1.実施日 |
2011年7月24(日)-29日(金) |
2.天候 |
晴・曇・雨・雷 日により、時間により変化 |
3.参加者 |
3名(女性1名、男性2名) |
4.行程
(車利用・テント泊) |
24日 我孫子駅発6:00--13:45 遠野保養センター着 以降、遠野まごころネットのセンターで登録、支援物資の手渡し、作業着・食事の買い出し、テント設営、食事など。
25日 大槌町安渡地区でのガレキ撤去、ヘドロの回収
26日 釜石市箱崎町個人宅でのガレキなどの撤去、製材所での作業助手(KTさん)
27日 陸前高田市気仙町上長部(かみおさべ)でのガレキ撤去(第一次隊と同所)
28日 釜石市箱崎町での折りたたみ椅子の錆取り、個人宅のガレキ撤去
29日 遠野保養センター6:00--7:00花巻駅8:00--15:00我孫子着 |
5.個人装備 |
ヘルメット、安全ゴム長靴(+金属製くつ底)、ゴム手袋(または革手袋)、防塵マスク、ゴーグル(今回は使用せず)、着変え、トレーニングウェア上下(活動しやすいよう)、雨合羽(上下、安いので可)、傘、コップ、シュラフ・マット・枕、サンダル、サブザック、ウェストポーチ、ヘッドランプ+電池、携帯電話+充電器、うちわ、その他
#服装は、行動が楽で汚れても気にならない上着+下着上下を、2~3セットくらい
#今回は毎日、コインラインドリーで洗濯 |
6.現場の状況・
情報など |
★全体の状況など
・「遠野まごころネット」のホームページには、いろいろな情報が掲載されているので、先ず読まれることをお勧めする。 http://tonomagokoro.net/
・毎朝、その日参加したい活動場所の希望を白板に書き込む。団体や同じ地区希望の場合は前日に書き込み可、ほぼ希望がかなえられる。最近の平日の参加者は150人くらい、徐々に減ってきているとのこと。まだまだいくらでもやることがある、ぜひ多くの方に参加して欲しいとのことだった。
そして、ラジオ体操、朝礼のあと、バスで各活動地区に移動。その他、内勤活動もある。
・大槌の三好隊長の注意点は3点。①緊張感を持って作業にあたること、②言動・態度に注意すること、③水分は2リットル以上、長袖・軍手・ゴム手袋、弁当を忘れずに。
・遺体がある家には赤のX印、収容したらそのX印に赤の○印、赤旗(住所・氏名が書かれている)は壊す住居、黄旗は考慮中の印。
・24日、お風呂で多くの自衛隊の方々にお会いした。自衛隊は公共の道路復興などと遺体捜索という目的がほぼ終了し、25日から月末に掛けて、順次撤収されるとのことだった。
★大槌町安渡地区
・地震→津波→火波と3つの災害が重なった。最後は船などから海に流れた重油に火が付き、それが陸の火災になったとのこと。焼け跡も生々しかった。
・作業現場で現地の人からの差し入れがあった。活動が認められている証拠と聞いた。
★釜石市箱崎町
・寄贈された鯉のぼりにメッセージが認められてあった。
・70%240世帯がやられた。箱崎町は沢で3地区に分かれており、道が通行できないので、当初は自衛隊の方々が山越えで救出に当たり、その後、遺体をどけながら道を通していったとのこと。精神的な傷は癒えていないと聞いた。
・リアス式海岸の一つで、道路が遮断され、当初は窃盗団やサギが横行したとのこと。
・ハエがたかっているところは、何かある証拠。
・根浜海岸は、綺麗な砂浜の海水浴場だったが、地盤沈下により、砂浜はなくなり、道も陥没、駐車場が新しい道となっていた。
・6月30日、業者の作業妨害でトラブルになったとのこと。顔を合わせたら挨拶を!
・道の途中で、津波にやられた中学校と小学校、三階に車が突き刺さっていた。ただ、校長の指示に従って、中学生が小学生を誘導し、被害ゼロだったとのこと。
・道の途中で両石地区を通った。狭いところに津波が押し寄せ、明治の大地震の碑を越すところまでやられていた。また、2次・3次の津波の引き潮で堤防が決壊していた。その時の状況は、YouTubeに掲載されている。
★陸前高田市気仙町上長部
・作業は、先ず黙祷から始まった。
・第一次隊がさんま・鮭・ガレキの撤去をされたところで、まだ臭いが残っていた。海岸から2キロ程入ったところに多くのカモメが飛んでいるという異様な光景に出くわした。
・田んぼは塩抜きの為EM菌を撒き、6月から7月上旬にはヒマワリの種を蒔いたとのこと。
・白砂青松で有名だった「高田松原」で津波被害から奇跡的に残った一本松。復興のシンボルとして大切にされている。希望の松。
・グループリーダーの言。被災者はゴールの見えないマラソンランナー、ボランティアは伴走者。1日でも2日でも、1ケ月でも一緒に走ろう!
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