2012年7月活動報告
第8次災害復興支援ボランティア を終えて

                          
「遠野まごころネット」前のホワイトボード/ 朝礼の風景




今回の活動場所にかかわる釜石市箱崎地区のおおよその位置関係
(常楽寺はここより西の鵜住居地区)



       第8次災害復興支援ボランティア を終えて

 ◇実施期間:2012年7月21~26日(ただし、21・26日は移動日で、活動日は3日のみ)
 ◇参加者:男性4名、女性1名(計5名)
 ◇対象地域:「遠野まごころネット」を介した三陸地方の指定箇所(いずれも釜石市内)
 ◇活動内容:瓦礫の回収、土壌の浄化など

■再び、ボランティア論から
1.いかにして「初心」を長続きさせられるか
 東日本大震災・津波災害からの1年目に当たる2012年3月11日、東北地方・東日本の各地で鎮魂の儀式が営まれた。当日は、私たちも激甚被災地の釜石市箱崎地区にいた。
 第8次ボランティアは、そのとき以来だ。大震災から1年半近くが経過し、その間にボランティアに参加する人数が激減していると聞いている。被災地の復興にもいくらかは進展がみられ、ボランティアにかかわる状況そのものに変化がおこっている。それを反映するかのように、ボランティアの役割は終わったという声も耳にするようになった。
 だが、こう書きながら、別の「声」が胸の内から響く。現在もなお、ボランティアから手を引き、またはその力を大きく減じてよいだけの「現実」が出現してきているのか、疑問に感じられてならない。勝手に行った善意にも責任が求められるように、被災地・被災者に手を差し伸べた私たちの行為にも、ある種の継続した責任が伴うように思われるのだ。
 被災直後、自分たちの都合や欲望の一部を削って、ささやかでも被災地に差し出してはどうか、と私は提案した。大きな山行を4回とか5回するなら、そのうちのせめて1回分、山を取りやめて、微力でも被災地に行くことに回してはどうか、という考えだった。幸い、山の会で一定期間、山行を自粛することとなった方針が、その提案を後押ししてくれた。
 復興・復旧に途方もなく長い時間が必要なことは、誰の目にも明らかだった。1回、2回や数回などの単位などではありえない、と私は肝に銘じた。しかし、ボランティアを志す最初の動機は感情的な要素で成り立っており、哀しいことに、感情は容易に変化する。だから、感情は安定した「意志」に置き換える必要があることを会報とホームページに書いた。1年や2年でやめたのでは、一時の感情の虜だったとしかいえない。
 被災地の実態はどうなのだろうか。復旧・復興の状態、自治体や国による復興への施策の実施状況は、どうみても復興などには程遠く、十分なテコ入れがなされているようにはとても思われない。仮に復興が進展したとしても、対象から漏れる場所や、後回しにされる部分は少なくないはずだ。現に三陸海岸を車で走ってみて、復興の進み具合いには大きな地域格差があり、今も被災当時のまま放置されているところは少なくないことがわかった。ボランティアたちにもやるべきこと、やれることはまだわんさとあるはずだ。にもかかわらず、復旧が一定程度進んでいるという事実をもって、そういった被災地を「ひとからげ」にし、ボランティアの役割はすでに終わった、あるいは終わろうとしているかのように解釈がなされる傾向がありはしないだろうか。逆に、そのように変移する根底には、自分(たち)自身における気持ちの「風化」がおこってはいないだろうか。
 *復興への国・自治体の取り組み:国は税の優遇措置や災害復興交付金の付与など総論部分を担い、復興の具体案は自治体にゆだねられる。宮城県岩沼市では、被災地では初めての防災集団移転促進事業に基づく工事の着工を発表した。被災した沿岸部は家屋の再建ができないため、被災者が住む地区の住居地を新たに造成し、恒久的な住宅地を提供する目的だ。集団移転は、岩手・宮城・福島の各県の約250地区で予定し、同時に沿岸地帯の2m程度の嵩上げも予定という。(8/6 毎日新聞) 
  復興庁は24日、東日本大震災で被災した自治体の復興事業を財政支援する復興交付金の3次分として、東北4県45市町村に計1428億6000万円の配分を決めた。被災地の住宅再建を促進するほか、被災した水産関連施設の復旧に対する支援を大幅に拡充した。---事業別では、防災集団移転に515億円を充てた。このうち12月までに着手予定の岩手、宮城、福島3県の12市町村77地区の計6400戸分として500億円を交付。災害公営住宅整備には209億円を配分し、青森を含む4県の計730戸が来年度中に完成する見通し。(河北新報ネット版)
 確かに、今回の東北行で、以前とは異なる風景を目にした。例えば、多くの被災地には「重機」といわれる大型の土木工事用機械が多数、導入され、復旧の主役になっていた。手がつけられていなかった被災地をダンプカーが頻繁に行き交う様に、鉱区やダム建設域を走るダンプとイメージが重なった。工事に携わる作業員が被災地の現場で力強く働く姿も多数目にした。また、かつて被災地のあちこちにうず高く堆積されていた「瓦礫・スクラップの山」は小さくなり、市街地から姿を消そうとしていた。市街地に散乱していた漂流物、破壊された家々の名残を示す残さ物、錆びた鉄くずと化した車両も取り除かれて、建物の土台跡だけを残した市街に変わっていた。崩落していた橋梁も立派に修復されている。これからは、専門の土木・建設業者が建物や道路を再建し、市街を再興させていく段階にあり、ボランティアが介入する余地はなくなりつつあるという状況もわかった。
