歩みがよかったのかもしれない。とはいうものの、個人的には体力・身体面で相当に厳しいものがあった。
 多数による山行の難しさ、予想外の天候にもかかわらず、不完全な結果ながら、なんとか目標が達成できた。多々ご協力とご配慮をいただいたおかげである。深く感謝する。 
 
     
       
    :上高地バスターミナルに到着。雑踏で込み合う例年に比べて、行楽客もバスも少なかった。東南アジア系の観光客が多かったようだ。
準備を整えて、出発前に、はいパチリ。
:徳沢のテント場。ハルニレの大木が、少しここの知識を持つ者には歴史的なたたずまいを感じさせる。梓川を隔てる前穂高岳北尾根はもちろん、蝶ケ岳に向かう長壁尾根への深いし針葉樹林帯を控えた山と森林が取り囲む、自然豊かな場所だ。多くの登山者間で宴会が佳境に入ろうとしていた夕方近くに、地鳴りとともに地震があった。ここは、子ども連れや若い男女の、色とりどりのテントでにぎわっていた。
:一夜明けた4日の徳沢から見上げた前穂北尾根。
:横尾山荘前に着くと、多数の登山者でにぎわっていた。
 
   
 

     
     山行を振り返る

出発まで
 
4月19日に打ち合わせをし、往路の新宿からの特急(あずさ臨時便)指定券も購入して、当日に備えた。ところが、まさかのI・Yさんから、腰椎椎間板ヘルニアで参加が無理になった、と出発間際に連絡を受けた。人はどう転ぶか知れないものだ。隊荷の分担を調節し直し、出発日を迎えた。
連休の初日だ。新宿駅で、最後の1人(N・Aさん)が合流した。20分ほど待って、6時半、始発の臨時特急「あずさ」に乗車した。立川あたりで席はほぼ埋まった。まだたくさんの雪をかぶった八ケ岳、甲斐駒ケ岳方面を仰ぎ見るうちに、松本駅に着いた。バスターミナルまで急ぐが、いつになく観光客も登山客も少なめで、列が短かったのは、複雑な昨今の日本を反映していたのだろうか。
 ピッケル・ストック類とザックを、バスのトランクルームに積んでもらい、バスに乗り込んだ。久しぶりの信濃路沿いの田園・山岳風景を眺め、常念岳や大天井岳など北アルプス前衛の山々を楽しんだ。規制で釜トンネルから先にマイカーは入れないので、車組は沢渡の駐車場に停めていくが、相当の入山者がいるだろうことが駐車率から推測された。
 釜トンネルを過ぎると、激しく崩壊した焼岳の裾の部分が目を引いた。崩壊は今後繰り返し起こるだろうから、放置すれば下流が堰き止められて、大正池が下流域のそこまで拡大、増嵩するかもしれない。層雲にかすむ穂高連峰が視界に入り、左に帝国ホテルを見やると、すぐ上高地のバスターミナルに着いた。荷物を整え、水をもらって出発した。今回は進路が阻まれるような雑踏というほどの込みようではないが、上高地はいつ来ても観光客が多い。
 小梨平を過ぎ、懸崖の明神岳を左に見るころ、花崗岩質の砂地の道となる。小さな池が左に現れ、道が湿っぽくなったと思うと、間もなく明神に着いた。ベンチで小休止だけさせてもらい先を急ぐ。ここから数百メートルで、右に徳本(とくごう)峠への入り口がある。かつて「岳人」だった人なのだろう、奥さんがカメラを構えて撮影をしていた。
 梓川の川幅が広がり、東の方角がまっすぐ視界に入ってくるころ、左後方を振り返ると明神岳東稜の乱杭歯状のシルエットが見られる(かつて本会に在籍した奥林正史君から話は聞いていた)。ケショウヤナギ(太古からの生き残り種)を河床に見ながら30分ほど行く進むと、やがてハルニレの大木が徳沢に導いてくれる。かつて昭和の中期ごろまで、ここは放牧地だったという。僕らよりも数十年前に、民間人として山の世界を切り開いた昭和人の一人、故芳野満彦氏の『山靴の音』(2部作)に出てくるが、井上靖の『氷壁』でもつとに知られた場所だ。広い草地に入っていくと、数え切れないほどの色とりどりのテントが建っていた。微妙な空模様となり、横尾での幕営予定を変更して、今夜は徳沢にお世話になることとした。
 ここは周囲を深い山々と森林が取り囲み、開けた草地がなんともいえぬ柔らかな雰囲気を醸すテント場だ。テントを2張り建てた後、冷たい風が吹き始め、どんよりとした雲がおおい始めた。そのときだった、地鳴りと同時に、地震が見舞った(横浜で震度4だったとのこと)。15年ほど前に、穂高岳山域に群発地震が起きた後、新穂高温泉から地震で傷んだ登山道をたどった槍ケ岳山行の記憶が頭をよぎった。岩崩れ、がけ崩れがあたりに生々しかった。今回は、雪崩が心配になった。その間に、小雨が降ってきた。幕営地変更の判断は正しかったようだ。
 その夜、周囲の小さなテント客に迷惑にならないかと懸念されるほど、僕たちのテントはにぎわった。一通り献酬が終わると、夕食作りが始まった。本隊最高齢のS・Kさんが準備のうえ、ここまで一人で運んでくれたカレーだ。2鍋でご飯を炊き、おいしくいただいた。時間内、献酬が続いた。解散後も、星空を眺める人たちの声が聞こえたが、9時前にはテントに入った。 
 
