災害ボランティア
           第1次災害ボランティア活動を終わって
  本会の有志5名による、東北地方・三陸の被災地に対する第1次のボランティア活動が、5月の連休とともに、無事、終了しました。今回、活動に参加した人とそうでない人との違いに関係なく、多くの人たちの口を突いて出たのが、「居ても立ってもいられない」「いたたまれない」「なにかの役に立ちたい」といった言葉でした。そういった気持ちが活動を推し進める第一の動因となりました。一方、気持ちを軌道に乗せ、実現するに当たっては、山の会・会員からの厚い支援をいただきました。深く感謝いたします。
 いま、その結果よりも、実際にやったことが重要だと思い返しています。過去も現在も未来も、身近な家族・友人も、人間の存在そのものも、また過去から営々と築き上げてきた家々・職場、役所・港・船などの建造物や歴史上の遺産もすべて潮に呑み込まれ、流され、喪失してしまい、荒廃の極みにある彼の地にいまも住む人々に、ささやかでも末永く援助の気持ちを示していきたいと考えています。いまも被災地の映像が脳裏から離れません。

 過去に400年前後の周期で、その地方を津波が襲ってきた歴史があることを知りました。それ以外にも三陸沖地震・チリ地震に伴う津波被害もおきています。このたびの津波災害は、それへの備えがどうだったかによって、「人災」としての面も否定できないと理解しました。最後の日に作業が終わって、大槌町から陸中海岸沿いに宮古まで走りました。被害のすさまじさはどこも言語を絶するものがありましたが、途中立ち寄った吉里吉里という村、被害の大きかった山田町などそれぞれで、被災の様子は幾分か異なっていたような気がします。その中で、私には気になった場所として宮古の記憶が残りました。

 活動最後の日の6日に、宮古市津軽石の背後の高台に登って眺めた市街は、それでも他の三陸沿岸の町々よりも被害はかなり小さく見えました。道路周辺の家々も市街も埃っぽく、被災したことを感じさせましたが、道路沿いは多くが完全な破壊を免れていました。造成のときに工事に当たられたという方のお話で、宮古の中心部にかけての湾には、他の漁港にはない見事な開閉式の防潮堤が築かれていて、それが宮古を守ったことがわかりました。宮古には、津波の破壊波は防潮堤で緩衝されたとみられたのです。

 今回の旅で見た限り、人工物は物の大きさや種類に関係なくことごとく壊され、傷つき、無残に変形して、元の形をとどめていませんでしたが、2つだけ元の形を保ったものを私は見つけました。1つは、陸前高田でサンマを回収中に発見したペットボトル2個とそこに入っていた種子用の小豆です。もう1つが、宮古のその水門のある防潮堤でした。砦のように大きく突っ立つ防潮堤の水門が、視界を遮って高々と姿を見せていました。この防潮堤が津波の直接の破壊から宮古を守ったのです。他方、宮古市に合併された隣の田老町は、最初に築かれた防潮堤は低く、その後、二重、三重に増設された堤防も、人口の増加とともに堤防の間際まで拡大していった居住区と市域がかえって大きな犠牲を生みました。

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 ボランティア地から私たちの帰りのバスに向かって、被災地で延命した方々が深々と頭を下げる姿を何度も見ました。作業を終えてバスへの帰り際にも、高齢の住民の方々が小声でお礼の言葉をかけられました。陸前高田では、その1軒から1人の若者がボランティアに参加してきました。K君は言葉少なく、最後まで積極的には喋りませんでしたが、彼は消防に従事していて、被災した遺骸を何体も自ら納め、見送ったと漏らしました。
 被災地にたたずむ何組かの遺族のシルエットは、表現を超えた悲哀を漂わせ、敬虔な「祈り」を思わせました。私たちにもまた何物にも代え難い経験となりました。このような悲惨な事態をきっかけとして実施に及んだ活動ではありましたが、その中に身を投じたことによって、貴重な経験ができたと思っています。また若者との貴重な出会いがあったことも、別の意味で収穫でした。

