岩登り訓練のおさらい

岩登り訓練の目的と意義



2015年7月 我孫子山の会

  以下では、①岩登り訓練の意義(目的)と、②岩登りの核心ともいうべき「ロープ(ザイル)ワーク(ロープ操作)」の技術を基本からおさらいしておきます。
 訓練では、岩場の登攀クライミングclimbing)を「トップロープ」(和製語)という方式で何度も練習し、また「懸垂下降」(ドイツ語の「アップザイレンAbseilen」の用語も使われます)とロワーダウン(和製語)を実施します。レベルが上がっていくと、本番さながらにトップロープによる確保を解除した上で、上部へ上部へと確保点(ランニングビレー)を取りながらロープを伸ばす登攀訓練も行います。三ツ峠などでは、本番に模して何ピッチもさらに上へと伸ばす訓練が行えます。

 岩登り訓練の目的は、主に2つに区分けされます。第一は、訓練しなければ登れない困難な山やルートを登るために必要な技術や要領の習得、第二は、訓練を行うことが通常の登山においても大きく益するという前提で、多少でも岩場の登下降の経験をしておくことによって登山の安全をより大きく確保するという点です。前者は谷川岳の沢や北岳バットレスの登攀など、困難なルートを登ったり、ある程度標高の高い雪山(厳冬期や残雪期)を登る際に必要な技術や経験を習得する、特化した目的があります。
  ここでは、1つ目の目的からではなく、第二の目的に沿って岩登りの意義や心得をひと通り整理しておきます。積極的な目的とはいえませんが、「保険」としてわきまえておけば、より安全に登山を続けていくことに間違いなく役立つものです。また、登山には予想外の事態がしばしば伴うものですが、いざといったそのような場面に直面したとき、あわてずに対処することができます。初心者を伴って雪山や、ある程度レベルの高い山に登るときなど、ぜひ備えておきたい実践的な心得です。クライミング゙を経験している人は、そうでない人に比べて、山の歩き方がきれいで、見ていて安心できるスマートさがあります。
 なお、ここで掲げる資料は、本会で実施した岩登りを振り返ってまとめた粗稿を基に再構成しました。


.哀しき人のサガ(性)――雪山へのいざない
 それまで漠然と無雪期にだけ低山の山登りをしてきて、ふとある時点で、3000m級の雪稜、残雪期であれば雪深い上越の峰に立ちたいという欲求がわき起こってくることがあります。ある日の低山で遠くに目にした雪稜が脳裡に焼きついて、それが意識を目覚めさせることもあるでしょうし、テレビで見た高所登山が感動~刺激をもたらす場合もあるでしょう。2000~3000mの雪をかぶった峰々を目ざすかどうかは、個々人の内面にずっと沈潜してきた心的因子であって、突如目覚めた冒険心や、いまだ見ぬ世界への興味しだいです。そのような、心に生じた御しがたい気持ちを動機と一括しますと、その大きさが行動を半ば規定します。動機が小さければ行動にまで結びつかないかもしれませんが、大きかったときは行動を起こさずにいられないところまで気持ちが高揚することでしょう。
 しかし、事が前進する契機は、そういった個人の内面の因子の問題ばかりではありません。その人の社会的な、環境的な状況も大切です。例えば、その人に山好きの友人・知人がいるということが、彼・彼女の進む道を切り開いてくれることもまれではないでしょう。山ばかりではなく、将棋をおじいさんやお父さんに習って強くなったという人がいますが、山も、導いてくれた先輩や友人がいたという話はしばしば聞きます
 話がやや逸れますが、職業や社会生活における活動も含めて、山以外からの束縛があまり強くない状態にあることが、その人にとって重要な環境条件となることがあります。例えば会社生活上、職業上の強い束縛を受けない環境にいることがそうです。また、現実生活において競争に熱心になれなかった者が見いだす代償が、しばしば「自虐的な」冒険登山だったりすることが社会心理的な機序から推測されますが、登攀行がそのような意味をもつ青年期はあるもののようです。長谷川恒男らにも、そのような動機があったことが書かれています(佐瀬稔『虚空の登攀者』、中公文庫)。
 山登りは刺激-受容(インプット-アウトプット)という2つの自他の軸(要素)が関与して、個人をさらなる高みへ、高みへと誘導していく、弁証法*的な相互運動系ということができます。単純な感覚からしても、厳しい身体的な苦しさを克服したとき、山の持つ景観や空気、あるいは山頂の持つ厳かさといった刺激から、登山者は感動や満足感という見返りを得ます。しかし、同じことを繰り返し行っても、繰り返すごとに感動や満足感は小さくなっていきます。感動には閾値(感動を起こさせる最小の刺激度)というものがあって、感動による衝撃や満足をを繰り返し得ようとするなら、経験に伴って閾値が高くなっていくため、山の高さや登山のレベルを上げなければなりません。やがて、高所という目標が意識を占領し始めます。そして、もっと根性を入れたハードな山登りをしたい、あるいはせめて厳冬期のアルプス級の山に登りたい、などといった目的意識や願望、意欲(あえていえば「冒険精神」)が自身の中に芽生えます。そこに競争などの因子が芽を出した場合には、さらにパイオニア的な山や海外の高峰が視野に入ってくるかもしれません。
 