 ※陸前高田市や釜石市、大槌町などの激甚被災地では、津波再来の危険を想定して、被災した沿岸区域の住宅地の再建はできない決まりとなっている。そこの住民で生存しえた人たちは、今は移住先で暮らすが、被災区域より高台への移住条件や住宅地の整備(防災集団移転)に着手している自治体もある(▼上記)。現在、住めなくなった沿岸部の整地が進められているが、その区域が少なくとも住宅地に戻されることはない。その土地について、どのような街作りを目ざして再興されようとしているのか、私は不明にしてその壮大なプランを知らない。
 また帰途に、宮城県登米(とめ)市にある「RQ小泉ボランティアセンター」を訪れ、「ハード」(目に見えない側面に対する援助内容を表す「ソフト」の対語で、主に瓦礫撤去や清掃など肉体を使った作業の形容)のボランティアの機能が少なくなっているらしい実態や、ボランティア参加者数が著減している状況を垣間見た。ここまで変化している証拠をあげれば、ボランティアの役割が今や縮小している現実は否定しようもない。
 だが、依然として「復旧」などにはまだまだ程遠いともいえる。大きな瓦礫類は撤去されたようでも、現地に一歩踏み入れると小さな瓦礫類(ガラス・瓦・瀬戸物の破片類)は至るところに散乱し、被害の跡を生々しく伝えてくる。この状態は、被害者たちにとって、どれほど悔しい、むごいものだろうか。とても人の住むに適した環境などではない。被災した沿岸部は、人が住まないまでも、ここを市民のための活動を生かせる機能ある土地に戻すこととなるなら、瓦礫は障害になる。しかし、この回収作業がボランティアか住民自身以外によって着手される展望は持てないだろう。被災地に関して、現実にはどちらともいえる二面性があり、判断は大変にむずかしい。
 そのどちらもが真実だと思う。肝心なのは、どちらの面を尊重して理解しようとするか、という点ではなかろうか。このような場合に、当地の人たちとして、どうしてほしいと考えるだろうかを忖度することが重要ではなかろうか。また、順調に復旧が進行している場所や部分はそのまま放置しても回復は比較的容易に進むのに対して、そうでないところは、わずかに状態を改善するのにも困難を伴い、予想以上のエネルギーを必要とする。だから、弱い立場、他と比べて欠落している部分や対象に光を当て、力を注がなければならない。
 さらに、どのような痛ましい非人間的な事態に対しても、人は感情的な「免疫」を獲得する。時間の経過に伴い、痛ましさ、悲劇などに対して人は鈍感となり、無感動となる。しかし、被災地を少しでも見れば、痛ましい惨劇の跡が、そっくりそのままではないにしても、際限なくあたりに現前する。数か月、1年、2年と時間がたつと、海水を浴びた瓦礫の山にも草木が繁茂し惨状をおおい隠してしまう。物事にもある種の風化現象や変化がおこり、一見、状況がよくなったように感じさせる。だが、内実は過去に戻ったのなどではまったくない。市街地は土台だけを残して茫漠として広がり、まるで写真で見る戦場跡のようだ。どこが正常な状態になったなどといえるだろうか。それにもかかわらず、そのように人は見てしまう。こわいのは実は、その事態を見ている人間、同情や善意を注いできた人間のほうに、大きな変化がおこっていることだ。より厳しい見方をするなら、現実を直視し、現実にかかわることを恐れ、当人に「逃げる」気持ちが生じて腰を引いてしまう。
 さらに、行為の必要性や義務感を抱いたとしても、そこに実際に身を投じることに直ちにつながるわけではない。「奉仕」ならほかにいくらも選択肢はあるだろう。ボランティアだけがやるべき意味がある活動でもない。また本人にとってもっと楽しいこと、有意義な時間の過ごし方、気楽な生き方があるだろう。それでもあえて「それ」を選択するという判断が、最終のその人のあり方を決める。価値観、人生観がそこに顔を出す。ボランティアはその意味では、もはや個人の生き方であり、価値観そのものの発露といえる。ボランティアはどこまでも個人主義的な営為でしかない。
 
2.「効果」論になじまぬボランティア活動
 第三者として、ボランティアを感傷的営為(センチメンタリズム)や自己満足(もしくは自己欺瞞)的な行為と考える向きもあるに違いない。あんなやりかたで、あの程度のことをやってなんになるのかと、それを消極的に考えたり、参加者の自己満足を批判したりするのだ。以前、もしボランティアにはどのような「報酬」も期待してはならず、自己肯定感という「見返り」をも否定しなければならないという徹底した禁欲主義的な考え方に立つべきであるなら、ボランティアはそもそも成り立ちえないと述べたが、ここで述べるのは別の観点からである。
 私も冷笑的に自分(たち)の行為を考えるときがある。実際に一定の身体的、金銭的なエネルギーを注ぎ込む行為について、その出費や努力に匹敵するだけの実質的な結果を伴っているのか、という疑問がつきまとうのだ。ボランティアで使う経費をそっくり寄付金や義援金としたほうが、より現地に有益な貢献になるのではないか、などといった考えが頭をもたげる。
 例えば、釜石市箱崎地区のある畑地(50坪程度)の瓦礫の除去、土の掘り起こし、整地などを30人ほどの人で行って、なんとか耕作が可能な畑地に戻した(後述)が、その価値は、それに出費しただけの金銭価値を持つのか、という点に関して見てみよう。30人が私たちと似通った出費をすると仮定すると、この作業に投じられたと推計される18万円(食費など恒常経費は含まず)に、遠野と箱崎地区間の往復バス1台余の運行経費などが加わり、だいたい25万円相当がボランティア活動で1日に使われる勘定だ。1件だけなので実際的でないが、これをどう考えるかだ。25万円の予算なら、土木事業者が復興事業として受注する可能性はある。その経費全額を地元の事業者の事業請負代金などに回すことにすれば、むしろ地元が潤うこととなる。こうした議論はばかばかしいが、ボランティア作業が単純な、あまりに前近代的で非能率な作業方法に依存していて、不満足な成果をしかもたらさない場合があり、また実質的な緊急性なども考慮外として活動場所を選定することが少なくないだけに、つい皮相な考えが生まれてしまう。