 今回は、遠野市のご関係の知人や、団体(遠野まごころネット)や、本会の有志の方々のおかげで活動の場が見いだせ、実際に活動に参加することができました。私たちの行った活動は、大きなアリ塚の一角を1匹のアリが崩すのよりも微々たる、僅少な作業にすぎませんでした。被害の規模と程度が大きかったその有り様を目にして、たまらぬ気持ちがこみ上げてきました。そのときの衝撃的な印象が、まだ私たちを自由にしてくれません。いまも同行した仲間から漏れ聞く、心を束縛する残像です。

 今回、生命と死とが同居する、あるいは瞬時にその2つが交錯した現実の目撃者となった、とても重い経験が私たちを圧倒しました。あのときにしか目撃できなかった情景や現場の映像が心を縛りします。悲しい思い出の一方で、遠野の総合福祉センターの前庭には、多数の若者の姿を確認しました。連休でもあり、毎朝、400人、500人、600人という多数がその前庭に集合しました。大多数が若者で、私たちが最高齢のグループだったようです。若者の意識の高さをこのとき初めて垣間見た気がしました。

 部隊が列をなして移動する自衛隊のモスグリーンの車両には、「震災復興支援」「災害派遣」の横断幕が掲げられていました。誇らしげに見えました。誰かが言っていたように、戦時下のような響きがあり、また国難の処理に当たる使命感をたぎらせる観がありました。陸前高田まで遠野から20kmほどある内陸の小学校の校舎に「たくさんの支援をありがとう!」という言葉があり、感動を覚えました。岩手県の県民として被災地・民を支持しながら、自分たちもしっかりと生きていく、県外からの私たちの派遣を受け止める、という強い気持ちが伝わってきました。

 高宏竜太郎さんという陸前高田隊の隊長さん(48歳)は、「いつまでやるのか」という質問に、「終わるまで」ときっぱりと答えました。千葉県から故郷の遠野市にユーターンした3日後に地震が襲ったと聞きました。それ以来、ほとんど休みなく“出勤”しては、若手のボランティアを励まし、活動がうまく進むように見守り続けていました。現場にも毎日、一緒に向かっては、巡回して事故のないように注意を呼びかけ、励ましの声をかけ続けていました。

 わが国で災害史上最大の規模に至った今回の津波災害から、私たちも変わっていかねばならないことを自覚しています。また、原発事故の被害が拡大し、将来にわたり痛ましい結果を残すことが必至ですが、いかなる事態にかかわらず、今後も人間の生活も社会も、1人ひとり異なる現実も続いていきます。同じ現実を生きていくこととなるなら、許す範囲で意味ある選択をしようと私は思っています。

 最後に、山の会の方々を代表して5人で実施できたことを誇りとし、今後の活動にその気持ちを忘れることなく託していきたいと念願しています。どのような不幸事も時間の波に押し流されて風化し、忘れ去られていきます。しっかりと意志で風化に抵抗しなければなりません。

■データ

 ●期間:2011年4月29日~5月7日(最初と終わりの日は移動日)

 ●参加者(五十音順):男性5名(50~60歳代)

 ●活動内容:陸前高田市気仙町下長部での「サンマ」の回収作業(6日)と大槌町での被災
  家屋の床はがし(1日)

 ●活動形式:滞留・派遣型(遠野を拠点に、上記の両地域へバスで送迎され、活動を行った)、かつ自足型(生活・食事はすべて自給自足で行った)。

 ●アクセス:車1台を使用。


4月29日(晴れ)
 早朝、我孫子で5人がそろい、常磐自動車道、磐越道、東北道とひた走る。13時50分に、遠野市に着く。知人の案内でボランティアセンター(遠野市総合福祉センター/遠野まごころネット)を訪ね、受け付けをすませる。近くのスーパーで買い物をすませ、翌日からの活動に備えた。宿泊所は、市内の某所に張ったテントとした。