*弁証法:ある前提Aに対して、Aに基づきながらAでない、より高いBを生じ、さらにBに基づきながらBでないA’を生じ・・・、こうしてB’、A”、B"---と相互が否定し合いながら、螺旋的により高い段階に昇っていくという理論。この理論の代表者は、ドイツの哲学者、ヘーゲルHegel。

 そして一度目にしたが最後、それまで経験したことのないような大きな感動と、それをもたらしてくれた山の雄大な景観に圧倒され、そのとりこになります。しかし一方、一度経験をするとは、その同じ光景に対して再びは初心には戻れないということを意味します。そして、次なる高み、さらに高みを、と刺激・感動を求める連鎖が続くこととなります。最後は「エベレスト」にまでつながる必然の経路です。それをどのへんで止めるかはその人しだいですが、同時に、せっかくのそういった感動的な山登りがあることを知らないで、延々ハイキングにばかりうつつを抜かすというのも、個人の勝手とはいえ、もったいない話です。でも、私たちの年代になれば、そんな危険域にまで身を持ち上げることはもう無理でしょうから、自分で欲する高みをそのまま目ざしても、危険域にまでなかなか到達はできません。思うままにやればいいんですね。
 でも、そのままでは、せっかく山を知ったのですから、ほんとうにもったいない。ここで確認しておきますと、程度はともかく、このような多少とも冒険性のある山行を、実践で体験してもらうことを本会は山岳会の役割の1つとして課してきました。最近の本会では、雪山へ行こうとする人は少なくなり、さびしい限りなのですが、せっかく本会の門をたたいてくれた以上、雪山はぜひ経験してほしいと思って案内してきました。アルプス級の山だって無雪期の通常ルートの山行だったら、比較的簡単に、本会などに入会しなくとも登ることができます。意識しようがしまいが、山岳会に入ったのなら、特徴ある、または得意な領域に参加してこそ、その甲斐があったというべきなのではないかと私は思っています。それが本会の会員としての1つの到達点だといえるでしょう。

 「岩登り」をテーマとしてなぜこんなことを申し上げるのかといいますと、岩登りは高所登山や冒険を含む登山の象徴だからです。また、少しでも自分に鞭打って「がんばってみよう」という端的な意思表示だと思うからです。年をとって、40歳代や50歳代の前半、元気だったときのようにはいかないことはわかっているけど、往時の山登りがなんだったかが自分にはわかっていますし、また個人の好みだけでやってきた激しい山登りや岩登りでもなく、仲間たちに対して、あるいは山岳会の者の資格においても、いささかの気概や意味は持っていたことを認識しています。口幅ったいようですが、少しはがんばってみよう、自分のためにも、そして仲間のためにも、という気持ちがこうした登山に踏み切らせる引き金になっていたような気もします。本会の山行のレベルは、指導者のいない人的な環境の中で、もっぱら自前で切り開き、構築してきたものです。
 岩登りはなんのためにするのか、岩登りをしたらどのようなことが身につくのか、岩登りをしたらどれくらいいい山登りができるのか、岩登りとひと口にいうがどんな内容がこれに入ってくるのか、逆に岩登りにはどのような気構えが必要なのか、岩登りに伴ってどのようなことを、どれくらいしなければならないのか、岩登り自体の危険はないのか、装備はなんとなんなのか・・・・・・。しかし、結局はやってみないとわからないし、真の意味でやった人だけが得をするのだということだけは変わらないと今も思っています。雪のある北岳や穂高岳の荘厳な様は、まさしく別世界です。雪山に立つための技術と岩登りの技術とはかなりの部分がオーバーラップしています。


