日程:2015年9月26-27日(前日発、日帰り)
参加者:男性4名、女性4名(8名)
行路&通過時刻26日 6.15/6.25我孫子--〈高速〉--柏IC---古川IC--〈一般道〉--15.00祓川駐車場・・・祓川キャンプ場
     (幕営)・・・21.00就寝
  27日 4.00起床/5.10発・・5.30祓川ヒュッテ・・6.58/7.10七ツ釜避難小屋/康ケルン・・9.20氷の薬師・・9.30/9.40七高山・・
     9.50/10.20分岐のケルン・・10.30/10.40七高山・・10.40康新道との分岐・・12.15直登道との分岐・・13.50祓川駐車場
     (登山口/祓川ヒュッテ)14.00/14.50キャンプ場・・・〈車道〉11.50我孫子駅前
     《結果》 上り=休憩込みで予定の4時間40分に対して結果は4時間、下り=予定の3時間に対して結果は3時間10分。
          ただし、新山を加えていないので、比較はできない。
装備共同 26日の幕営のためのキャンプ用具一式(8人用ダンロップテント+3人用テント、マット4枚、ガスランタン2台+
        LEDランタン1台、コッヘル1セット、ガスコンロ2台、まな板数枚、その他)
      個人 幕営用の装備(寝袋、マット、食器など)、行動用の装備(サブザック、衣類、雨具、水筒、帽子など)
経費:1人当たり1万2400円(途中の食事代などは除く)。約9割が登山口までの往復の交通関連費用。

七高山(2229メートル)にて
 鳥海山の草花については、別のサイトをご覧ください。➡「山で出あった花々

1.鳥海山のプロフィール
 鳥海山――美しい名前だ。山名の由来は手元の文献を調べてみたが、わからなかった。
 この山は、二十歳少々のときに、日本海に沿って後輩の後ろ座席に乗せられてバイクで北に走りながら、右に仰ぎ見たのが最初だった。当時、山にさほど関心があったわけではなく、裾野を長く引く独立峰で輪郭のよい山が、山頂を尖らせて佇立していた様が印象に残っているだけである。朝、太陽が昇ると、山体が日本海に影(影鳥海)を投げるといわれ、深田久弥も独立峰としてのこの山を称賛している。それから5年ほどたった1976年に、麓に立地する酒田市は記録的な大火に見舞われた。江戸時代末期に近い1800年初めにここを煉獄に陥れた大噴火とともに、惨禍で形成された酒田-鳥海山のイメージが僕の中にある。
 いうまでもなく、この山は冬季に、日本海からの湿潤な大気を山面で受け止め、数か月にわたり雪を積もらせ続け、白雪を厚くまとう。それも北西からの厳しい季節風によって、雪は南東側に飛ばされ、そちらの沢筋に多く積むという。さらに、その重さと流下の力によって沢筋を深くえぐる。そして融雪期には、小さな砂礫は洗い流されて硬い大きな岩がむき出しとなるとともに、雪が運び下ろした大小様々の岩石が山面に残る。また、沢筋の緩やかな流れ出し部を岩石が堰状に盛り上がって塞ぎ、堰止池のような地形を作る。いってみればカールやモレーンだ。標高と緯度からそれらはできないようだが、似た地形を思わせる箇所があった。山行の途上で見た、全山がごつごつと岩や石で成り立つ山となった理由が納得される。
 鳥海山への登り始めで、「山頂まで木がない山だねー」と誰かが言った。なぜ高木類(樹高5m以上)が、標高1000mから上にまったくないのか。いくら北国といっても、ブナ林帯の上には針葉樹林(オオシラビソ・モミ)やダケカンバ類の亜高山帯が続くのが通例だろうが、いきなりナナカマドやミヤマナラ、ガマズミなど落葉広葉樹の低木帯に替わる(ここを偽高山帯というそうだ)。それらの木本類の一部は厳しい季節風を受けて矮木化し、人の背丈に満たない低木だった。このような樹層となった理由の一端は、200年余前の大噴火にもあるのではなかろうかと推測する。七高山(2229m)を10m近くもしのぐ新たな山頂(溶岩ドーム形成による新山2236m)を生み出した大噴火が、1801年に起こっている。そのとき溶岩泥流が大規模に山面を流れ下ったという。それが木々を焼き尽くしたのではなかろうか。それ以外に、平均して100年に1回程度の噴火が起こっている。記録が残る800年代には、裾野まで溶岩泥流が流れ下ったという。どちらにせよ激しい噴火の歴史を残す山で、成長の遅いブナ・ミズナラやオオシラビソが極相を形成するだけの猶予を与えていないのではなかろうか。
 僕たちがたどった登山道に沿った地帯の土壌は火山岩や火山岩性の砂礫で、岩石は安山岩が主だというが、一方、八合目あたり(標高1600m付近)には泥炭層*がみられた。20~30cmの薄いものだったと記憶するが、これは、そのあたりには200~300年前から湿原が広がり、植物が豊かに繁茂する湿原が展開していただろうことを推測させる。
 *泥炭層:亜高所または寒冷地の湿原や湿性土壌に生育する主にミズゴケが、低温環境によって腐敗することなく堆積・炭化することによって生成される表皮土壌。炭化による黒色の特徴ある層で、尾瀬ケ原の調査では、1年間に約1mm成長するという。残雪の多い、比較的傾斜の緩い地帯や盆地状の平坦地に発達し、湿原がそこにあったことを示している。

