6月の山行


〈みどりのプラン〉

栗駒山~五葉山~三陸海岸
     1627m         1351m      東日本大震災巨大津波被災地


はじめに
 走行距離が1265kmと長かったが、終わってみて「いい旅だった」と思い返す。東北方面にはいい山がまだ幾つもあるという印象を新たにした。シラビソ類、ブナやシャクナゲなどの豊かな樹層のほかに、山の花も豊富だ。今後も訪れる山域になるだろう。
 「みどりのプラン」と銘打ったのは、軽い山行に加えて、東日本大震災巨大津波被災地の再訪も目的としたからだ。一応の登山が2つもそこに入ったのは、我ながら満足であった。
 遠路、小豆島から駆けつけてくれたThさんをはじめ、かつて災害復興支援ボランティアとして遠野市を拠点にかかわったメンバーで旧懐を温めることができて、感慨もひとしおだった。




栗駒山の山頂に5人が立つ。そばに駒形根神社奥社がある

◇実施日2018年6月15~17日(2泊3日)
◇参加者:男性4名、女性1名(5名)
◇行程&通過時刻
15日 5.50我孫子駅北口(集合)--6.20常磐道柏IC--仙台--11.00一関IC--11.35~12.20買物・昼食--14.40イワカガミ平駐車場・・・避難小屋泊(20.30就寝)
16日 4.30起床/5.30発--7.35/8.10栗駒山山頂--9.35/9.50イワカガミ平駐車場--10.25/10.40厳美渓--10.50/11.15毛越寺--11.30/12.15平泉(中尊寺)--遠野--釜石--16.15赤坂峠駐車場・・・幕営(20.30就寝)
17日 4.00起床/5.20発--6.20/6.25畳石--7.15しゃくなげ荘--7.30/7.35五葉山山頂--8.55/9.30赤坂峠--10.15大船渡--11.00/11.20陸前高田市長部--気仙沼--仙台--(常磐道)--19.30谷和原IC--20.30我孫子(駅前にて解散)
◇装備 幕営用具(ICI6~7人用スタードーム・テント、共用マット3枚、コンロ〈ガス・ガソリン各1セット)、ランタン〈ガス・LED各1台〉、その他)、個人装備(初夏の標準装備)
◇経費:約2万3000円/1人(レンタカー、高速道路使用)


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15日・・・曇りのち時々小雨
 ニッポンレンタカー柏営業所でワンボックス車を借り出す。我孫子で3人と合流後、柏ICから常磐道に乗り、高速をひた走る。いわきの先で東北道へと道は分岐するが、常磐道をそのまま北上する。
 楢葉近くで放射線量を示す標示板には、「2.8μSv/h(毎時マイクロ・シーベルト)」とあった(毎時2.8μSvという値は年間に換算すると24.5mSv(ミリ・シーベルト;1m=1000μ)になるから、国やICRP〔国際放射線防護委員会〕の安全基準を大きく上回る;ちなみにICRPの勧告では、一般の人の年間積算被曝線量の指標として、平常時であれば1mSv以下としている。5~6年前にボランティアで同じルートを走ったときの「5.9μSv/h」からかなり線量は減衰してきたようだが、人が住める状況にはまだまだ程遠い。
 周辺には、家々が家主や家人を完全に失って、寂寥とした光景が展開していた。大地が除染土を詰めた漆黒色のフレコンバッグで覆われた様(仮置きの「中間貯蔵施設」)が、冷厳な現実を見せつけていた。高速道から離れて目が届かない奥部に行けば、中間貯蔵施設がうず積み上げられた異常な光景が広がっているに違いない。
 仙台を過ぎた先で東北道に合流するが、平泉の1つ手前の一関ICで下りてしまった。一関の市内のイオンの店舗で食材と飲み物、翌日の行動食を買い求めた。行き過ぎた分、ぐるりと北西側から山中の迂回道路を登山口目ざして進む。途中、車道に沿ってずっと、Gtさんがヤマボウシだと言う街路樹が美しい白とピンクの花を見せた。
 霧雨が車窓を濡らし、視界を遮り始めた。程なくイワカガミ平駐車場に着いた。何面もある広い駐車場だが、車は1台もなかった。あたりが霧雨で煙るなか、脇に小さな避難小屋があった。5人なら十分に就寝できそうだ。土間にはかまど風の造りがあり、焚火をした跡があった。注意書きには、非常時の使用目的、平常時の使用禁止が書かれてあったが、雨の中で幕営は辛いので、ここを利用させてもらうことにした。水はそばのトイレの前から得られた。
 料理長Thさんの腕前は、さすがだった。簡単な素材から、山にしては意外に美味な料理(夕飯のメニューは刺身とショウガでいただく豚・キャベツ鍋)だった。この日、ここへの来訪者は皆無で、我々だけで室内が占有できた。久しぶりに交わす杯である、存分に楽しんだのち、8時半に就寝した。