危険との遭遇――リーダーとしての対処
次に、いろいろな具体的な状況を設定して、質問形式で考えていきましょう。
 山行中、または山行前に、次のようなそれぞれの状況に直面したとき、あるいは想像の中だけでも懸念・不安をいだいたようなとき、あなたはそこからどのようにそうした状況における問題点をくみ取り、解決していくこととなるでしょうか。リーダーとなった方は、実際にそれぞれの場面での危険と、さらにそこで見えてはいないけれども、それから先に出現するかもしれない危険を推察し、山行を成し遂げるべく隊列(パーティー)を導くとともに、最終的に全員を無事下山させる務めがあります。解答例をその下に示しましたので、参考にして考えてみてください。
 [具体例]
 山行中に、予想外の事態に出くわしました。山行前の週の集中豪雨の影響で、斜面のトラバースにかかるある登山道上で、先が30メートルほど崩れている箇所に出ました。手探りで行ったら行けないことはない気がするけど、岩石がむき出しになり、地盤はゆるみ、登山者の通過で二次崩壊を触発する可能性もありそうだし、崩れた斜面の通過の際に滑りなどしたら、その下の傾斜の急な様子からは非常に危険な気がします。おまけに、こんなところを苦手としているメンバーがパーティー内にいます。
【質問事項】
1) 
そのような場に至ったとき、隊員はまず何をしなければならないでしょうか。もしあなたがリーダーや先頭を務めていた場合、あなたはその状況に直面して、どのような行動をとらなければならないでしょうか。
2) 引き返す決断をするでしょうか、それともそこを通過しようと決断するでしょうか。どのような条件をもって、そのどちらを選択するべきでしょうか。いくつかある条件をすべて答えてください。また、それらの条件についてどのように考えるべきかを詳しく説明してください。
3 このような場所に遭遇する可能性は登山中にあるわけですが、このようなことを考えると、山行のパーティーにはどのような技術や装備が必要といえるでしょうか。山域や季節、または山面の特徴からどのように考えておくべきでしょうか。山域によっては、造山・成山史からも山の特徴がほぼ推測できますし、岩稜帯が出てくることも視野に入ってきます。
4) その状況のうち、どの部分が、どのように、どの程度、どの登山者に危険なのでしょうか。危険はどのようにして見分けるのでしょうか。
5) たまたまその場所が、その登山の経路上の半分より先に進んだ地点であり、エスケープルート(逃げ道)もなく、もし引き返すようなことになったら、時間切れ遭難をおこすことが必至だった場合、どのように決断し、どのような行動を起こしますか。ものごとの優先度(トリアージtriage)も考えなければなりません。何と何をしなければならないでしょうか。
6) 最後の質問です。そこを通過する決断をした場合、どのような通過方法がありますか。それぞれについて、具体的に説明してください。

