8月報告

第4次災害支援ボランティアを終えて



「遠野まごころネット」の朝礼に集まったボランティアたち/
活動を終えてホッとするが、余力を残すメンバー
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第4次災害支援ボランティアを終えて

*実施期間:2011年8月16~21日(16・21日は移動日)
*参加者:男性4名、女性1名(計5名)
*活動場所:遠野まごころネット(NPO)を介した活動への参加で、今回は釜石市箱崎地区、陸前高田市気仙町上長部地区、および大槌町で瓦礫(がれき)の除去、溝(水路)周辺の草引き・草刈りと清掃、津波記念碑周囲の清掃など

■ 本会におけるボランティア活動
 第4次ボランティア隊として当初、8月13~20日を予定し参加者を募ったが、「遠野まごころネット」が13~16日を活動休止とすることがわかり、期間を8月16~21日に変更した。両端の各1日は移動に充て、実質の活動日は4日間に短縮した。

1)4次隊までの経過
 本会では、4月末から5月初めにかけての連休に1回目のボランティア(第1次隊)を実施することをもって、会における「災害復興支援ボランティア*1」の嚆矢とした。初めは個人的な目論見として出発したが、山の会と会員の幅広い理解が得られて、会がバックアップしてくれることとなった*2。また、多数の方々から寄せられた支援金(カンパ)を活動資金に充て、参加者の負担が軽減された。深く感謝する。
*1ボランティアの名称:最近、NHKなどでも名称を「災害復興/復旧支援ボランティア」と表現するようになっているように見受ける。
*2会における支援金の募金活動:5月の例会で、日程とメンバーが具体的に決まったボランティア隊に対して、その直後の例会で支援金の募金(カンパ)を行うことが決まった。
 前にも書いたように、ボランティア活動への参加は、その動機が情動(感情)的なところにある以上、その気持ちは時間の経過とともに必ず薄らいでいく。被災地の復旧が進めば、活動の意義も徐々に低下していく。しかし、メンバーが交替しながらも持続することによって、個人であったなら容易におこりえる気持ちの萎えや諦めが防止される。一方、周辺の人たちには、体験者から話される珍しいエピソードに刺激もされ、経験を希望する気持ちがわきおこるかもしれない。
 第1次隊以降、進め方としては、自主的に「参加」を言い出す人が、周囲の人たちの都合も聞きながら日程を決めて「計画」を組み、呼びかけを行ってきた。例会でも、計画が報告された。参加者がまとまったところで隊を組み、打ち合わせを行って実施に進む、という手順を踏んできた。
 装備品が多いので車でアクセスをとった。第1次隊は柏-東和(釜石自動車道路)間の高速道路料金について自己負担をしたが、第2次隊以降は料金免除の措置を利用した*3。
*3高速道路通行料金免除の暫定措置:1次隊のときはまだ、高速道路料金上限1000円の措置がなされていた(6月19日に切れた)ので、その負担は少なかった。その後は、ボランティア実施計画を、メンバー数、団体名と隊の代表者、活動予定期間を付して遠野市社会福祉協議会に提出・登録し、申請すると、事務局から「災害支援ボランティア活動受け入れ承諾書」が発行される。その書面を持って我孫子市役所で手続きを行うと、高速道路通行料金免除の証書が発券される。真偽のほどは不確かだが、悪用例が後を絶たず、本年末でこの措置が廃止されるという噂も伝わってきている。
 第2次隊では、活動の一端として物資の支援も同時に行った。会員に物資の供出を訴え、集積した物資を遠野まで届けた。被災地からの要望が新聞などで報道されているので、物資を届ける場合は、現地のニーズを考慮した支援内容が検討される必要がある。