東北(岩手県)の農村風景


イワカガミ平の避難小屋。火山の噴火を想定してか、がっしりとした造りだ


小屋内の風景。最近習い始めたという、小豆島のThさんのクラリネットが室内に響く ➡クリックで拡大写真


食事も終わって


16日・・・曇り
 早朝4時半に起床、食事は適宜とし、5時半に小屋を出た。前日同様の暗い霧中に踏み出す。標高差は500m余りにすぎないが、Ndさんからは、ゆっくり歩くから心配しないで先に行くようにと申し渡されていた。距離が開くが、先を急ぐ。石畳がずっと続く、緩やかな、参道のような歩きやすい登山道だ。行路の左右には、幾種類もの山の花がお目見えした。サラサドウダン、タニウツギ、ハクサンチドリ、コイワカガミなどだ。幾分か空が明るくなった。雨滴を帯びたナナカマドの新緑がまぶしく、その時季には紅葉が見事だろうことを想像させる。
 入山口からしばらくは枯れ果てた褐色の花弁だったレンゲツツジが、標高1400mあたりを過ぎると、ピンク色の花びらに代わった。この山は火山で、裾野が広大だ。しかも、どの方位に対しても緩傾斜面(山腹傾斜斜面)をなしているという。鳥海山ほどではないが火山岩礫が山面を覆っていて、天気さえよければ火山が造った溶岩地形が見られるそうだ。ブナの生息域が低い地帯(標高1000m程度まで)に限られたのは、さほど遠くない過去(1944年)に噴火があったうえに、戦前の1940年ごろから戦時用に大規模に伐採が行われたためだとのことだ。五葉松(ゴヨウノマツ)帯も上部ではみられた。
 植生が低木帯から風衝帯、草本帯に替わり、人の手による保護区域があったあと、かすかに硫黄の臭いを嗅いだ。残雪面を過ぎると、ほどなく栗駒山の山頂であった。数人の登山者がくつろいでいた。なだらかな広い山頂だった。晴れていれば東北一帯の山々はもちろん、噴火で形成された火口湖が間近に見られたはずだが、眺望は全くなかった。下り始めようというときに、Ndさんが遅れて到達した。全員で集合写真を撮り直し、下りにかかる。この天候であったため、東駒ケ岳経由のルートはやめ、来た道をゆっくりと下る。9時半過ぎに下山した。
 山行後、前日に行きそびれていた中尊寺へと北に向かって車を走らせる。平野部で行路上に厳美渓という標示を目にした。絶景を一望する。近くに毛越寺があり、ここにも立ち寄ったあと中尊寺に向かい、金色堂を拝観する。平泉前沢ICから東北道に乗り、北上する。花巻から遠野の方面へ右折するが、料金所のある東和ICを過ぎても高速道が続いていた。その後延長された道で、東和-遠野間の約35kmは無料だった。
 鈴木主計さんがこの日は不在だと聞いていたため、遠野はそのまま通り過ぎ、山を越えて釜石市に向かった。山を越えて街並みに入ると、見覚えのある工場(新日鉄住金釜石製鉄所)が右側に見えた。復興が進んだようだ、市街には造成された更地のままの土地は目立たなかった。イオンでこの日の夕食用の食材と飲み物を買い足す。被災後に再建されたのだろう、大きな新しい店舗で、食材も豊富だった。
 市街から「三陸復興国立公園」と名が変わった海岸線を南下する。険しいリアス式海岸に沿ってしばらく行ったところで山手に右折し、細い林道を上ると赤坂峠に着いた。2008年7月中旬に早池峰山山行後に足を伸ばした折と同じで、この日もあたりは暗かった。2~3台、車が停まっていた。立派なトイレが設備されており、そこの水道から水が得られる。 駐車場から外れた平坦地に、降り始める前にと急いでテント(ICIスタードーム6~7人用)を張る。早速、Thさんによるお持たせメニューも入る(刺身、野菜炒め、小豆島そうめん)。黄昏れ始めるころ、テントに入った山の食事としては最高においしい。テント内は暖かく、個々人間の距離を近づけるように感じた。杯が進むが、昨夜同様に8時半就寝とした。