 公的な復興支援事業・施策も、上に述べた市街地の整備を除いて、住宅適地周辺の道路・上下水道・河川などのインフラストラクチャー部分と、最低限の生活環境保障としての仮設住宅の整備が中心となり、被災を逃れた旧市街・住宅地の復元や農漁村の条件整備にまで手が回っていないと見受ける。
 ここで、長期間にわたって必要となる復興・復旧事業が、被災地の失業者と、近年問題となっている「非正規雇用者」などに就業の機会を提供できるのではないかという考えは、多くの人が持っているだろう。震災を奇貨とし、復旧・復興事業に本格的な予算が投じられれば、雇用の改善にもなり、経済の活性化にプラスに機能するに違いない。先日、陸前高田の沿岸地帯などで作業員が働く姿を見て、それが現実味を帯びてきているという実感を私は持った。まさしく「震災特需」だ。
 震災特需は、土木工事などゼネコン関係以外に、作業従事者とその家族を巻き込んで建築・食糧・交通・娯楽など日常生活関連の需要も生み出す。復旧までの時間を考えても、半恒常的な安定した需要となるだろう。地方への人口の分散効果も生む。国として「復興庁」などを新設したが、その位置づけも役割も、その予算配分も私たちに明らかでなく、実質も十分でないと見受ける。
 なぜこういうことを書くのかというと、復旧・復興が専門の業者に委託された場合には、例えば土木作業について、支払われる経費と作業の結果との間には厳格なバランス関係が成り立つのに対して、規模は小さいながらボランティアでは採算面を度外視して作業が計画されるからである。上述したように、ボランティアで非効率的な作業を自己満足的に行うよりは、むしろ自治体レベルで採算面も効率面も含めて有効な「起業」として復興事業に取り組むか、専門の事業体に委託するなどしたほうが、被災地はもとよりその周辺地域の経済効果としてもはるかにプラスに作用しないかという気がしてならないからである。
 ボランティア経営に戻るが、逆説的に述べるなら、ボランティア団体・組織としては結果に関して金銭的な損得を考慮する必要がないため、事業を計画しやすく、また事業体の維持も比較的容易であり、ボランティア作業員の募集を安易に行うことができるが、これを効率面に焦点を当てて担うのであれば、実際の運用ははるかに困難となるだろう。つまるところ、やさしいからボランティアで行えているという皮肉な論理が成り立つ。
 この「安易さ」が、ボランティア組織の存続を支える制度的な保証となっている点は否めないだろう。そして、ひいては結果責任の軽さと責任意識の低さが、さらに安易な運用方式を常套化させる危険性があると思う。断っておくが、結果=利益はボランティア組織のためにあるのではなく、社会=被災地・被災者に供与される利益としてある。だから、復旧・復興の実質的な進捗にできるだけ大きく寄与するボランティア活動であるほうが好ましいことは自明だ。ところが、ボランティアすなわち(=)無償奉仕という前提があることによって、代価を求めないのだから結果も強要されないという関連から、ボランティア組織体において「起業」的な効果追求という志向性の低下がおきる危険があるようにも感じられる。
 ボランティア組織の運営には、かなりゆるやかな実践規定のような基準が置かれている。理由として軽微と思われる、天候の悪化を理由にボランティアを中止にするなどの判断や、1日わずか4時間程度の実質作業時間、30分の作業で10分間の休憩などだ(普通の企業であれば、7~8時間の従業時間、休憩は1時間半に1回程度だ)。これらは、遠路を岩手県まで出向いたボランティアに対して、その積極性、努力、厚意に見合うだけの結果を出すのに障害にさえなっている面があると私は感じる。企業体の従業員規律などに比べて、はるかにゆるやかな内容となっているからだ。こうしたところなども、結果責任の要求の低さに根本的な原因があるのではなかろうか。私は、もう少しきちんと仕事をさせるように、厳格な方針があってもよいとも思っている。わずか数日のボランティアのために(移動に占める比率は大きい)遠くから遠野まで出向いていくが、込めた願いのある部分が棒に振られている現実が払えないと感じる。
 しかし、「効果」論は利益優先型、あるいは効果発現型経済社会を生きてきた会社人間の属性から発するものであり、それ自体が正当性や普遍妥当性を持つものではない。そうならない、しないのがなによりのボランティアの基本であり、原則である。効率を求め、作業の組み立ての厳格さを追求などすると、ボランティアも経済原理の申し子となり、その結果、ボランティアの本質を見失って自壊するに違いない。ボランティア参加者自体もおおいに絞られることになる。自由意思で選択するボランティアに、半強制的なアルバイト(労働)はなじまない。ボランティアは構造的に「安易さ」、中途半端な労働強度であることをそもそもの存立条件として内包し、それによって維持しえているのだ。苦役やストレスなどを伴うなら、もはやボランティアとしての範囲を出るだろう。厳しい規律や運営は、ボランティアの首を絞めこそすれ、増幅にはけっしてつながらない。