 私たちには、ボランティアを実施に移す格好の後ろ盾や条件がある。第1は、通常、ボランティアを自身のこととして考えた際に、体力・健康上のことで不安がおきるが、「山岳会」または「山岳会員」であることがその不安を緩和した点だ。山を登る体力と忍耐力、さらには「社会力」が自分たちにはあるという自信に裏づけられたものだ。第2に、私たちは各地の山々の登山を楽しませてもらっているが、それだけ各地の人たちにお世話になっている。一種の負い目があるというべきと私は思う。巨大被災で人々がこれ以上なく困っているときに、時期を重ねて山登りをすることは自粛すべきだと私は考えたが、自粛だけでは消極的な意思表示にしかすぎない。山はひとときやめ、微々たるものではあっても、山への熱意やエネルギーを被災地に回す、もっと積極的な姿勢を示すという意味を考えた。自立した組織としての務めだとも認識した。第3は、すでに現役を退き、時間的な自由があるメンバーが本会に多いという点である。どの点も有利に働いたようだ。
 災害発生当初は、被災地は混乱をきわめ、自治体の機能も半ば壊滅状態となっていたため、ボランティアの受け入れ態勢を整えること自体が無理だった。不確かな情報、誤った情報も飛び交い、気持ちがあるにもかかわらず、全国の多くの善良な市民が被災地に入ることができず、また活動を実施に移すことをためらったようだ。それにもよらず、本会には、被災地に「行く」という意志を固めたメンバーが何人もいた。いまさらながら、山の会の恵まれた「精神的土壌」を感じた。
 私たちにおいても、どこから入るか、「取り付く島」の検索から始まった。いたずらに入っても活動に結びつかず、被災地の住民の迷惑になるという理由が、参加を思いとどまらせるように作用する風潮が当初はあった。そんな状況下に、遠野の鈴木主計さんがボランティア活動実現へ向けてシグナルを出してくれた。
 また、その前に4月上旬、NHKの「クローズアップ現代」に登場した宮﨑益輝氏(関西学院大学教授)が強調していた言葉が、私を最後の決断に進ませた(▼下に、そのときの発言の一部を紹介した)。第4次のときにも、時間がたつほどに人々の気持ちが色あせ参加者が減っていくことを懸念するとの前置きのあと、ボランティアの作業はこれからも無限にあるから、帰ったら、知り合いや友人に、被災地に行くように勧めてほしい、そして協力者・理解者の輪を広げてほしい、と主宰者側の1人が声を大にして訴えた。
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=宮﨑益輝氏の話=
●ボランティアが十分に活躍できない現状について
>>行政の応援っていうのは、大きな隙間を埋めることはできるんですけど、小さな隙間がいっぱいあるんですよ。その小さな隙間はやっぱりボランティアの力でしか埋まらないんですよね。かつ今は被災地のボランティアが、ずっとこの2週間、もう働き詰めどうしで、疲労の極致にあるわけ。だからこそ、今度は外からボランティアがたくさん入ってきて、その小さな隙間を一つ一つ潰していかないといけないんですよね。それには本当、たくさんのボランティアがやっぱりいるということだと思うんですよね。
●受け入れ体制がない中では迷惑になる懸念あるが
>>僕はちっとも迷惑じゃないと思う。阪神大震災のときに100万人のボランティアが来ましたけど、被災者は誰一人として、そのボランティアを迷惑だとは思っていないんですよ。やっぱり来てくれるだけでいい、そばにいてくれるだけでいい、話をしてくれるだけでいいというふうに思っているので、やっぱりその被災者のそばに、ボランティアがいてほしいというふうに思うんですよね。
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 第1次隊は、鈴木さんを通して「まごころネット」事務局に団体登録を行い、鈴木さんの配慮でテント場を特別に借用できることとなった。Tnさんが例会で奇しくも発言されたように、「ボランティア終了後に別の空間があったことがよかった」。いくらボランティアといえども、参加者の日ごとの心身のリフレッシュは必須である。
 また第3次隊では、「栞」のメンバーによる隊も合同の参加となったし、10月に予定されている第5次隊でも、やはりそのメンバーの1人が本会の隊の中に加わるという。意義ある社会貢献に賛同の人的輪が広がる意味とともに、本会の「方針」にも沿うものである。