2.山行のあらまし
 鳥海山は個人的には初めてだが、なぜか登る対象として今まで選ばなかった。思えば、昔、酒田市から見たこの山が小さく、低くしか見えなかったのが一番の理由だ。気をひかなかった。とはいえ百名山である(僕自身は「百名山」はまったく眼中にないが)。昨年の山行企画係だったので、6月の焼石岳・栗駒山とセットで鳥海山を入れさせてもらい、諸事情あって担当することになった。遠いというだけでも行きづらく、参加者はいるかと案じたが、締め切りが近づくにつれて6名になり、最終的に8人に膨れ上がった。
 Mhさんに相談してレンタカー(トヨタ・グランドキャビン10人乗り)を手配してもらった。ただ、遠路を走らなければならず、今回のような1日での山頂往復の計画だと、借り出す日程が3日に及ぶことが避けられなかった。おかげで、快適なドライブ旅行、それも多数で旅する楽しさを味わうことができた。長距離の運転をお願いしたMhさんとKnさんには、下山後でお疲れだっただろうにもかかわらず、一方的に大変な負担をお願いした。また、Msさんはじめ女性のみなさんには食事を押し付けたが、快く引き受けていただいた。ここに記して、お礼を申し上げる。
 結果的には、想像していたよりも遠かったという印象が残った。6月に行った焼石岳・黒森山(岩手・秋田県)よりも時間的には遠かった(2時間も長くかかっている)。我孫子-祓川(登山口)間で、順調に走り続けて9時間を要した(食事や給油など最小限の停止時間を除く)。東北道から別れて一般道がけっこう長かった点があるのだろう。
 天気予報が少しずつ変わったが、直前のキャンセルは難しく、4日前に最終判断をすることとなった。依然、微妙な天気予報だったが、出発当日になって天候にかすかな光明が見えてきた。実際には、日本海や東北の山々までの遠望は得られなかったが、27日は往復とも晴天に恵まれて、鳥海山の全容はもとより周囲の山々、裾野までずっと眺望があった。下山後、テントの撤収を終わったときに驟雨に見舞われるという運のよさだった。
 登ってみて、鳥海山の山体の大きさ、裾野の広さを感じた。帰宅後、富士山と八ケ岳の地図を開いて見比べてみて、その大きさを知った。さすがに南北に長い八ケ岳連峰には及ばないが、富士山の裾野の大きさとさほど変わらないのには驚いた。

5
26日・・・・・・・・・・・・・・・
祓川のキャンプ場で

:駐車場近くから鳥海山を望む。
2・3・5:テント場のそばのテーブルで始まった宴会&食事。藍色の縞模様の方が鈴木さん。
:鈴木さんに差し入れていただいた遠野の「どぶろく」2本(ほかに青いトマトの漬物)。「開花」のほうは「女性用に」と。