 だから、ボランティアに参加する場合には、その効果に期待を持ってはならないし、経済原理に基づいてこそおきる「労働者間の競争」のような競い合う自己表現行動も、ボランティア個人間でする意味がない。当初、遠野まごころネットの佐藤正市氏が「競争をしない」「無理をしない」「やめたいと思ったときはいつでもその人はやめられる」とボランティアの心得を朝の挨拶で述べておられた。ボランティア精神を言いえて妙である。
 経済効果最重点主義という企業基準(社会への貢献は企業にももちろんあるが)に立てば、利益は出ないうえ、「隙間」の作業を寄せ集め、経済性にもかなっていない小規模事業は、企業体としてどこまでもマイナーな需要であり、結果的に捨て置かれる。企業として請け負う仕事であるには、事業が一定のマス(規模・分量)を持ち、時期的にも地域的にも一定程度切れ目なく連続していなければならないが、ボランティア作業に供される仕事は、そのつど、その限りの、小さな規模のものばかりで、バラバラである。経済事業として除外された残りの部分ばかりである。むしろ、推論すれば、ボランティアの作業内容はそもそもの成り立ちから「隙間」の部分だという、存立原因的な運命を負っているのではなかろうか。
 別の観点から述べると、この社会の原理では経済性(効果)が優先されるため、自由放任の社会を野放しにするなら弱者や不遇者などが排除されることとなる。とくにアメリカの新自由主義のもとでは、偶然に不幸・不運を負う人にさえ自己責任論が適用されるというが、それに修正を加えて人としての最低限の生活保障のために救済の手が差し伸べられるのが「福祉」だ。西欧型ほど進化を遂げていない日本だが、それでも曲がりなりに福祉国家の一員だ。そこでは主に税を介した「富の再分配」が行われる。同じように私たち山の会のボランティアも、山に5回登る「富」を持つ者として1回を分割して彼の地に与えるものであり、福祉的行為といえる。本来は国家がその救済策を十全に行うべきであるが、現実は理想からは程遠い。未成熟ゆえの根強い矛盾といってもよいが、自然災害で不運をこうむった人たちに対し、普通に幸福を味わえている人間がボランティアとして厚情を示すという単純な構図で自己を表現して、悪いわけがないと私は思う。
 このように見てくると、ボランティアは経済活動とは一線を画し、利益(効果)を物差しとしてはならないこととなる。捨て置かれる場所、小さな場所、隙間の仕事、半端な作業などなど、採算面で考えればとうてい成り立ちえないこうした小規模な作業・事業が取り残され、ボランティアはそれらを拾い上げていく。だから、日々、作業の場所は変わり、その場所も寺社の境内や参道、村の共有水路、道路、漁港、学校など公的な場所であったかと思うと、一気に個人の田畑や家屋が対象となったりする。鍬とスコップ、箒、一輪車程度の道具をもって、どんな作業にも当たるのである。
 そうだからといって、ボランティア活動の役割の重要さを否定するものではない。とくに被災直後における、混乱し極端に悪化した生活・生存環境に対して最初に腰を上げたのは、ほかでもなくボランティア団体であった。私たちが今も語ってやまない「サンマの回収」もその好例だった。硬直した自治体では対応しえない、地域住民の個別の切実な要望に声を傾けたのだ。そのような作業を、普通の篤志団体からも、利益獲得の目的からも申し出ることが、ありえるだろうか。ボランティア以外には考えられないだろう。また、自治体自身の処理事項として認識し、取り組むだけの余裕も期待しえない時期にあった。さらに、復興が大幅に遅れている被災地の全体的な現況のもとでは、全体の復興に均等にあずからない、一部個人や地域の特殊性に沿った、嗜好ともいえる、緊急性を持たないこのような作業が公的な援助で取り組まれることは期待しえないし、すべきでもない。
 ※激甚被災地で陸の孤島である宮古には被災直後から、電気、食糧が途絶えたという。そのとき最初に食糧を届けたのが、遠野市だったことを聞いた。遠野は災害に対する常日ごろからの意識が高く、市の災害担当の部署にいたある方の熱意で、その備えが常時とられることとなった。その「貯蓄分」を被災地に分与したということだ。その後、「遠野まごころネット」に結実する。なお、遠野は地層の基盤が堅く、被災県にあっても無傷ですんだ。各地区の社会福祉協議会下の小さなボランティア組織も機能しているようだが、現在、遠野は岩手県災害ボランティアセンターの中核的な存在となっている。この遠野にボランティア要員を集中して集め、被災地区に送り出している。
 
3.ボランティアの意味と組織運営の大変さ
 話題をボランティアの主体側に移そう。ボランティア効果論を信じる者は結局、非力なボランティア活動に身を投げ込むことができない。だから、実践を志向するボランティアを自覚する者は、主体的にも、効果という点は切り離して考えなければならない。繰り返すと、ボランティアは個人の生き方、価値観の問題であり、その限りでむしろ経済効果などに逆行する場面を多々帯びる場合があるとの了解が前提的に必要であろう。
 さらに説明を加えよう。ボランティアは精神論ではなく、なんらかでも対象者に実益をもたらすこと(奉仕)をもって成り立つ。役立たない活動はボランティアではありえない。これは、より大きく役立つ活動を志向する方向につながる。「実益」「奉仕」は程度を帯びる以上、大きく役立つ活動が好ましい。「成果」という基準がここに出てくる。