2)被災地の状況とボランティア活動内容
 上述したように、現地もしだいに落ち着き、徐々にボランティアの仕事も少なくなっているのではないか、と推測する人は意外に多いように見受ける。しかし、ボランティアの作業として膨大な量が、これから何年も先まで残り続けるに違いない。人の手によってしかできないこまやかな、丁寧な作業は、「重機」とよばれるブルドーザーやクレーン車、ショベルカーなどの建設用大型機械で大規模に行う作業によっては、絶対になしえないものである。
 釜石市箱崎町の山手にさしかかる地区は、もともと畑や住宅地だったところと推測される。その被災地もすっかり草が繁茂し、被災の傷痕がおおい隠されていた。ボランティアの手で電動カッターを使って草刈りが行われると、草の下から無数の瓦礫(いわゆる「人工物」であり、食器、建物の壁やタイル・瓦などの大小のかけら、木材などの屑、釘などの金属類)がむき出しとなった。一見、瓦礫類や破壊された建造物などは重機を使って取り除かれ、一帯は更地に戻されたかのように見えた。しかし、もはや違った。ここには過去の生活の生々しい小さな名残がたくさんありすぎるために、更地には程遠かったのだ。
 主宰者から、この土地を「公園」「遊び場」に戻すという方針が発せられた。危険物が埋蔵する場所を、母親として幼子の遊び場に与える気になどなるだろうか。ここには、こまやかな人の手による「除塵・除棘」が必要だ。
 私にはひととき、それもまた空虚なことのように思われた。子どもの姿が皆無なのだ。あまりにも当然すぎたが、その事態をあらためて認識して愕然とした。あるいは、健全な場所を準備しさえすれば、時間をかけて子どもたちは戻ってくるというのだろうか。だが、空しいことがわかりすぎていても、人には「やらねばならない」事案があることを感じた。ここに来て感じたことだ。道幅が先々狭まっていくのがわかっていても、踏み分けて進んでいかなければならないときがある。そのことを、猛々しくはないが、生きる人々に縛る重たい空気が、あたりに漂っていた。
 