石畳の緩やかな登山道が続く


よく整理された山道に雪が現れた


栗駒山山頂で。すぐそばに小さな祠がある




絶景の厳美渓に立ち寄る


毛越寺の境内。中尊寺よりも時代は古く、建物は失われて、礎石だけが残る


赤坂峠の駐車場端に得たテントサイト


  栗駒山で見られた花と木々
 別サイト(ギャラリー:山で出あった花々)へ



17日・・・曇り
 前日より30分早い4時に起床。申告によりKcさんと僕の2人だけが五葉山を目ざすことになった。ガスがかかる林の中を急ぐ。畳石でひと休みしたあと、ここからわずかに傾斜が増し、山道らしくなっていく。この山は太平洋に面し、海洋性の多湿気象の影響下にあるため、栗駒山よりも植生が豊かで、樹高も高い。行程上には、アスナロ(ヒノキアスナロ)の針葉樹がまばらに見られたほか、山頂付近のなだらかな笹の稜線に低木の五葉松が山頂付近まで分布していた。それにしても、行程の上半分にはシャクナゲ(ハクサンシャクナゲ)の群落がこれでもか! と言わんばかりに展開していた。樹高はせいぜい人の背丈ほどで甲武信岳のそれには及ばないが、みずみずしい艶のあるその緑葉はここだけのように感じた。
 ちょうど蕾が薄い緑で堅く閉じた状態だったから、あと10日(?)もすれば開花するだろう。花こそ見られなかったが、この時期でよかったのかもしれないと思う。上りでは登山者に出くわさなかったし、下りで数人~数組の登山者と行き違ったにすぎなかった。静かな山は季節の味わい以上にまた格別なのである。『新日本山岳誌』(日本山岳会編著、2005年)によると、7月15日の五葉山神社の例祭に合わせるように、この時期にシャクナゲが開花するため、登山者の長い行列ができるようなのだ。また6月上旬はツツジが全山を赤く染め、見事な眺めになるという。たまに満開のツツジが何か所かに見られた。色合いは栗駒山のレンゲツツジのピンク色とは違っていた。
 順調に進んでシャクナゲの道を抜けるころに、右側に瀟洒な山小屋(しゃくなげ荘)が現れた。水場があり、銀色の金属製の重い柄杓で、清水を2杯補給した。ここから先を左にとり、緩やかな礫質の道を行くと、視界が晴れ、左手に勇壮な山姿が姿を現した。その山のほうが高く見られたが、地図で見返すと黒岩1320mのようだ。黒岩方面への稜線半ばに、五葉山神社がある。遠野市の位置する北西にかけて1000m余りの山がいくつも連なっていて(早池峰山につながる北上山地)、遠野市を海岸線から隔てる。眺めを楽しんだその地点には鳥居があり、小さな社(日枝神社)が祀られていた。ほとんど傾斜のない行路を右にたどると、ほどなく道標の立つ山頂に着いた。山頂には奇岩があると『山岳誌』にはあるが、山頂はわずかに盛り上がった程度の広い頭部にすぎなかった。
 それなりに速く下ったつもりだったが、1時間以上もかかっていた。登山をしなかった3人を3時間半も待たせてしまった。ひとまず2つの山行が終わった安堵感につい浸りたくなったが、まだ被災地の再訪が待っていた。
 赤坂峠を後に南方に行路をとって大船渡市に下るまでの間、その山道の両側には、山面を驚くほど広範に切り開いて太陽光発電施設(ソーラーパネル)がほぼ連続して敷設されていた。被災地圏内でこその社会的現象だろうと類推した。


咲き終わり枯れたツツジ


上に行くと見られた満開のツツジ(左)と、色の異なるツツジ


かなりの規模でツツジが群生する ➡クリックで拡大写真


うっそうたる登山道


玄妙な登山道周辺の木々(主にナラ類) ➡クリックで拡大写真


右はアスナロ(ヒノキアスナロ;ヒノキやサワラの仲間) ➡同上


豊かな樹層の中の静かな登山道


周囲が少し明るくなった


瀟洒なしゃくなげ荘


水場にあったでかい柄杓


大規模に群生していたシャクナゲ


山頂間近の鳥居が先に


五葉山山頂で


ひととき視界に現れた峰(黒岩)