 ボランティアは継続して行ってこそ意味があり、その「持続」ということに関して、結果の評価(成果)がボランティア参加者個人に及ぼす精神的な影響が考慮されるべきである。ボランティアで大きな成果が残せれば、大きな奉仕ができたことを意味するのだから、同時にボランティア本人の満足や達成感も大きいものとなる。逆に言うと、小さな成果しか残せないような活動が続くなら、自由意思で成り立つボランティア参加者に対する精神的な刺激という意味では、魅力や吸引力を欠くといわざるをえない。
 整理しよう。ボランティアの原則――①結果(効果)に束縛されない、②採算を度外視する(非営利的活動面)、③刺激(効果)が必須だ――これらは互いに矛盾する面を持ち、また微妙なバランスで成り立つ。すべてを適度に満たす実際のボランティアの団体としての運用は、とてもむずかしいことが想像できる。
 繰り返すが、ボランティアで生み出す「利益」の受益者はもっぱら被災者である。上で、さまざまな意味でこの「利益」は大きいのが好ましいことを述べた。その意味では、「企業」活動と同様な面を持っているが、重要な違いもある。ボランティア活動者はその利益を金銭的な見返りとしてはいっさい受け取らず、それを自分で評価するにとどまる点だ。また、仕事の成果(利益)は活動の動機づけとなるが、ボランティア活動では、ある場合には、その「利益」は抽象的な面を帯びる。「利益」の評価は個々人で変わる可能性がある。ここに、活動の意味や役割を金銭に代わる「質的な」報酬としてどう保証するか、という困難な問題を組織(運用者)として負うことになる。こうした課題をクリアーしながら、ボランティア参加者数の確保という重要な任務をボランティア組織運用者は担っている。
 私たちは間接的に、つまりボランティア組織(遠野まごころネット)を「介して」、活動に参加している。しかし、意外に簡単ではない。その意味は第一に、「遠野まごころネット」の常時性に対して、僕たちの随意性にあり、その間の大きな開きにある。もちろん役割の相違があり、いわば主従関係に近いものがある。
 また、ボランティア運営者と参加者は、まるで企業経営者と雇用者のように異なる立場にいて、別々の目的を追求しているかのような観念を、私たちはもとから抱く。互いが互いに対して知らぬ顔をしているのが日常の光景だ。運営者も参加者もそうだ。企業責任者(経営者)は利益追求を第一として企業活動を操作し、参加者は個人の生活をかける。同じような構造がボランティアの両者にもある。その集約として、企業の産物(サービスや製品など)があるように、ボランティアの奉仕がある。どちらも社会、人々に役立つ。しかし、その両者は同じではない。企業活動では需要と利益が均衡するのに対し、ボランティアでは需要が圧倒的に大きいし、利益の観念(目的)が先立つことはない。ボランティアでは現実(需要)が先立つが、企業活動では需要を活動で生み出すこともできる。また、企業活動は将来的な富・恵みを求める、前向きの(perspective)ものであるに対して、ボランティアは過去の喪失や現実の否定態を清算する内容が基本となる、後ろ向きの(retrospective)活動である。
 企業活動で末端労働者に、企業の大義として社会的な役割の認識を求めるのはややいきすぎだろうが、ボランティアではその認識なくして個々人の活動自体が成り立ちえないほどの意味を持つ。ボランティアであれば、その総体的な大義の共有はありうることであり、運営者と参加者間の溝を少しは埋めてくれるかもしれない。また、組織には運営・運用の大変さ・困難さが直ちに伴っている。企業のような「自動運動」は、ボランティアでは時の経過とともに困難となる。ボランティアで「将来性がある」というようなことは聞いたことがないだろう。将来、必ず下火になる舞台だ。これらの点も含めて、参加者個々人の認識に求められるものもあろう。
 「最初はカボチャでも作れるように自分で少しずつ畑は耕すから、と断られたけど、再度声をかけ、作業をさせてもらうこととなった。」O隊長の言葉が今も耳に残っている。私たちにおいて3日目の作業現場に着いて、現地に移動するときのことである。仕事をもらってくるその「営業」にかける、草の根的な気持ちが伝わってくる。なかには、ボランティアに未消化感を残した活動も個々人には少なくないはずである。切れ切れの仕事を、1つの組織として昨日‐今日‐明日とつなげながら活動を持続させる大変さを私は想像する。
 同時に、そこまでしてなぜ「善意の押し売り」をするのか、という疑問もわく。考えてみれば、善意ある行為は、その行為を切実に必要とする人々や地域が厳然としてあるからであり、その対象がある限り、それから目をそらさず凝視する姿があるのだと思う。ただ、自然災害という被災であっても、人々は他者からの援助を受けたがらないが、それを放置することは人間として適切ではない。あえて、相手が望まなくても、心を開いてくれるまで、手を差し伸べ続けなければならない。災害は、それを忘れないことが最も大切だという主張もある。忘れぬよう一里塚となり、訴えかけているという気がしてならない。その行為自体の大義を信じて働いているのではないかと感じる。

■第8次ボランティア日誌
●実施まで

 3月からすっかり日がたってしまったと感じていたある日、Fjさんとボランティアの話をする機会があった。Fjさんは、「忘れ物をしてきた」という気持ちを払拭できずにボランティアに参加する、と言われる。だから、忘れ物をしてきた場所に戻る、というのだ。なにを忘れてきたのか、はっきりとは答えられないけれど、なにか大切なものを忘れてきたのだ。そのまま忘れてしまうことができず、そこに戻る決断をする。それほど大切なものなのだろう。ボランティアが個人の気持ちの発露だというのを巧みに表現する、素敵な言葉だ。