3)ボランティア論――参加の意義
 ボランティア活動の内容は、以前とは相当程度に様変わりしていた。回収が1/5ほど残ったままとなったという陸前高田市上長部地区の「サンマ」の腐敗臭は、4次ではすっかり消えていた(感じた、という人もいたが)。そのような被災地、被災者の刻々と変わっていく状況を前にするボランティアの一般的な意味は、被災を免れて延命できた人たちや、家族や知人を失い、家を破壊され喪失しながら、これから生活を立て直そうとしている人たちに、少しでも寄り添い、また微力でも、少しでも気持ちのよい環境を取り戻し、復興・復旧へつながる作業を提供し、それをもって同胞(人間)として寄与することと理解される。
 常識的なボランティアの理念で最も基本的で項目は、「代償」「見返り」を求めないこと、そして自分の自由な意思で参加を選択するという点である。ボランティアの絶対の条件といってもよいが、それでも、参加したことによって得られる経験が、参加者には「プラス」効果として残るのではなかろうか。参加した人たちに共通している感慨は、「行ってよかった」という多数の方々から発せられた声で代弁されると思う。その意味は、現地の人たちに役立ったという現実感覚なのではなく、参加した本人の精神性にプラスに作用したという点ではなかろうか。自分の内面の浄化とも表現できよう。
 人生観が急激に修正を余儀なくされるという実感を、ボランティアに参加して私は持った。それは自分が好むと好まざるとにかかわらず、向こうから強制してくる「得体の知れない」大きさの威圧を伴っていた。強制力であって逃げようがないから、もし浄化でなく堕落や汚染だったら、経験が一生の禍根となる類のものかもしれないと思った。それだけの衝撃的な場面や要因が、私たちが平凡に過ごす日常にあるだろうか。また、あっただろうか。あってはいけないことだが、私はそれを待ってでもいたのだろうか、とさえ考えた。被災の現実を、映像や写真を通してではあったが見て、私は釘付けにされてしまった。そして、実際に経験してみて、それを現実に経験したこと自体が「代償」になると感じるに至った。参加しえたこと自体が、他のなにものも伴わなくてそのまま「代償」だという理解である。逆に、もしそのような「代償」をも徹頭徹尾求めず、結果的に伴ってもならないのだとするなら、原理的にボランティアには私は参加しえない。
 ボランティアvolunteerには、「無償奉仕」「義勇兵」「自主的な施し」などの意味がある。義勇兵は、ある場合には生きて戻れないことを覚悟しなければならない。逆に言えば、ある場合には、命を賭しても、それ以上の価値を求める行為としてボランティア(義勇兵)を成り立たせるなにものかがあるということとして理解される。行かなければ自分の内面が崩壊するほどの危機感を伴った内なる良心・義侠心に従うことを、保身(生命)よりも優位に個人の中で置く選択だ。それとて、命以上の意味を自身にもたらすことがあることを示しているが、意味のない危険のあるところに人間が無闇に出向いていくわけではない。その場合に、その意味をことさらに強調し、その行為を生命以上のなにかを期待して選択する行為であり、自己中心主義を逃れないという立論をすることは論理的には不可能ではない。しかし、私はその理屈は皮相で、あまりにも冷笑的にすぎて、実を欠くと思う。すべての意義ある行為が、完全無私の上に成り立たねばならないこととなる。もし完全無視などがあるとすれば、宗教的な精神のなす業しかないと思う。
 私たちにはとうてい完全な無私に近づくべくもないが、それでも、ボランティアにはある種の「自己犠牲」を伴っているという属性がある。私たちのボランティアについて言える「自己犠牲」は、休日に読書や旅行をする楽しさ、または自由にゆっくりと日々を過ごすという俗な気ままさを自主的に投げ捨てることをさす。その分を他者へ差し出す。その程度である。数日間、山歩きをしないで、他の作業に従事するだけである。
 それが「自己犠牲」となるかどうかは個々人の人生観や判断尺度にもよるだろうが、私はボランティアに身を置くことを伝えたところ、第三者から賛辞を受けた。「連休はどう過ごすのか、どこの山に行くのか」という会話から始まったのに対して、「いや、ちょっとね、山はやめて、ボランティアに行くことにしたよ」となにげなく喋ったのがきっかけだった。善行は隠れてせよ、というのが日本人の徳目だが、ボランティアは周囲に隠し立てするものではなく、ささやかでも身近なところから理解者と協力者の輪を広げていくという課題も帯びている以上、その意思は開陳したほうがよいと考えてのことだった。
 私は、ボランティアと登山とがある意味で似ていると感じることがある。ある種の犠牲や苦痛を自身に強いることを厭わず、特殊に高い「なにかの価値」の獲得を自身に課する、という側面がどちらにもある。しかも、その「価値」は、多くが少数派(マイナー)のみに特有のもので、一般性を欠如する。わかったような顔をする人はいるが、本当には理解されない。登山もボランティアも、少数派的な性癖を好む傾向があってきたように思う。私もその端くれと思っていたが、ところが、今回の被災の巨大さの前にこの理解は崩壊を起こし、今やボランティアは少数派から多数派へ変わったとさえ思われる。
 