3.道々のこと
26日
 定刻に我孫子駅北口ロータリーに全員集合し、予定どおり出る。柏から常磐道に乗り上げ、磐越道を順調に走る。分岐の手前には、広野方面が最大「4.7?Sv/h*」との掲示があり、今回、そちらの経路は避けることにした。郡山で右折して東北道からまっすぐ北に走り、仙台を過ぎ、古川で高速道を降りた。ここから一般道である。奥羽山脈南端の神室山地を越えて150km、ほとんど太平洋から日本海方面まで移動する格好だ。思ったよりも長く、時間もかかった。
*:1時間当たりの放射線量(マイクロシーベルト)で、年間に換算すると41mSv(ミリシーベルト)にもなる(6月の焼石岳のときは広野町や南相馬市を通ったが、最大年間値は50mSvだった)。国と県は20mSvまでの地域への住民の帰還を進めようとしているが、子どもを持つ家族の
帰還は進んでいない。なお20mSvというのは、「放射線管理区域」で管理しなければいけない決まりとなっており、一般の人は立ち入ることができない(小出裕章氏の著作を参照)。
 Kmさんが仙台平野に近い大崎市あたりの出身だそうで、しばらく道案内をしてくれた。鳴子温泉を過ぎ、山地を越えて国道から左に折れ、鳥海山の山麓を北東から回り込むように樹海の中に入っていく。途中、「通行止め」もあったが、順調に裾野を進んだ。道路のすぐ上を鷹(クマタカの生息域のようだ)が悠然と飛び、森の中に消えた。1つ目の駐車場を右に見てさらに上ると、祓川ヒュッテのある駐車場に着いた。キャンプ場はその下なので、少し戻り脇道に入ろうとすると、待ち合わせていた鈴木主計さん(遠野の早池峰山岳会の方)が迎えに出てくれていた。手を振って合図する。すぐ歩み寄って来られ、懐かしい再会となった。鈴木さんは1時に着き僕らを待ってくれていたそうで、遅れたことを詫びた。鈴木さんの案内で車道の行き止まりに車を停め、キャンプサイトに荷を運ぶ。
 緑に囲まれ、トイレと炊事場が完備された清潔な感じのキャンプ場だった。木製のテントサイトデッキが備わっていたが、少し古く、その脇の広い草地を選んだ。すでに色づいた周辺の山々が見える場所から、やや樹林に入った地点だった。8人用の新しいテントを建て、テント場から、山頂がわずか雲で遮られた鳥海山を望んだ。ずいぶん距離がありそうだ。
 早速、Msさんご用達の日立牛の焼き肉に加え、Mhさん手製のベーコンのソテーが次々に出された。鈴木さんは、遠野のお酒(どぶろく2本)と緑色のトマトの漬物を手土産に、150kmもの距離、わざわざ車を飛ばして出向いてくださった。災害ボランティアで遠野に出向いたときも毎度お世話になり、焼石岳山行での事故のときの偶然のことなど、何重ものご縁を感じてこみ上げてくるものがあった。後日、Knさんから、鈴木さんの遠来が26日の最大の収穫だったとのお話を聞き、こういう機会の設定もよかったのかと、うれしく感じた。鈴木さんには不似合いなお酒抜きの1時間余りの後、駐車場で見送った。
 そのうち小雨が降り続くようになり、テントに入った。すっかり夕闇が降りた。8人用の新大型テントの中で、交歓・談笑が打ち続いた。夕食に「けんちんうどん」を食するころ、雨脚がひととき早まった。翌日の行動計画に合わせて、9時前消灯、就寝となった。Mhさんだけ一人が、小型テントに早々に移った。夜半に外に出ると、見事なまん丸の月が昇っていた(十五夜前夜で「十四日月」「小望月」などと呼ぶそうだ)。

 27日・・・・・・・・・・・出発から山頂まで
:登山開始。改修工事中の祓川ヒュッテを左に見ながら、竜ケ原湿原の木道をを行く。
:低木のアーケイドを抜けると、色づいた木々が目を楽しませてくれる。
:ガリー状の道を進む。時折り、リンドウなどの咲き遅れた花が残る。
:「康ケルン」。正面には碑銘がある。ケルンから左に100メートルに避難小屋がある。