 
       
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       :横尾橋のたもとで。ここから先が、岳人、登山者の世界となる。
屏風岩。同行したK・Yさんは、屏風岩を数回登攀した経歴を持つベテランクライマーだ。ルートを細かく説明してくださった。中央部の雪渓を上端まで登った後、右上の岩場にガリー伝いにルートをとるという。
:横尾谷の先に見える南岳。
:本谷橋を振り返る。谷は一面厚い残雪に埋め尽くされていた。ここまで雪が多いのは珍しいが、冬~春の雪の降り方に異変があったことが推測された。「下は雪が少なく、中腹から少し多くなり、涸沢以上では異常に多雪」と、これまでの経過を踏まえてM・Tさんが的確に要約された。後景の山は蝶ケ岳。
10・11:横尾谷から別れて左に折れ、涸沢の川下を緩やかに進む。長いが、無雪期よりも歩きやすい。横尾から、2時間半で涸沢に至った。
12:10、11とともにN・Aさんの撮影。涸沢ヒュッテの鯉のぼりが見えてきたが、ここからも長い。 最後の力を振り絞るが、肩にかかる荷が重い。ゆっくり、ゆっくりと歩みを上に運ぶ。
   
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5月4日
 5時半に起床した。昨日と打って変わって、外には紺碧の空が広がっていた。雨に洗われて、少し時期の早い新緑がそれでも青々と光彩を放っていた。昨夜、朝食用にと多めに炊いてあったご飯を使って、雑炊を作る。F・Sさん仕込みの一、二工夫が入ったところが面白い。山の食事の楽しみは、担当するそれぞれの独創性とその人のイメージに合わない意外性にあるのかもしれない。
 N・Aさんを先頭に、予定より早い7時50分に徳沢を後にした。坦々と進むこと1時間、横尾尾根が近づくと、河原に陣取ったテント群が見え、横尾山荘の前庭に着く。蜂の巣に群がるハチたちのように、大勢の登山客でにぎわっていた。ひと休みしていると、2人の登山姿の人が近づいてきた。広島山岳会の方々だった。その会の人が単独で昨年の大晦日に横尾尾根に入山したまま帰ってこず、会を挙げて捜索に来ているとのことだ。チラシを渡して情報提供を呼びかけていた。気持ちを察するばかりだ。広島山の会のメンバーと重広恒夫さんも応援に駆けつけていると言っていた。ちなみに僕たちの会は、創立のときの命名の際に涸沢で遭遇した広島山の会から下の3文字をもらったといういきさつがある。
 横尾橋のたもとで集合写真を撮ってもらい出発した。橋を渡り、河床の砂利道を行き、半ばで山に登り上げると、左手の樹間に屏風岩が見えてきた。開けたところでストップをかけ、K・Yさんにルートの説明をお願いした。
 K・Yさんは屏風岩を数度登攀した履歴をお持ちの、往年のクライマーだ。説明を受けると、そのようなルートがとれそうだとわかるが、その登攀は命がけだったはずだ。しかも、結婚してから危険な登攀が増えたという。「生きて帰る」という気持ちが結婚によって強まったからだ、と説明があった。しかし、なぜ伴侶に心配をかけるような行動に出たのかは説明されなかった。その辺はクライマー特有の心情に発するものがあったに違いないが、次回に詳しく聞いてみよう。
 樹林帯に入って残雪が増えてきた。M・Tさんが、今年の雪の特徴を的確に表現していたので記す。