4)ボランティアへの参加の「代償」
 初回の参加では、それなりの未経験の斬新な印象があり、また被災から日が経過していない時期だったこともあり、現地の生々しいまでの状況を初めて実見し、また活動を体験して、大きな感慨を持って帰還した。被災そして、悲しみの大きさに打ちのめされたともいえる。一方、その当時には、規模の大きさからして私たちの存命中に復興されるという観測はとても抱けなかった私にも、5か月後の8月半ばに現地入りして、復旧・再興が進みつつあることを感じることができた。ともに2回目の参加となったGtさんから「すいぶん変わった」という言葉が聞かれた。率直に、私もそう感じた。私たちが現地入りした場所も、行った時刻から帰りの時刻までの数時間の経過にも復興への前進がみられた。
 9月の本会の例会で第4次活動について報告した際に、「被災者・被災地があってのボランティア活動という意味では、不幸事にもたれた行為だが、都合がつく方はぜひ現地に行ってボランティアを体験してほしい。きっと貴重な、意義のある経験となる」と訴えた。現地の有り様をつぶさに見て、その不幸の大きさと悲しみの深さを知り、それでも人間は生きていくことを余儀なくされているという現実と、将来を切り開く力がまだ残っていることを、肌身で感じてほしいと思っている。上に述べたように、経験そのものが「代償」だと思う。多くの人たちに、「代償」を体で獲得してきてほしい。
 本会の会員でこれまでに行った人は、16人に上る。当初、ある人は本会でボランティア活動に参加することを「誇り高い」と表現し、みずからも現地に出向いた。この点も、山と似通う。ささやかでも山で「高み」を目ざすという本会の趣旨と二重写しとなる。ボランティアで培い、さらに高く保持する「矜持」を、山行に生かしていければ、と思っている。
 何年後かはかは不明だが、これから先、ボランティアへの参加の「終息」を宣言する時期が私たちにも来よう。そのときまで、持続することを念じたい。
 
■4日間の活動のあらまし
【1日のだいたいの時間割】
 17~20日の間のだいたいの1日の行動パターンは次のとおりだった。
5.00 起床---食事---6.40 テント場発---コンビニエンスストアへの立ち寄り(昼食・飲み物などの購入)---7.00 遠野まごころネット着---7.15ごろ ラジオ体操---7.30 佐藤正市代表による挨拶・朝礼---7.50~8.00 活動地に向けて出発---9.30~9.45 活動予定地到着---10.00ボランティア活動開始(この間、30分程度の活動ごとに10分の休憩を挟む)---11.30~11.45午前の活動終了---1時間の昼休み(昼食休憩)---12.30~12.45午後の活動再開(30分程度の活動で10分の休憩を挟む)---2.30~2.45(道具類整理)作業終了---3.00~4.30帰還のバス中---遠野まごころネット着・解散---4.45~5.15買い物(AQUTEで)---5.00帰幕---~5.45食事の準備---6.00~食事と入浴、その日の反省---9.30就寝
 