活動初日・4月30日(曇りときどき晴れ)
 5時半起床。7時前にテントを後にし、7時にボランティアセンターに集合した。受け付けをし、前庭に並ぶ(受け付けは毎日)。連休初日とあって人数は膨れ上がり、朝礼を受ける。団体での参加も多数あるが、個人での参加が圧倒的に多く、しかも飛び入りというケースもあるようだ。主催者のほうで、これを作業の種類、または被災地ごとに配分し、さばくのは大変な仕事だ(人数に合わせてバスの手配もしなければならないし、宿泊所のこともある。しかも毎日のことであり、人数は日ごとに変動する)。
 私たちは陸前高田でサンマの回収に当たる班にすでに組み込まれていた。全体は大きく陸前高田(サンマ)と大槌町(家屋・瓦礫の整備)、三陸町(瓦礫の撤去・整理)に分けられた。大勢の中で点呼を受けた。神戸大学の学生団体がバスを仕立てて来ていた。私たちは、その日から、「サンマ」と呼ばれた作業に6日間従事することとなる。

 遠野市の民間の観光バス、社会福祉協議会のバス、JICA(国際協力事業団)のバス、JA(農協)のバスなど、バスに分乗して現地に向かう。バスに乗り込んだ瞬間、異臭が鼻を突いた。これが「サンマ」の正体だということは、現地で身をもって知ることとなる。進むにつれて、陸前高田の市街地を貫く川床に瓦礫が目立ち始めた。やがて、瓦礫の山々、破壊された街の情景が展開する。建物、家々を失ってしまった埃っぽい街並みが広がるだけだった。

 朝礼では、ボランティアの心得が繰り返し言われ、けがをしてはいけないことが強調された。私たちは山登りの得意な集団として、山の傾斜地にある「サンマ」の回収に専念した。斜面は滑りやすく、瓦礫がわんさとあるところで釘やガラス、木屑による刺傷を負う危険について注意・説明を受けた。ボランティアは、危険に近づかないで、「できる範囲で・・・」という趣旨が毎日繰り返された。また、次の点が喚起された。①現場とはいえ生活している住民がおり、無駄口を大声でたたいたり、笑い声を上げたりして、被災した住民の感情に反する行動をしない、②同様に被災地に入ったら撮影はしない(バスの中からはよい)、という決まりが話された。

4月30日~5月5日・・・私たちは陸前高田上長部部落で「サンマ」の回収に徹した。5月5日に、「サンマ」の終了が伝えられた。

 ●「サンマ」について
 陸前高田市気仙町長部漁港に上陸して数百メートルのところに、㈱加和喜フーズの大型倉庫があり、その中に大型の冷凍庫が格納されていた。今回の津波によって、その冷凍庫に保存されていたサンマ・サケ・イクラ類の実に2万5000箱(約2000トン)が冷凍庫から外部に放り出され、瓦礫とともに陸地の奥まで押し流された。それが飛散し、瓦礫の間や下、山の手側の傾斜地に残り、日とともに猛烈な腐敗臭を放ち始めた。この臭いが、被災を免れてこの地に住み、復興を願う住民約100人を苦しめ、その除去をしてほしいとの要望が伝えられた。今回の作業は遠野まごころネットを通じて、それに応えた作業の一環だった。
 サンマは、土の中に埋もれ、瓦礫に砕かれ、ばらばらにあれば、どっさりと固まって群れのままあった。場所を同じくして、サケ(鮭)、ビニールに密封されたイクラが大量に出てきた。この1週間の間でさえ、日を追うごとにその腐食・腐敗は進んで、隊員を悩ました。サンマの下にはおびただしい数の蛆虫が這い、初日、正直なところ、「おお!」と逃げ出したくなるような気持ちになった。最初は、渡された火箸で回収していたが、それでは埒が明かない。鷲づかみ、手づかみで回収し、トレイに入れる。それを一輪車に入れて、収集場所まで運ぶ。長い時間は続けられない。衣類、持ち物に強烈な臭いが残った。
 この作業に若者が、それも若い女性の姿が多数見られたのは驚きだった。しかし、「サンマ」は敬遠されたようで、日々、参加者から同じ顔ぶれは見られなくなっていく。うれしかったのは、たまたま5月5日に作業が終わろうかというときに、この日で「サンマ」は終わりとする、と報告が伝わってきたことだ。最終5日の午後はEM(effective microorganism)菌散布のほうに回った。
 後日、K君からメールがあり、かなり臭いは軽減されたことが書かれてあった。その地には水道も電気も復旧せず、水は沢から得、電気のない生活が続いた。いちばん困ったのは、生の食べ物(肉・魚類)の保存で、K君が住民のボランティアとして車で氷を市街20kmあたりまで出向いて買ってきては、クーラーボックスに保存するというご苦労な日が続いた。それが、ようやく5月下旬に、電気が通じたという。