10:開けた、気持ちのよい草原地帯の道。
11:沢状にえぐれたガリーの道となる。
12:ガリーの右岸を行く。この行路では唯一険しいと思われた箇所だ。
13:奇怪な形に変形した低木。厳しい気候に見舞われるからだろう。
14:ガリーを抜けると出てきた石畳の登山道。ところどころに、石を穿った形跡が残っていた(緑色の矢印)。穴を開けて鉄の棒を通し、運搬したのかもしれない。それにしても大変な作業だっただろう。
15:来し方を振り返ると、広大な裾野が広がる。まだ低木帯が続く。
16:八合目あたり。まだ石畳が続いている。七高山の特徴ある切れ込みが見える。
17:木々がすっかりなくなった。枯れた草地が広がっている。
18:七高山の近くから見た新山。確かに七高山により高い。石だらけから成る山のようだ。

27日
 予定の4時に起床の声がかかった。少しだけ事前の水分の補給と、手近の食べ物の摂取だけして、すぐ外に飛び出した。すでに群青の東の空に白みが差し始めていた。準備が整い、テント場を後にする。
 改装中の祓川ヒュッテを左に見ながら、竜ケ原湿原に真っすぐ伸びる木道を行く。眼前上方には泰然と鳥海山が全容を見せた。予想に反して、山面はかなり紅黄葉が進んでいた。みんなの足取りも軽やかで、速い。そこを抜け、祓川神社の脇を通過すると、ハナミズキ類を主とした低木帯のアーケードとなる。石の多い登山道だが、よく整備されている。緩やかな道がしばらく続く(ここをタッチラ坂と呼ぶそうだ)。そこを行って笹が目に付くようになった急坂を左に曲がって登り切ると、康ケルンに着いた。樹林に隠れた七ツ釜避難小屋の屋根が、少し下に見えた。
 標高1400mあたりから、樹高は人間の背丈以下となり、しかも倭木化し、奇怪な形で登山道の両側に並ぶ。時期は過ぎていたが、チョウカイリンドウが目を楽しませてくれた。そのほか固有種のチョウカイアザミも、ときどき枯れ残った花を見せた。リンドウは色が濃く、花びらが複数集合した大型のもので、これまでに見た品種と違っていた。時期がよければ(7月上旬)、チョウカイフスマも見ることができるようだ。
 岩石の多い登山道がやや急になり、そこをひと登りすると、広い平坦地に出た。7~8月には乱舞する花々で埋め尽くされるだろう地帯から成る湿性の原だ。ここに康新道との分岐があるはずだが、気づかずに過ぎた。その上は、テント場から鈴木さんに教えていただいたとおり、ガリー(細い沢)状の行路となった。トラバース道に注意しながら右岸を行き、石の出っ張った箇所を順調に進んだ。
 その辺から、見事に敷き詰められた石畳の登山道になった。登山道の造成に尽力した人たちの苦労を思わざるをえなかった。御影石かと見まがうような安山岩が、きちんと整形され磨かれて、まるで神社仏閣の参道のようである。石に人工的な、うがった穴の痕跡が残っていたのは、そこに金の棒を通して運んだか、石を割ったのであろうか。その手の込んだ登山道が、八合目半まで続いていた。下を振り返ると、晴天下に下界が広く裾野を引き、この山に来た喜びが湧き上がる。
 その上で、先に行っている単独の登山者の黒い陰影が、山頂の岩山の下に透かすように小さく横に動いた。鳥海山は双耳峰のようだから、左が山頂の七高山とみれば、その右には新山らしい険しい山があり、間もなく山頂だと納得した。KnさんとMhさんが、この辺で康新道と合流するはずだ、と言われ分岐を探したが、よくわからないまま過ぎた。その上で2人の若者に道を譲った。
 そこから左斜めに尾根まで登り上がると、釜(噴火口跡)のお鉢(外輪山)であった。岩が一段盛り上がったところが七高山だ。かつて山頂とされ、最高所ではないものの、現在もここをもって山頂との扱いでもあるらしい。対岸にはそそり立つ新山があった。火山岩の岩屑から構成されているようで、細かく尖った岩の角が全山を覆っている。釜が先に続いていた。行者岳のほうへ200~300m移動し、外輪ケルンのある分岐でしばらく休むこととする。今回は時間の都合で、新山には登らないことを誰もが言外に承知してくれていた。鳥海山神新山に登るには、ここから100mほど下らなければならないが、さっきの若者2人がすでに釜から対岸の新山に登りかけていた。大きな白いマークが新山の登路上の岩に見えた。
 ひと休みするうちに雲がわき始め、しだいに増えてきていた。天候悪化を懸念し、予定を10分早めて出発するように変更した。新山を背景に集合写真を撮り、さらに七高山でも撮り、下山を開始する。ここから下りで見た景色に既視感があった。一昨年のワスカラン(南米ペルー)で、登山開始後2日目の氷河上の幕営地から見た平野の広がりとその色合いが似通っていたのだ。乾燥した草原の茶褐色を基調としてユーカリの真緑が混ざる山面が、鳥海山で始まったばかりの紅黄葉が樹林の緑に混淆する色合いと似ていた。登山口は1100mの高さにあるが、景観は海岸線から立ち上がる2000mの標高差を伴っており、広大な裾野とともにその面が、類似の印象をもたらしたのだろうか。裾野にかかる雲間に景観を「窓」のように区切り取って見せてくれた。
 七高山からのトラバース道が右に曲がるところで、先頭から、上りとは別のルート(康新道)を下る、との声がかかった。石畳を下る安穏さを想像していただけに、下りだしてからの岩の多い道に難儀しながら、一歩一歩高度を下げた。振り返ると、双耳の七高山と新山が黒々とした山体を見せ、さらに左側、日本海側に目をやると、素晴らしい「パノラマ」が展開した。稲倉岳から落ちる懸崖を横に連ね、そこから広大にえぐれた裾野までの手つかずの樹海が、この新道のたどる尾根まで切れ目なく1枚の面として続いていた。稲倉岳の向こうには鉾立山荘などの建物も遠望された。色づいた樹海は見事だったが、日本海は一顧もできなかった。
 何人かの登山者とすれ違いながら、分岐まで戻った。あとは気をつけながら岩を踏み、坂を下るだけであった。予定の3時間に対して20分遅れての下山で、意外に下りが長く感じた山行だった。ほっとしながら振り返ると、まだ全山が姿をくっきりと現したままであった。こころなしか、紅葉が進んでいた。急ぎテントの撤収を終わり、車に運び込む段になって、その日初めての雨に見舞われたが、なんと幸運だったのだろうか。