日枝神社


赤坂峠に下り着いた


東日本大震災巨大津波被災地・・・釜石・大船渡・陸前高田再訪
 東日本大震災の巨大津波で破壊された三陸海岸を含む大規模な被災地、ならびに福島県を筆頭とする原発事故被災地とその被災者に対する礼意と弔意を消極的にではあれ示す意味から、2011年「3.11」後の2か月の間に予定されていた山行活動をすべて自粛する方針を会として固めた。持て余し、山に向けるエネルギーと貪欲さと時間を一転、災害ボランティア(災害復興支援ボランティア)に向けることになった。個人の活動としてではなく、有志の形であったものの「山の会として」現地に出向くという方針が採択された。遠野とは以前から人的なご縁があり初めてではなかったこともあって、NPOの「まごころネット」を介して山の会として計8回訪れた。その際に、かの地の鈴木主計さんにはお世話になった。この間の日々のことは、生涯忘れることができない。
 今回のメンバー全員がボランティアに少なくとも1回以上は参加している。とくに1回目は、誰にとっても初の経験だったに違いない。しかも、被災から50日後という傷跡の生々しい時期に陸前高田市街にバスが入ったときの、目を覆いたくなるような被災の惨状の記憶と、活動現場に降り立ったときの衝撃は、今後も私たちから消えることはない。陸前高田の上長部での初日のボランティア作業が、今回の旅の途上で何度も話題に上った。5日間の作業が終了し遠野へ戻るバスの中で、涙が止まらなかった。同行の仲間からもすすり泣きの声が聞こえた。1回目のボランティアを最後にThさんは小豆島へ移住していった。
 本会で参加したボランティア地区は、最北の宮古市(作業対象外だったがMhさんの親戚が宮古市津軽石にあり、最終日の6日目にここを訪れて、山裾にあって辛うじて被災をまぬかれた舘下家にお世話になり、歓待を受けた。案内された津軽石の裏山から、その規模の大きさから知られた防潮堤を眺め、説明を受けた)から南に向かって、大槌町、釜石市、大船渡市、そして陸前高田市と作業場が替わった。最も損壊の程度がひどいと思われたのは、陸前高田と山田町だったろうか。


 今回の訪問では、前日に釜石市には立ち寄っていた。他に比べて釜石市街やその周辺は、被災から大きく復興を遂げていた。市内の家々も再建され、商店街も被災の跡をとどめないほど再興されていた。そして最後の17日、大船渡市で漁港に立ち寄った。被災の名残はほとんど消失しているように感じたが、過去のこの港町の活気や漁港、周辺の観光施設などの模様を多少とも知っていた私の目には、市の復興は縮小再生にとどまっているように感じられた。運営施設の人に話を聞き、観察したところでは、修復・回復率はかなり進んでいるようではあったが、コンクリート壁で囲われた港湾は小さくなっていた。漁港に碇泊していた漁船の数はけっして多くはなかったし(出漁していたのかもしれない)、加工施設の規模もけっして大きなものではなかった。
 そこを後に海岸線を南へとたどった。今回参加の誰にも思い出深い陸前高田市の上長部に車を向ける。あのころ特殊な作業として「サンマの回収」と言われ、強烈な腐敗臭や、サンマ・イクラの回収作業が話題に上った。大打撃を受け、その集落がほぼ全滅の状態だったなかにも、より山手、より奥部には難を逃れた家々が点々として残っていた。ある家は、辛くも全破壊を免れて、その1階の窓ガラスの損壊ですんでいたが、それでも痛々しいこと限りがなかった。上長部に残された人々のこれからの生活を支えるための作業として、異臭環境の整備を少しでも進める、という目的が言われていた。懸命に私たちも作業に取り組んだ。ところが、山登りでは慣れ切った登攀行動として「危険地帯」として除外されていた範囲へ深入りしすぎたためにボランティア管理側から「レッドカード」をもらい、作業場移転を命じられたことなど、懐かしい話で尽きなかった。移転作業ではEM菌の散布をしたが、これがその後、大きな効果を発揮したことを今回、現地にいた方から聞いて知った。
 あれほどのガレキにまみれていた土地が、公園・運動場に替わっていた。生活の跡を示すおびただしい“ガレキ”(食器、家財用具、家の造作物などがめちゃくちゃに、粉々に破砕されながら、その土地の周辺に残滓として散らばり姿をとどめたもの)で満ち溢れていた上長部の集落跡、そしてその間を流れる長部川が、真新しい姿を見せていた。同行の仲間と、「あのあたりだった」と、作業に従事した地点を目で追った。
 青春時代とは言わないが、自分たちがまだ若く、輝いていた時代があったとすると、個人的には山行時よりもむしろこの時期だったかもしれないという気さえするのだ。これも本会なりの目ざしてきた志向や理想が土台にあったからやれたと思うと、山の会を介してなんと貴重な経験をさせてもらったことか。感慨深さとともに、感謝の念に堪えない。Thさんが、そばにいた人に声をかけ、応じていただいた。菅野姓だというが、当時もこの地でボランティアの一員として参加していた長部の菅野健さんという若者の名を立原さんが思い出した(彼は当時、消防団に所属しており、遺体の運搬に当たったと言っていた)。