●8月16日 晴れ/ときどき曇り。遠野までの移動日で、朝6時に我孫子駅北口ロータリーに5名が集合した。事前に申告した経路に従って、常磐道をひた走る。磐越道を経て東北道を下り、高速道路最終地点の「東和」インターで下りた。「フォルクローロいわて遠野」に立ち寄った。ランチを全員で注文した。
 JR釜石線に沿って遠野方面に進み、30分余行ったところで、橋を渡り予定の幕営地まで行く。ご承知のように、この幕営地は焼却場に近い片隅にある。近代的に見えるこの焼却場も、有害物質(ダイオキシン)排出問題で新しい基準値をクリアできず、近いうちに取り壊されるとのことだ。近くの「あまりの湯」という浴場に私たちは毎夕お世話になるが、ここは焼却場から出る熱を利用して湯を沸かしている。
 テントを建てたあと、タープを上におおい、その下にロープを通して補強した。遠野は雨風の強い場所だ。次いで「遠野まごころネット」を訪ねた。続いてコインランドリーを同定し、「トピア」というスーパーマーケットで適当な食材を購入して4時過ぎに帰幕した。タイミングよく、鈴木さんの来訪を受けた。
 今回は3次隊で使ったオートキャンプ用のテーブルと椅子を持参した。初日、会員歴の古い、気が置けない参加者ばかりで、輪を囲んで前夜祭を盛り上げた。
●8月17日 活動初日で、緊張が高まる。コンビニで昼食を購入し、7時に「まごころネット」に着くと、すでに多くの参加者がいた(1次のときには「行動食」で統一したが、評判がよくなかったので、今回は「買い弁」とした)。まだこんなにここに来る人たちがいることに驚いた。1回目よりも年配者が増えていたが、私たちがほぼ最高齢だったようだ。
 本会の名称がホワイトボードに書き込まれてあり、釜石市箱崎地区で決まりだった。初めての場所だ。ラジオ体操のあと、佐藤代表の挨拶、派遣先リーダーからの注意事項を聞いた。
 7時50分、バスが現地に向けて出る。釜石市の市街地は、店舗のビルや家々が外観をとどめていたが、ほとんど再利用できないほどの破壊で、さながらゴーストタウンの様相を呈していた。その中にも、手入れを始めたビルがいくつか見られた。9時40分、目的地に着いた。被災のひどかった箱崎地区は、大きな残骸はほぼ撤去され、その上を草がおおい、被災の傷痕は隠されていた。その上の人家(破られた壁が修復中だった)の横の水路の清掃がその日の業務となった。人海戦術で護岸の両側の草も刈り、引き抜いた。水路は泥濘を取り除いた。2時半に、早々に終了となった。帰幕後の夕食では、ボランティアの話になった。
●8月18日 起床時から小雨に見舞われ、雨のために体育館内での朝礼となった。この日の出向先は、陸前高田市の上長部地区と決まった。1次のときに5日間通ったところで、どの程度に復興を遂げているかが気になった。結果的に、思ったよりも復旧は進展していた。かつてのサンマ臭はなかった。上長部でも上のほうで、瓦礫はもとより家の土台も取り払われ、整地されていた。高宏氏(陸前高田の隊長)から、この地を子どもの「遊園地」「公園」に戻すことを想定して取りかかってほしいと告げられた。作業中、雨脚が強まり、雨具を着込んだ。土壌を掘り起こし、金属類、ガラス類、建造物の破片や木屑などを仕分けて回収していく。午前も半ばの休憩のときに雷の可能性があることを理由に、突然、11時40分、その日の作業が打ち切りとなった。解散は、2時半だった。その日は雨が降り続き、風も強まった。食事も簡単にし、早めの就寝とした。その日は終夜、強い雨滴がテントを打ち続けた。
●8月19日 この日も体育館での朝礼となった。目的地は釜石市箱崎地区と決まった。午前中は記念碑の周囲の清掃を希望した。皮肉にも、昭和の津波*4被害を刻んだ碑銘があった。
 *4 昭和三陸地震津波:1896(明治29)年の明治の三陸地震津波(M 8.2;は死者・行方不明者が2万1,959人)から約40年後の1933年に襲った地震・津波。M 8.1で、津波と火災によって3,064人に上る死者・行方不明者を出している。さらに、1960年には、M 9.5という巨大な地震が地球の真裏に当たるチリで起き、22時間後に日本に到達した津波によって死者1,743人を出している。このように、津波被害はこの100年余りの間だけをみても、3回も起きている。▼資料=明治・昭和・平成の巨大津波の記録、毎日新聞社、2011、7。ちなみに、今回の津波による遡上高は岩手県宮古市姉吉地区で、38.9mであったことが確認されているそうだ。しかし、110年前の明治の津波でも38.2mの遡上高を記録していることがわかっており、今回の津波が「想定外」となる根拠はなかったという。「想定外の津波などというものはない。」と断言している人は少なくない。(『大災害の理科知識 Q&A250』、新潮社)
 午後は、廃校跡の上手の草地の瓦礫拾いとなった。刈り取った草を除くと、土壌中から瓦礫が次々出てきた。土砂で埋もれた排水溝の存在がわかり、溝と道路が掘り出されることとなった。さながら古跡の「発掘」作業だった。作業が間もなく終わろうとするとき、Khさんが負傷した。結果的にはなんでもなかったが、ボランティアで一番の注意事項だっただけに、残念だった(遠野に戻るや、急いで県立病院を受診した)。
●8月20日 朝礼で、津波が来たときの退避や写真撮影に関する注意事項をひと通り聞いた。この日は、初めての大槌町小槌地区を申し出た。港に近い凹凸のあるその荒廃地を駐車場にする、という作業だった。固まった土壌を掘り起こしながら、瓦礫を除去し、さらに地ならしをする。近くには、被災した廃屋や、陸地に上がった漁船がそのまま放置されていた。まわりを歩くと、瓦礫や漁類(網や筏、浮)が、2階建ての家ほどうず高く積まれていた。復旧から取り残されたような一角だった。
 終業となって見渡したところ、10台分のほどのスペースの平坦地ができ上がっていた。20人の作業員による4時間の結果だったが、わずかでも前進を感じることができた。最終日の活動が終わり、解散した。みんな、表情は明るかった。多くを語らなかったが、ホッとした気持ちが推測された。みなさん、本当にお疲れさまでした。
●8月21日 相談の結果、三陸海岸を走り、1次のときに立ち寄り、過分なお世話をいただいた宮古の舘下家(Mhさんの親戚)を再訪することになった。小雨の中、7時半にテント場を後にした。遠野から最短で北西に国道を下り、宮古市田老地区を左に見て右折し、海岸線を南進する経路をとった。30分で、舘下家に着いた。突然の訪問で、わずかの時間だったが、「改めてまた来ます」と言い置いて失礼した。それから海岸線を南に走った。釜石市外から右折して遠野に戻り、JR釜石線に沿って西進した。そして、来るときに寄ったフォルクローロいわて東和に再度立ち寄った。
 岩手県に別れを告げ、東北道を走った。復路も往路と同じ経路を走り、渋滞にあうこともなく、少し遅く8時半ごろ帰還した。