 GtBさん、Szさんと、紅一点のTnさんが参加され、5名での参加となった。場所は、今回は地理的に少し近場を模索することになり、宮城県内(とくに南三陸町近辺)を標的として検索を続けた。これまで活動を続けてきたので、ずっと遠野でいいという意見もあったが、移動距離が遠いという難点があるし、ほかの地区の活動に参加し、違った経験をすることにも意味があるのではないかと考えて、別の地区も対象として検索した。
 私たちのボランティアには条件があった。①瓦礫撤去を内容とする活動であること、②宿泊に公的な施設が利用できるか、幕営(キャンプ)場所があること。①は、災害支援ボランティアに行く場合の高速道路の無料通行措置が9月まで延長されたが、ボランティア内容が「瓦礫撤去」に限定されたのに伴う条件だ。検討の結果、宮城のボランティアセンター(VC)では、①に該当する活動が見いだせず、また②に適合する宿泊所もなかったため、最終的に「遠野」に回帰することとした。瓦礫撤去を証明する文書を「まごころネット」で発行してもらい、我孫子市役所に出向いて「災害派遣等従事車両証明書」を発券してもらった。②は、活動を続けるには経費を小さく抑える必要があり、「作業後の安息」のためにも、他のグループとの雑居は避けて、独立した空間は確保しておきたかった。
 宿泊所のことはFjさんの努力により、幸い、遠野市長が責任者となっている災害対策本部を窓口として、「遠野まごころネット」と同じ所在地、大工町の自治会館が借りられるように便宜がはかられた。
●7月21日
 午前6時、我孫子駅前北口ロータリーに集合し、私の車(7人乗り)に荷物を積み込み、出発した。差し入れてくださったお菓子や果物なども積み込んで、車内は満杯となった。常磐道‐磐越道‐東北道とひた走り、花巻から右折して東和で高速道を降りたあと、いつもの「JRフォルクローロ東和」で昼食をとった。その後は一般道を走り、2時半ごろ遠野に着いた。遠野のSzKさんにも到着を知らせた。
 まず宿泊場所に向かい、地区長に連絡して鍵を受け取り、使用規定などの説明を受けた。けっこう自由に使わせてもらえ、広い会館であり使い勝手はよさそうだ。次いで「ワークマン」、スーパーマーケット「トピア」で装備、食料の買い出しをすませたあと、4時半からと時刻を告げられた「まごころネット」に再度出向く。ボランティア作業終了後のミーティングへの出席を求められたが、お断りした。
 会館に戻り、買い出した食材で調理したあと、杯を傾けながら翌日からの活動の打ち合わせを丹念に行った。
●7月22日
 今回も活動日の行動パターンは変わらず、次の繰り返しとなった。
    6時 起床---朝食
    7時10分 出発(車で)---コンビニで昼食、飲み物を購入
    7時30分 「まごころネット」前庭に集合---朝礼、ラジオ体操
    8時 バスで活動場所に向けて出発
    9時15分ごろ 到着---指示のもと9時半から活動を開始
     ・・・・以降は、30分の作業・10分休みを繰り返す
    12~13時 昼食
    13時~15時 午後の活動
    15時すぎ 現地出発---16時半ごろ「まごころネット」に着き、解散
    17時ごろ スーパーマーケットAQUTE(アクティー)で食材・飲み物を購入
    18時半ごろ~ 夕食
    22時半~23時 就寝
 朝食にサンドイッチを食べ、活動に伴う必携備品(タオル、雨具、手袋、長靴など)を携えて会館を出たあと、車でコンビニに寄る。弁当とお茶などを買って、「まごころネット」に向かう。簡単な朝礼(といっても行き先の振り分け)と、岩手弁で「イツヌーサンスー」とスピーカーから流れる号令に合わせてラジオ体操がある。合計65人ほどの人数だという。以前のようなこまごまとした注意はなかったが、昨年5月のころと比べると、意気軒昂というのか、戦闘モードというのか、「これからやるぞ!」という気合がみんなにみなぎっていたのと相当に違っていた。言ってしまえば、「事務的な参加」というふうにとれた。
 8時に出発となった。僕たちの行き先は、事務局で決められていた釜石市鵜住居(うのすまい)地区だ。百数回目の参加という神奈川大学の学生約10人が一緒となった。メンバーは合わせてバス1台分と車で乗りつけた、計30人程度だ。若者が多いが、年配者もけっこういた。
 O隊長から、隊長とはいえ、全員が同じ立場だと思っていること、被災して跡形を失った常楽寺の裏山の墓地への墓参者を考慮した、参道周辺の被災地の草取り、整地と瓦礫撤去が作業の内容であることと説明がなされた。参道脇の周辺の集落跡は大きな瓦礫は除去されていたが、草を取り除くとおびただしい瓦礫が散乱し、荒廃ぶりを物語っていた。むき出しの大小の瓦礫と同時に、コンクリートブロックや家の土台石の類が積み重なるように出てきた。鍬やスコップも加え、ガラス、食器、瀬戸物などのさまざまな大小の瓦礫類を目につく限りできるだけ撤去した。金属類も土に埋もれた状態で多数掘り出された。
 昼食のとき、地区のおばさんが来たので、常楽寺跡について聞いてみた。被災前には立派な伽藍があったそうだ。墓地の広さと今なお残るそのたたずまいが名刹であることを物語っているようだ。午後も作業が続く。いつものことだが、一度作業に入ってしまうと、指示された作業内容や範囲からしだいに逸脱していき、作業がより大がかりとなる。鍬を持つ手に力が入り、しだいに地中深くに至る。瓦礫の凸部が壊されて、平坦にならされていく。
 3時前に作業終了が告げられた。作業前にOさんから説明があったその趣旨を、終わった景色を見ながら反芻した。少しの場所だったが、きれいになった分だけ、私たちの気持ちも晴れやかになった、と感じた。