 3時前にキャンプ場に別れを告げ、帰路に就いた。途中、道の駅でラーメンを食べ、ひたすら走る。運転する人、眠る人、しゃべる人の別はあったが、めいめいの胸に山行の模様、さまざまの豊かな山の表情をしっかりと刻まれたことだろう。我孫子駅に着いたのが、日が替わる直前、成田線下り終電の10分前であった。休憩や食事の時間はとったが、その間、なんと9時間も走り続けた。
 みなさん、本当にお疲れさまでした。おかげで、事故もなく山行を成し遂げることができた。眺望においても、登山としても、また旅としても満足のいく2日であった。最後に記して、同行の方々への深甚なる感謝の気持ちとしたい。(2015/10/10 TK)    

下りの康新道から見た光景。天気しだいでは山の背後に日本海が見えたかもしれない。「少し早めだが、これはこれで十分いい色あいだ」と、みなさん、大満足であった。

 27日・・・・・・・・・・・・・・・・・山頂から帰還まで
20:特徴ある七高山。
21:新山を背景に休憩地での集合写真。
22:外輪をなす行者岳の方面。右側が大きな釜(火口)となっている。新山に登るには、この火口まで一度下らなければならない。火口の縁に神社や宿泊所がある。
23:山頂を後にする。早速、岩山の様相を見せ始めた。歩きにくい。
24:裾野を眺める。ずいぶんと長い。写真17とともに、一昨年の南米ペルーのワスカランへの上りで見た山面とその周辺の特徴とどこか似ていやしないか。ワスカランでは遠くの雲が山地で、より乾いた印象をかもした。高所では森林限界となるため、眺望が裾野までの広い範囲を許される。ここでも同じように、周りに森林などの視界を遮る要素がないため、裾野までの広範囲にわたって視界が得られたことが、このような類似の印象をもたらしたのかもしれない。日本の多数の山の山頂で、このような印象をもたらすところは意外に少ない。
25・26:康新道の下り。左側が激しく切れ落ちている。ここから左側(日本海方面)に目をやると、写真19の大パノラマが目を楽しませてくれた。
27・28:山頂を振り返る。左が七高山、右が新山。


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