【解答例】
1)
①危険を危険として認識することが、その場ですべき第一の行為です。危険を認識しない場合は、そのまま突き進んでいくこととなり、危険をそのまま現実化させてしまう、それこそ危険性があります。
 危険を認識したら、②まずその前で停止・静止し、③さらに隊列(パーティー)全体で危険の認識を共有します。④そのためには、声を発して危険地帯に直面したことを他の隊員に伝えます。⑤場合によれば、静止している地帯も地崩れを誘発するかもしれないので、安全地帯まで移動することも必要です。
 ⑥先頭者が危険に気づかないときは、だれでも後続にいて気がついた者が指摘します。
 ⑦危険は、全員にとって状況として危険である場合(全体的危険)と、ある隊員にとって危険である場合(個別的危険)とがあります。後者は、経験のあるなしや得手不得手などが問題となる場合です。1人でもそこを通過するのに危険だと思われる人がいるときは、パーティーとして手を抜いてはいけません。
 本来、以上の観察と対応は先頭者が瞬時に行わなければなりません。そして次にすべきことは、⑧その危険に対してパーティーとしてどうするか、という判断や選択です。これは先頭者とリーダー、もしくは経験者が相談して行い、その結果を他のメンバーに伝達して、事態の理解を得るようにします。技術が適用されるのはそこから先ですが、ここに至るまでの判断のあり方でおおかたの登山の力量が推測されるという重要な部分です。まず「危険を危険として認識する」ということを銘記してください。
2) 引き返すか、そこを通過するかという判断は、次の要素によります。
 ①状況のもつ深刻さ(ざっと見て、行けそうかどうか、どれくらい危険か)、②その危険地帯以外に取れそうなルートはないか、③引き返すのに要する時間、④登攀装備類を持っているか、それを使う技術があるか、⑤全員のコンディションと意気。
 ①の状況の持つ深刻さとは、例えば今後も新たな崩壊が起こりそうな気配があるかどうか、崩壊地の下部が切れ落ちていたりしていないか、崩壊地の傾斜や岩の状態(どこかに岩が引っかかっていたりしないか)、樹木が周辺にあるかどうかなどを手がかりに判断します。「行けそうか」どうか、という問題です。崩壊地に樹木が残っているときは、崩壊が一気に起こりきっていないし、通過の際に手がかりを与えてくれるので、通過に有利な判断材料です。
 ②は崩壊しているのが登山道周辺だけだった場合、その地帯以外に、とくに上部(下部は危険)を眺めてみましょう。登山道周辺は樹木が切り払われていますが、その箇所以外は樹木があって、崩壊を免れていて、しかもその箇所にルートをつくるとしたとき、傾斜や山面の状態が通過に耐えられるかどうかから判断します。このルート取りを沢登り用語で「高巻き」と呼んでいますが、沢登りでは沢の悪場(沢の両岸が切り立っている)を避けての高巻きであることがほとんどで、高巻き自体もかなりの危険をはらみます。このような状態だったときは、通常の登山(技術・経験)では、ルートとして選択をするのには無理があります。
 ③ですが、遭遇した場所が登山の行程のどこであるかによって、引き返すべきかどうかの判断材料になるということです。引き返して別のルートから登山が続行できるなら、その選択は比較的容易にできますし、それが最良の選択肢になるでしょう。しかし、長い長い登山行程のほぼ真ん中であって、そこから引き返すにも、先に進むにも相当なエネルギーが必要な地点であったような場合には、簡単な問題ではありません。④は、ここで扱うテーマです。
 装備は重いので、そう十分には持てないのが普通ですが、不十分だったとしても、この場所を通過するような場合には、なにより力強い味方になってくれます。そのためには、登山を行う前に、登山で予想される危険や、明らかな危険への対処というのではなく、「保険」という意味を与えて装備を携行するように、意識を保持すべきだと思います。
 本会では、日帰りの山行の場合も、ツェルトを携帯するようにしていますが、こうしたことなどがそうです。8ミリ×20~30メートルの補助ロープをザックの底に忍び込ませておくとか、非常食を持つなどのことも類似のことです。もし残雪期の登山で北アルプスを目ざすような場合は、迷わず30メートル以上のロープを基準装備に加えましょう。
 以前、5月初旬の奥穂高岳に登る際に、白(しら)出(だし)ノコルの上部の通過にザイル(ロープ)が役立ちました。あのとき、ザイルを使っていたパーティーのほうが圧倒的に少ない状況で、危険な登山ぶりを目の当たりにした気がしました。よくもこんな人が、と思われるような登山者がそこに固定したロープの使用を依頼してきたことがありました。
 ⑤では、危険地帯を前に、隊員たちの気概というのか意気軒昂ぶり、および疲れが極度に達していないことなどを確認しておく必要があります。恐怖感など心の状態も重要です。
3) 上で述べましたように、ロープ操作の技術とそれを適用する技術です。山面の崩壊は残雪期と梅雨、豪雨の集中する初~中秋におこりやすい現象です。今回は土砂の崩壊を扱っていますが、残雪期には雪上のトラバースは危険で、雪崩をおこす可能性があることなども含めて恐怖感を起こさせます。滑落が雪の斜面上のこととなれば、雪上停止の技術や、まずは雪上の歩行技術が先に必要です。しかも、技術や経験がないとこわがり、そのために腰が引け、あるいはアイゼン歩行が破綻して(こわがって山側に体勢が傾くため、アイゼンの爪〔ツァッケ〕が雪面を確実にとらえられなくなって)、滑落を引き起こします。