 4時半に、「まごころネット」に戻る。この日は、5時半から早池峰山岳会のSzKさん、会長のEbさんと一献傾ける約束となっていた。ともかく会館に戻ったが、銭湯で汗を流すだけの時間はなく、衣類だけ着替えて、SzKさんが予約してくれた「たぬき屋」(3月もここだった)に向かう。懐かしい再会だ。「乾杯!」の大きな声が店内に響く。翌日は定休日なので、心ゆくまで酌み交わす。
●7月23日
 月曜日は「まごころネット」の定休日だ。それを見込んで、Tnさんは花巻を巡る個人的な列車の旅を計画してこられた。FjさんとGtさんは、「まごころネット」がサービスする遠野の市内観光ツアーに出る。Szさんも、盛岡まで、と言って出られた。ズボラな私は、とくに外出を希望せず、会館に1人で残った。めいめいがこの日は自由に過ごし、7時には全員が戻った。
●7月24日
 9時半前、釜石市箱崎小学校跡に着いた。この日は漁港の沿岸の清掃が作業内容だ。陸前高田の地盤低下が最も著しくて、平均1メートル近いといわれていたが、この釜石市箱崎漁港は1メートル以上の地盤沈下だという。海浜部ではより沈下の程度が増しており、港のコンクリートの護岸部はいっそうそうなのだろうと推測した。そのため、高潮の日にはいまなおおびただしい海の漂流物が護岸面に打ち上げられて、網の作業の障害になる。釜石市は主産業の製鉄業(新日鉄釜石)も廃業となり、釜石市の再興をかけ、漁業の復活を支援する一環としての活動だとの説明があった。いいことを言うな、と思って聞いた。浜の漁民の網仕事が少しでもしやすいように、陸上の藻屑(漂流物)拾いをし、あたりを清掃した。
 ボランティアとて、支援は支援を必要としている人、地区に均等に、平等に行われなければならないのではないか、と私はずっと考えてきた。ところが、時間が経過するにつれて、特定個人や特定地区に活動がかたよっていることが気になっていた。ボランティアは、当面の人、当面の地区を重点とし、関係のできた人たち、支援するだけの問題や困難度を抱え、支援を受けることを承諾した人に対して、集中的に行われる傾向が避けられないようだ。一気に状態が改善することはありえないので、個々の作業を同じ地区の同じ個人に対して重ねて行っていくことともなる。いまだに疑問に思うが、わずかにボランティアの作業範囲だけをとっても、もう格差を生じている。
 
 昼食のとき、網を干しているブルーシートを猟師さんのご厚意でお借りした。西側にそそり立つ大きな桐の木が日陰を作ってくれ、浜風が体を撫でた。梅雨は明けていたが、8月の猛暑までには間があった。東北地方の季節の気持ちよさを、みんなで体感した。
 海の藻屑の正体は海藻類だったが、混じって木屑があった。日焼けした老若の猟師さんたちが10人程度、浜のコンクリートの上で網を広げて、繕いのような仕事をしていた。竹箒、スコップなどで残すところなくきれいに清掃した。
 後から猟師さん2人から聞いた。作業している網は定置網で、毎日、湾から少し出た海域で設置と引き揚げを繰り返すという。網にかかった藻などを取り除き、傷んでいる箇所を繕っていた。たまに話し声や歌声が聞こえてきた。途中にエンジン音を鳴らして帰港する漁船もあった。
 定刻に遠野に戻った。そして作業後の安息が待っていた。脱水ぎみのせいか、ホヤと焼き鳥でビールが進んだ。仕上げは、Tnさんの好意によるジンギスカン鍋と盛岡冷麺だった。
●7月25日
 第8次の私たちの活動も最終日となった。「まごころネット」前庭に並ぶ陣容にも、たいした変化はなさそうな気がした。この日にも、愛用のGarivierをかぶるSさんの顔があった。だが、日々、新・旧ですれ違いながら、メンバーが激しく替わっていくに違いない。
 ほぼ同じ9時半、箱崎小学校跡地に着いた。この日の作業は、O隊長さんが農家から「もらってきた」という畑地の整地だ。この家は、箱崎小学校跡から少し奥の山手に進んだところにあり、津波がこの家を境として到達し、最後に破壊したところだ。昨年8月にここに来たときは、海側の一角の壁と窓が海水で破られた跡が生々しく、修理が行われていた。今はすっかり直されて、被災の面影はなかった。言うまでもなく、この家から湾側は、津波によって家屋の名残をとどめず一掃されてしまっている。
 この家の隣に位置する畑地が今回の活動場所となった。わずか50坪程度の、広めの「家庭菜園」という程度の簡素なものだ。作業に入ってわかったが、津波が押し上げた海水が大地を締める力の大きさは、「伊達男」たちの力を合わせてもかなうものではなかった。このあたり一帯は、家屋由来の大型の瓦礫を一度は一掃するために重機が入れられたと聞いたが、それにしてもずいぶん固い土壌だった。草を引き、表面の瓦礫を一度取り除き、耕作が始まった。大汗が体中を流れる。狭い面積に多数の男女があふれかえった。途中で雨模様となったが、中止には至らなかった。
 取り除いても取り除いても、瓦礫は尽きなかった。まだまだ地中に埋もれているはずだが、これでこの農家の方にとりあえず差し出すことができる。まだ農家の人の目では不十分だろうが、カボチャくらいは育つだろう。私たちにも、それくらいの喜びである。
●7月26日
 早朝起き出してカーテンを開けたところ、会館の外から子どもたちが館内の私たちをのぞき込んでいた。夏休みに入り、地区のラジオ体操が始まったのだ。私たちが車の駐車を願い出ている広いエリアがその場所だった。外に出て、許可を得てその模様を撮影させてもらった。子どもたちに若い父親、母親が混じっていた。