 活動の後に憩いの場となったテント場。
 「まごころネット」前に集まったボランティアたち。若者が圧倒的に多かったが、われわれのような年配者が混じる割合が増した感じがした。

 釜石市箱崎町の活動現場の跡。被災が軽微だった民家のそばを流れる水路の汚泥を汲み出し、清掃した。周辺の草木も鎌で刈り取った。

 釜石市箱崎町の作業場の一角。右向こうに見えるのは、廃校となった小学校の校舎。伸びた周辺の草を刈り取り、除去すると、大小さまざまな瓦礫や木屑、瓦・ガラスの破片など「人工物」が散乱していた。掘っても掘っても、これらの器物が出土した。

 陸前高田市上長部地区のバス置き場:4月末~5月上旬に「サンマ」の回収で1次隊で通った場所だ。往時とはまるで様変わりし、ここまで整理・復興が進んでいた。しかし、奥に踏み出すと、さまざまな危険物が出土した。


 同じく上長部地区のバス置き場から。

 同じく上長部地区のバス置き場から。
 帰幕後のなごみ。紅一点のNdさんには、またまたお世話をかけた。しかし、この場所は3次隊のメンバーからも聞いたように、虫が多かった。

 大槌町小槌地区の被災現場。この周辺は、最も復旧から取り残されていたように感じた。そこらじゅうに、大小の瓦礫、廃屋がまだ放置されたままだ。

 大槌町小槌地区の被災現場。活動現場から200メートル程度のところの漁港には、うず高く漁具が積み重ねられてあった。出漁は遠いと思われた。



 釜石市箱崎町の廃校となった校舎の内部。トイレが汚泥で埋められ、使いものにならなくなっていた。室内の被災状況。まだまだ使用に堪えたと思われる校舎だが、過疎化によって登校児童が著しく減少していたのだろう。

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