 思い出深い再訪の旅は終わった。陸前高田市を最終地とし、海岸線から逸れ、新設されたバイパスを南へと走った。早めに高速道に乗り上げ、仙台からは常磐道を経て、予定よりも早い8時半に帰還した。同行されたみなさん、本当にお疲れさまでした。(2018/6/27・7/5追記 T・K)


赤坂峠から大船渡に下る車道に沿って山面に敷設されていた、
広大な規模の太陽光発電装置





大船渡漁港の市域側に造られた防潮堤(左上)と海側に新設されていた漁業作業保管施設(右上)
防潮堤は高さが10m程度(二階建ての家の高さほど)と嵩上げされたが、その付近にいた人が心配げに言ったように、幅が基部で1.5m程度しかない、薄っぺらな堤壁に見えた(津波に耐えられるのだろうか)。漁業作業保管施設は、漁港の周辺にあって津波で破壊された魚介類の加工工場を新規に建て直した施設だった。その漁港から見えた穏やかな内海には筏がたくさん浮かんでいた(下の2枚)。ホタテ貝は海底が津波で破壊されたうえ、陸から引き潮に伴って海中に流下し堆積したガレキ類でダメージを負ったままで、養殖は不可となったが、カキは筏に吊るして海中で育てることができるので、養殖が戻ってきた、と工場から出てきた方から話を聞いた。
 



陸前高田の市街地にさしかかる(2枚) ➡クリックで拡大写真
2011年5月初旬に初めて訪れたとき、ところどころかつて炭鉱の町にあったボタ山のような小高く積んだガレキがあるほかは、無秩序に散乱したガレキで満ち溢れていた。完全に破壊された街の様子が衝撃的だった。やっと工事用の車道が再開通され、車両が行き交うことができていた。その市街には被災前は家々や商店街が建ち並び、市の庁舎がその中にあった。荒廃した市街はガレキが取り除かれ、すっかりきれいな更地に変わっていた。しかし、人々の生活はもとより、市街の復興はほとんど進んでいなかった。海岸線からより遠くの市街区域には盛り土された平地が造成され、復興に向けた街並みらしい風景がわずかながら見られた。今回訪れた三陸海岸沿いの地帯では、陸前高田は最も復興が遅れていたと感じた。


長部に向かう途中、まだ取り壊されずに残された校舎(陸前高田市立気仙中学校)を左に見る。


上長部で。長部川のこの水路もガレキで溢れていた。


上長部にかかる橋で  ➡クリックで拡大写真
サンマの回収後の器具類は、この橋の下に降りて洗った。古い家が残るように、このあたりから奥は被災を免れた。




修復された上長部(2枚)
長部部落に造られた運動公園。かつて被災前には、このあたりは民家がぎっしりと立ち並び、住民の普通の日々の生活が営まれていた。この公園は、被災後にはガレキで足の踏み場もないほど散乱していた。ガレキを取り除き、さらに盛り土して少年たちの活動場所が造られた。しかし、人口が著減した彼の地に子どもたちの姿が戻ってくるのだろうか。ここにいた菅野姓と名乗る男性に話をうかがうことができたが、当時、消防署に勤める同姓の菅野健さんという若者と出会った。彼は上長部のほうでも山手に家があって助かり、ボランティアに参加していた。


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