 「今年の雪は、下は少なく、途中から少し多くなり、高いところでは異常に多い。」
 上高地から横尾にかけては、残雪はほとんどなかったが、横尾から半ばを行った谷から上は、例年よりかなり多かった。本谷橋は雪の上に出ていたが、この谷を埋め尽くした厚い雪渓が格好の進路となった。南岳を仰ぐ谷の雪渓上で休憩した後、個々人の判断でアイゼンを装着した。谷から左にカーブして涸沢へ通じる雪渓に入ると、傾斜が少し強まった。子連れの家族が追い越していった。
 一度傾斜が落ちて、さらに右に緩やかにカーブを切ると、涸沢ヒュッテの鯉のぼりが見えてきた。2~3回休みを入れてヒュッテの下まで達し、ヒュッテを左に見て雪面を登り上がると、涸沢の雪原に飛び出した。「テント村」の名が示すにわか造りの人工の世界が、自然の真っただ中に出現した。過密状態が心配されたが、上(小豆沢側)のほうに大型の2張り分として格好のサイトがあった。ここに200張りほどもあったテント群の中で、僕たちの2張りが最も大きかった。
 一段落した後、生ビールを飲みにヒュッテに急いだ。11人がテラスの一角を占め、ジョッキを合わせた。気分は最高だった。日がかげり始めて、寒さが身にしみてくる。そのころ涸沢上空の澄んだ碧色に二重の虹が浮かんだ。巨大なプラネタリウムを仰ぎ見ているようだ。テラスに陣取った多くの者たちは、めったに見られないこの光景にいささか興奮ぎみだった。
 太陽が奥穂の山稜に沈んで、寒さが限界に達し、テントに戻った。テントで、K・Yさんが持ってこられた特大の「レジェンド」(焼酎1.9L)が、みんなの驚きと歓心を買った。さらにN・Aさん担当の「すし飯」も炊飯からやって、おいしくいただいた。トッピングの油揚げ・シイタケ煮が食欲を誘った。少し飲み直した後、9時過ぎに就寝。夜空を、厚い雲がすっかりおおい尽くしたようだ。
   
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13:5月4日夕方近くに涸沢上空に現れた二重の虹。彩雲を伴っていた。その日に涸沢に近づくにつれてわきつつあった層雲(⇒写真12)が一度厚くなった後、午後遅くには消えかかったと思ったが、この虹が現れた。好天の兆しかと思われたが、実は翌日の悪天を告げていた。
14:涸沢での物思い。初の雪の涸沢に立って、なにを思ったのだろうか、S・Nさん。

15涸沢に泳ぐ子鯉。柏のトイザラスでやっと見つけてきた代物。
16:涸沢のテント村(4日夕方)。ざっと数えて200張り。それが、翌日昼過ぎに戻ってくると、20張り程度に減っていた。4日のテント客たちはどこへ行ったのだろう。雪を見越して山頂を断念し下山したのだろうか、それとも、4日のうちに登頂を果たしていたので、5日は下山するだけだったのだろうか。ナゾが残った。

17:テント生活。とりとめのない会話が続く。飲み物はK・Yさんが運び上げてくれた1.9リットルの焼酎「Legend」(ご本人の愛用車と同じ名)だ。飲み物が足りるか? と心配されたが、帰るまでに、ついに飲み切れなかった。
18:テント内は、ガス式のらんたん(EPI)とガソリン式こんろ(MSR)で暖をとった。幕内でガソリンこんろを燃やすには、下敷きとなるベニヤ板(まな板)が2枚必要だ(でないとマットがこげる)。
19:M・Tさんが用意してくれた、すし飯用のトッピング。シイタケ・あぶらげ煮。すし飯はけっこういけた。
 