生活 
 テント場のおかげで、比較的快適な生活ができた。近くには、ゴミ処理場の余熱を利用した浴場があり、そこが利用できた。ボランティアの者として、入浴時間も緩和された。
 1日の活動が終わると、スーパーのQUATEで食材の買い出しをし、テントに戻ってT料理長の手料理を食する、というスタイルになった。本当にお世話になった。幕外でしばしやっていたが、向こうは寒かった。朝夕は7℃程度と低温で、この地から数百メートル上の山肌には、到着日の翌朝、新雪が降りていた。
強風も吹いた。「今回は気候に恵まれないなー」と口々に言った。5月2日夜半、強風が吹いた。その日、陸前高田に入り活動を開始したものの、猛烈な風が吹き、瓦礫の中や、荒廃地にある鉄板、ブリキなどが舞い上がって人に当たる危険性があるため、昼前に作業中止となった。

最後の日、大槌町から宮古へ
 最後の活動日となる6日は、わがままを言って、大槌町に回してもらうこととした。大槌からそのまま自己車で北上するのが都合がよいからだ。最後まで「サンマ」をやりおおせたので、後ろめたさも悔いもない。この日の大槌町での作業は、浸水した住宅の床はがしだった。
 陸中海岸を北上しながら、被災地を次から次と見た。どこも被害の程度は目をおおわせるものがあった。いったい、人間はどこに住むのだろう、と思った。海岸線から陸地に入ると、なんでもなかったかのように穏やかな農山村になった。そこを過ぎ、宮古に着いた。訪問先のお宅にお世話になり、ご家族のお話を傾聴した。いろいろな不幸の歴史を乗り越えてきたその地に生きる人々の誇りをお話しになりたかったのではないか、といま感じている。そのシンボルが、防潮堤だ。その内側は家がそれでも保たれた。事情が多少はわかったいま、もっとよい聞き手として、もっともっと聞きたかった。


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                 ○朝礼:遠野市のボランティアセンター(遠野まごころネット)前の
                  広場に集まったボランティアたち。

               ○朝礼:同上。熱気あふれた朝。大勢のボランティアが行き先の指示を待つ。
                候補地の選択も早い者順でできた。若者が大多数だ。外人さんも多かったが、
                日本語の達者な方々ばかりだったようだ。

○仲間:この格好に上に白のツナギ服を着た。白装束の5名が目立った。

                ○朝礼で掲示されたボード:すでにわれわれのグループは、きっちり
                 行き先を指定されていた。いろんなグループが登録されていた。

                ○テント場:活動が終わって帰幕後の団欒。遠野は寒かった。風も強く、
                 5月とは名のみだった。近くに浴場があり、ありがたかった。

○バスから見た大槌町の被災の情景:津波の破壊力は、どんなだったか。
刃物で断ち切ったように、ガードレールの柱の根元が断裂をおこしていた。

        ○陸前高田下長部部落:「サンマ」回収の現場近く。右手の奥は、ボランティア送迎のバス。
         左右にある人家も相当に傷んでいるが、上のほうは被災を免れたようだ。
         左手の瓦礫のさらに左手の山側がサンマ回収作業の現場になる。
         サンマは陸上から、際の斜面に沿って10m以上打ち上げられていた。

○宮古市津軽石の高台から:すぐ下にある駐車場も、この下の一番上にあった家屋を除いて、視界にあるすべての人家が浸水した。しかし、津波の破壊はここまで届かなかったようだ。写真の上の奥、海辺に立ちはだかる大きな開閉式防潮堤が、直接の津波の破壊からこの地を守った。

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