 その日は、実施前から計画していたとおり、宮城県登米市のボランティアセンターに立ち寄って、活動状況と宿泊所を自分たちの目で確かめることとなった。区長さんに鍵を返し、遠野を後にした。帰還日になって晴れ上がったのは幸運だった。
 遠野から陸前高田に出、再度、「サンマの回収」のあった上長部に寄った。人の姿が見えなかったが、運動公園には植林もなされていた。やはり、往時とは様相が一変していた。そこから海岸に沿って南進する。交番で道を尋ね、RQ(「レスキュー」の意味)小泉ボランティアセンター(VC)を訪ねた。廃校となった小学校に事務局があり、留守役の男性が対応してくれた。事情を少し聞くに、ボランティア活動の危機を示すほどに縮小しつつある事態を私は感じた。生気のないVCは、過疎化した田舎町の、客がもはや来ない一商店かなにかのように思われた。活動内容も、やはり私たちが希望した「ハード」のものではなかった。
 高速道に乗り上げ、東北道に合流する手前の仙台空港に続く広大な農地に、今も残る津波による被害区域がはっきり見て取れた。その一帯だけが、他の緑色の田畑から区画するかのように、荒廃した茶褐色に沈んでいた。東北道に乗ったあと、順調に走り続けた。
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 こうして3日のボランティアが終わった。仲間のみなさん、体を使うのが好きなことがよくわかった。それぞれに個性はあるが、Gtさんは力持ちで、その筆頭格だろう。
 26日、三陸海岸に沿って帰路をたどりながら、荒涼とした中にも新たな芽が出始めた大地を眺めた。

 みなさん、お疲れさま、そしてお世話さまでした。(2012/8/23 T・K)

「遠野まごころネット」前のホワイトボード。
活動先(支援場所)と責任者(隊長)名が記され、そこに事前に登録した団体名が書かれる。
2段目に本会の名がある。
朝礼の風景。
おおよその説明が終わったあとは、活動先ごとに整列する。
個人参加者は、希望でそれぞれの位置に並ぶ。
常楽寺跡前の駐車場。
作業場所。
草を引き瓦礫を除去し、普通の平らな土地に直していく。
常楽寺参道脇にあった住居跡地。
ガタガタの跡地で、その凹凸は大きな瓦礫が地中に残っていることを示す。
この土地を掘り返して、瓦礫や石を大小関係なく回収した。
同じ住居跡地の作業風景。
ところどころにこんもりと盛り上がった小山があった。
それにさらに鍬を入れ、崩して平らとしていく。
常楽寺跡地と高台の墓地(遠景)。
右側の建物は、新たに建造された鐘楼。
さすがに釣鐘は失われなかったようで、鐘楼に釣り下げられていた。
休憩中の風景。
背を見せる若者たちは神奈川大学の学生さん。
釜石市内の一角。
バスから見る市街地にも、変化が見られる。
語弊はあるが、内戦の続くシリアの市街地に似た、混乱と無秩序の極みにあったと思われたそこに、静穏さと同時に、整然とした市街が少しずつだが戻っている。
損壊した建物は再建と取り壊しのどちらかが徹底され、損壊したままの建物はもうない。
24日の朝のまごころネット前庭。
一昨日よりも多い。
釜石市箱崎漁港でO隊長から作業の説明を受ける。
この一帯のゴミの除去にかかる。
一番手前の麦藁帽子の男性は最年長のSzさん。
箱崎漁港と港のゴミ。
この漁港を含めて、三陸の海岸には入江がたくさんあり、絶好の漁港を提供する。
津波さえなければ、漁港の条件として申し分はない。
打ち上げられた海の藻屑を回収するボランティア。
打ち上げられた海の藻屑。
多くが海藻だが、それにいろいろな人工物や木屑などが絡まっている。
すっかりきれいになった護岸上の平面。
この上に網を広げて仕事が行われる。
どちらを見てもゴミはなくなっている。
これだけの広さからゴミを除去した。
気分は爽快だった。
網の一時保管をするブルーシート。
オレンジ色の物体は、ブイ。
この2人に逆に缶ジュースをもらってしまい、恐縮至極!
25日の作業風景。
かなり作業が進んだあとの一枚だが、この畑地がなんと固かったことか。
手前に並べた石は、畑から掘り出されたものだ。
力が入る。
毎日お世話になったコンビニ弁当(ローソンのおすすめ幕の内、398円)。
作業が終わり、きれいになった畑地一枚。
左の家が持ち主だが、この家の海(向こう)側の一角が破壊された。
作業後のおらが衆。
われながら、くたびれた顔をしている。
右側の、ずっと後ろの白っぽい建物が小学校跡。
自治会館内の様子。26日朝の食事。
外には子どもたちが集合し始めていた。
中央向こうの大工町自治会館に集まってラジオ体操に励む人たち。
元気印のおらが衆。
会館には、お世話になりました。
陸前高田の一本松(水門の左手)付近。
陸前高田の復興作業現場。
ここにはかつて家屋由来の大型漂流物や、自動車のスクラップが山と積まれていた。
遠くに見える橋もなく、道も左右に通じていなかった。それが、瓦礫の山が取り除かれ、平坦地に戻されていた。市街地はこうして、少しずつ整地が進んでいる。
だが、市街地に住居は再建ができない。
住居以外でなにをそこに持ってこようとしているのだろうか。
市街再興の青写真を見てみたい。
街を再建したあとも、人口の呼び戻しは成るのだろうか。
新たに造成された陸前高田市上長部のグラウンド。
昨年5月初旬の、同じ上長部の現グラウンドができたあたりの光景。
このあたりは、学校もあったようだが、住居が立ち並んでいたと当時の家屋の土台跡から推測する。
被災で荒廃しきった状態がここまで通常に戻された。
しかし、ここへ子どもたちの姿が再び戻ってくるのだろうか。

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