 
 
  5月5日
 4時半に起床。外には雪が舞い、視界は薄く灰色の幕に閉ざされていた。降雪を透かして大画面の穂高が見られたが、早朝に上を目ざす登山者はいないと思えた。だが、僕たちが涸沢にこの日残る選択肢は、まったく僕たちの脳裏にはなかった。
 朝食をすませ、厚く着込み、準備を整えて外に出た。F・SさんとM・Tさんの2人だけ、テントにとどまる選択をした。荷物になるが、45メートルのロープとスノーバー1本をそれぞれN・AさんとO・N君に持ってもらい、全員ストックからピッケルに持ち替え、アイゼンを装着した。2人の見送りを受け、9名で白煙の世界に突き進んでいった。視程は150~200メートルで、まさに五里霧中だ。ザイテングラートの右を涸沢岳に向かうように進んだ後、左斜め上にトラバース気味に行路が変更され、小豆沢に出た。その手前で、S・Kさんが不調でリタイアを告げられた(S・Kさんが持っているツェルトを預からなければいけなかったが、失念してしまった)。しばらく行くと、ザイテングラートの岩稜部の下端が視界に入ってきた。傾斜が強まっていく。下山していくパーティーが2~3いたが、なかのある登山者は「昨日山頂を目ざそうとしたが、ロープがないと小屋(穂高岳山荘)から上部の雪面は困難で、断念した」と語った。1人は昨日のうちに登頂したと言った。これ以降、すれ違う登山者はおらず、追い越していく登山者もいなかったと記憶する。1人の単独者を除いて、僕たちのパーティーだけしかこの長い経路の中にはいなかったはずだ。
 ザイテングラートの岩場を下にする地点に至り、その半ば急坂を登ってきた。何度か「着いたか」を繰り返した後、上部に小さな人影を認めた。傾斜が緩まりコルに着くと、2人の若い岐阜県警救助隊員の方が立っていた。「コルから上は危険で、遭難者も出ている。この日に山頂を目ざした登山者は1人もいない。風速も非常に強いから、上には行かないように」と自制を呼びかけてきた。「了解した」と返し、寒さの中での勤務のお礼を述べた。コルから上の最初の難所となる梯子のかかる岩場が、風雪にかき消されながら不気味な黒光を放っていた。あの上にはさらに雪の急斜面とトラバースの2か所の危険箇所があり、そこがロープの出番となるが、この日に強行したなら、8人が通過する間、静止状態での寒冷環境への曝露を余儀なくされ、また上部の岩稜での行路の喪失や転落の危険性も推測された。K・Mさんの見立てでも、風速は瞬間に20メートルを上回った。登攀リーダーをお願いしたK・Yさんも「しかたがないでしょうね」と明快だった。上を目ざす選択はなかった。
 横殴りの風雪を受けながらアイゼンを外し、穂高岳山荘の扉を開けた。ストーブが1台燃えており、安堵した。ストーブを囲む登山者を除くと、その日の山荘の宿泊者はほとんどいないと思われた。ストーブの周りには登山者が数人、黙ったまま暖をとっていたが、室内は暗かった。われわれも、いくらかでも暖がとれたのは、ありがたかった。1時間半後、下山にかかることにした。山荘で従業員に交渉したが、屋内でのアイゼン装着は認めてもらえず、外でのアイゼン装着を断念し、1人だけアイゼンなしで下ることに決めた。山荘にいた単独者が、下山ルートの不安があるからと同行を求めてきたので、OKと返した。
 300~400メートル下ると、傾斜が急となった。スリップすれば、下手すると、かなりの距離滑っていきそうだ。後ろ向きの姿勢となり、ピッケルを横に両手で持つダガー把持でキックを蹴り込みながら下る。降雪で踏み跡はほとんど消えてしまっていたが、小豆沢を下るのは地形上から難しくはない。同じ製品なのにアイゼンによっては大きな雪団子が付着するようだ。理由は不明だが、奇妙な話だ。長い雪渓を坦々と下る。
 垂れ込めた雪のカーテンの向こうに涸沢が見えてきた。涸沢が近づき、緩やかに登り返してテントに着いた。12時半だった。頑張れば、これからテントを撤収して横尾まで下れなくはなかったが、翌日は天候が回復するというので、みぞれ混じりの雪の中での下山は、しないことにした。当初の予定どおり、涸沢に停泊する。
 M・Tさんが、忙しそうにテントの縁の雪をどけていた。その理由が、時間とともに明らかとなった。スタードームのほうが、雪でつぶれたという。テントのポールも1か所折れたという。雪かき姿が教訓として残った。
 1日違いで、涸沢のテント村はわずか20張りほどと、過疎状態になっていた。昨夜いた200張りほどのテントの住人たちの多くが、連休の穂高岳に見切りをつけ、早々に下ってしまったようだ。そうでなければ、僕たちより1日早く涸沢入りを果たして、4日のうちに奥穂高岳か北穂高岳を登頂し終わり、5日は下るだけだった隊がいたかもしれない。とはいえ、徳沢のテント場にいた登山者のように、僕たちと同様に、5日に奥穂高岳登頂を期した隊も相当数いただろう。となると、山頂をあきらめて5日に早期撤退という判断をした人もかなりの数いたことになる。だが、早期下山の選択は合理的なようでも、最近の若者たちや登山者の傾向をそこに見たような気がした。その意味では、僕たちが白出ノコルまででもともかく歩を進める選択を迷うことなく行った判断は、後悔を残さない適切なものだったと自己評価する。
 涸沢ヒュッテの売店に、再度、ビール求めて向かったが、客人は1人もいなかった。テラスのテーブルと椅子は片づけられていた。天蓋下の広いテーブルを僕たちで独り占めしたが、さすがに寒かった。1杯でねぎらい合った後、すぐテントに戻った。その日、午後も風混じりで雪は降り続いた。そのままテントに入って、夜間までぶっ通しで緩やかな宴会となったが、おかげで周辺に気兼ねする必要がなかった。この日、登頂を逃したことを残念に思うような声は、僕らの隊では上がらなかったのが幸いだった。
 解散後、帰幕すると、ICIのテントはまたもや陥没していた。雪を外に押し出し、ポールを建て直した。雨混じりとなっていて、浸水も進んでいた。荷を片づけて寝場所を確保し、9時半ごろ就寝した。 
 
   
     
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    205月5日の早朝、涸沢を後にする前。
21:ザイテングラートの基部が見えてきた。
23:穂高岳山行の前。ほとんど吹雪状態で、アイゼンを外して山荘に逃げ入った。
24:山荘の中で休憩させてもらった。石油ストーブが1台、燃えていた。ありがたかった。
25:涸沢に下山。雪に埋もれてしまったのか、と思われたテントの少なさは、下山後にその実態がわかった。手前の黄橙色のテントがわが隊のものだ。
 
         

つぶれたテント(左)と半壊手前のテント。ほぼ同じ大きさのものだが、ポールがしっかりしているダンロップの大型テント(V-8)は耐えたのに対して、ICI(石井スポーツ)のスタードームテントはポールが雪の重みに対して支持力を失っている。この日、穂高岳山荘(白出ノコル)を往復する間に急激な降雪があった。戻ってみたら、この有り様だった。 

 5月6日
 予定の4時を少し回って起床した。外をのぞくと雪はやみ、晴れ間が広がっていた。谷間にわき立つ雲を隔てて、屏風ノ頭、さらに常念岳の方面が見え、涸沢は静まり返っていた。この日、朝食は取らず、各自、自分の荷物を片づけて、早めに外に出た。ヒュッテに別れを告げると、出発は予定より30分遅れの6時半になっていた。水を含み、O・N君のザックがV-8テントで膨れ上がり、重そうだ。
 残雪面を緩やかに曲折しながら下り、硬い雪質に途中でアイゼンを着けた。横尾谷の出合で、先に行っていたメンバーに合流した。本谷橋のたもとで休憩を入れ、その先でアイゼンを外した。ここまで来て、行路周辺の雪解けが2日の間にかなり進んでいることがわかった。融雪は高度を下げるにつれて著しく、昨日の雪はここでは雨だったことが推測された。
 屏風岩にしばし目をやりながら、長い、緩やかな下りを行く。河原に下りて砂利道となり、開けたヤナギの林を抜けると、横尾に着いた。橋を渡ると、晴れ上がった前穂高岳北尾根あたりから、ヘリ音が連続して聞こえてきた。小屋の輸送用ではなさそうで、よからぬ事態を告げている気がした。そこで、N・Aさんが近くの登山者から、穂高岳界隈で山岳遭難事故が発生したとのニュースを聞きつけた。涸沢岳西尾根では防衛大生2人の遭難死亡事故が起こっていたし、奥穂高岳でも救助を求めている隊がいると伝えた。奥穂で5日に遭難が発生したというのは、あの救助隊員の目を盗んで山頂を狙ったパーティーがいたか、別ルートの岳沢側からの登山者だったということになる(事後の情報から、岳沢側の南稜の登攀パーティーだったらしいことがわかった)。あの天候のなか、奥穂の主稜線近くで一夜ビバークをする厳しさを想像した。しかし、あの天候で決行したなら、そのような事態を引き起こす可能性をも覚悟しなければならないが、その自覚なく突き進んだ結果であったかも知れないとすると、本人たちの甘さがあったことはいくらも強調されなければならない。それを思うにつけ、救助隊の方々の助言が第三者的な立場から与えられたことの意義は、非常に大きいものがあると感じた。事実、あの悪天候以上の状況下で山行を進行させた経験は僕たちには過去に幾度かあった。その助言がなかったなら、あるいはわが隊も過去の栄光を背景に危険に突き進んでいかなかったという確証はないからだ。
 前穂北尾根を右に眺めながら、長い帰路を急いだ。この日に登山者はもちろんハイカーも少なく、連休の最終日といっても、この連休の行楽客、入山者の少なさを物語っていた。一般にも登山者が減っていることを感じたが、どこかいつもと違った情景だった。おかげですれ違う人が少なくて、煩わしさが避けられた。徳沢で予定していた「朝食」とした。少し寂しかったのは、食事が残っていた残飯類だったことだ。ここで僕だけスニーカーに履き替えた。足に問題を生じたが、荷にプラスチックの靴を加えて重くなった代わりに足元が軽くなり、快適だった。
 河童橋の前まで来たとき、NHK松本支局の職員からインタビュー取材を受けた。N・Aさんが応じた。穂高岳での遭難事故に関連して、しつこくマイクを向けられていた。その模様が、6日の午後7時からのNHKニュースで流れたらしい。上高地では、出発までの時間で忘れず慰霊塔に参拝した。長い間の無沙汰だっただけに、こみ上げるものがあった。
 行楽客の萎縮で、帰りのバスも待ち時間なく乗ることができた。帰りは、新島々から電車に乗り換えるようにとの指示だった。松本まで混雑もなく戻り、さらに駅員さんの勧めで待ち時間もなく特急「あずさ」に飛び乗ったが、全員バラバラながら席が確保できた。順調にいき、我孫子には予定よりも2時間も早い7時過ぎに着いた。だが、最後、電車内でできなかった打ち上げを駅前で行って帳尻を合わせるうちに、その2時間に負債を生じていた。
 体は疲労の極みだったが、仲間に恵まれ、心の温まる山行だった。これ以上の結果を望むのは、欲張りすぎと言うべき
だろう。
 同行のみなさん、お疲れさまでした。会のみなさん方にも、ご心配をおかけしました。(T・K)
 
   
 26 27  28  
26:5月6日の朝。昨日の雪はやみ、青空が広がっていた。涸沢のテント村は、静まり返っていた。周りが、いつの間にか廃墟の無人村に近くなっていた。
27:周辺のテント場から、屏風ノ頭部を見る。遠くは常念山脈。
28:横尾山荘前で。ここからも、人が消えていた。⇒写真5
29:横尾を後にし、上高地までを急ぐ。右手上空からヘリ音がずっと鳴り響いていたが、岳沢側から南稜ルートで行路をとり、5日に奥穂高岳に入山したグループが求めた救助だったらしいことが後でわかった。
30:上高地の合同慰霊碑。バスターミナルの西側の林の中にひっそりとある。尾崎喜八の詩(山に祈る:流転の世界/必滅の人生に/成敗はともあれ/人が傾けて/悔いることなき/その純粋な愛と意欲の美しさ)が記銘されている。
 
29 30 
   
 

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