4) 危険は、①その部分だけで成り立つ危険と、②一度危険を現実化させたときに波及または連鎖・合併する危険とがあります。例えば、高速道路で自動車衝突事故を起こしたとき、単純衝突事故だけでなく、ほかの通行車を巻き込むおそれがあります。
 登山の場合、もしザイルで互いを結び合っていて、誰かが滑り落ちたとき、ほかの隊員が1人の落下のショックに耐えられなかったら、必然的に全員が巻き添えになります。ただ、ここでいいたいのは、ある部分を滑り落ちた(その危険がある)場合に、落ちた下の状況がどうなっているか、ということの観察がつねに重要だという点です。多少は滑り落ちても、下は緩やかに傾斜した安全地帯(岩などが出っ張ってなどいない草地のような場所)だったときは、通過しようとしている箇所が局所的には危険だったとしても、バックアップ(ザイルで確保を取るようなこと)は取らないで、そのまま通過することを判断することがよくあります。他方、滑る危険は小さい傾斜や状況だけれども、もしそこでスリップや転倒を起こしたとき、その下部がスパッと切れ落ちていたり、ギザギザの岩場があったりしたときは、上部の通過に気をつかわなければなりません。
 「もしここで滑ったらどうなるか」ということを想定し、その場合の危険を十分考慮した対応をとることが必要になってきます。上でふれた白出ノコルの上の残雪期の斜面の下には、大きな鉄製の網を張ってありますが、あそこをフリー(バックアップが取られていない状態のこと)で下っているときに滑り、網も越えて滑落し、大けがをした(けがですんだんですね!)ということを聞きました。
 私たちは、ある隊員がそこをフリーで下りかけたので、「静止」を求め、ザイルを適用しました。そのような場所は枚挙にいとまがありません。
残雪期の富士山の危険(参考:春山の特徴と危険、HP中の「資料館」)
 ついでに、危険が一日で変わっていく例として、富士山のことを書いておきましょう。
 4~5月の富士山で、毎年滑落による死亡事故が数件おこっています。富士山の斜面(富士吉田側と御殿場側など南や東に面している斜面)は、春先になると強い日差しを受けて表面が解けます。その上に新雪が降らず、1週間晴天が続いた場合、風の影響もありますが(風のない日のほうが雪が締まる)、雪の密度は3~5倍以上になります。それだけ硬い雪質になり、さらに晴天が続くなら、青氷(ブルーアイス)状態になっていきます。この状態の富士山はきわめて危険です。富士山での滑落はこのような状態でおこっています。
 いったん滑り始め、停止に失敗したときどうなるか、想像できますか。体は決まって頭が下になって落下します(アイゼンが摩擦係数を上げるためです)。滑らかなように思えても、富士山の斜面はデコボコしており、ときには山小屋があったり、岩が露出していたり、大崩れした薙ぎがあったりします。しかも、この時季の富士山で最も危ないのは早朝で、最も安全なのは午後の遅い時間帯なのです。昼間に解けた水分たっぷりの雪は、夜中の時間をかけて、ガチガチに凍ります。最大に氷化した状態は、日の出前なのです。とくに、その時間に下り始めるのは危険きわまりありません。もちろん、富士山をこの時季に登るという気持ちのある人は、アイゼンとピッケルの確実な使い方をマスターしておかなければなりません。
 また、天候によって雪を読む眼も必須です。上で述べた1週間続いた晴天のあと1日、太平洋沿いに低気圧が進んできて、我孫子で雨を降らせたとしましょう。はたしてその雨が富士山では、その何合目で雪になっているかを推測しなければなりません。多雪(新雪)だったときは雪崩の可能性がありますが、少ない雪だったときは、富士山の斜面はどのようになっているでしょうか。雪面の構造を横に切って見ると、下の青氷の層があり、その上に新雪が載っている状態です。新雪が薄かったときは、すぐ下の青氷が隠されています。それを引っかいて除いた下は、とても危険な、ゾッとする状況だということが想像できるかと思います。滑落した場合、薄雪は取り除かれやすいので、ほとんど青氷の上を滑ることとなります。
5) 引き返しても時間がかかり、かといってそこを通過するにも手間がかかるような場合、あせって事故を起こすことが最も避けなければならない事態だということは述べるまでもありません。この場合、パーティーの安全を第一とした策を正しくとることに尽きます。そして、隊員の気持ちを刺激するような言動を避け、場合によったら、山中での一夜を覚悟しなければならないでしょうし、その危険地帯からの脱出に自信が持てるなら、時間はかけてもそこを通過し、予定の時間を大幅に超過することは覚悟で下山を決意します。夜間にかけての下山になり、それ自体が危険だと判断された場合は、日没まで行動時間を引き延ばさないで、早めにビバーク地点を探すべきです。
 ビバーク地点の条件は、下山に有利な場所であること、安全な場所で、一夜体を休めるのにできるだけ差し支えのない場所であること、さらにできるなら風雨を避けられる場所であること、ほかには水が近くで得られることなどでしょう。私たちも、2~3度そのような場面に出くわしました。道迷いが先にあっての遭難でしたが、状況的にはここで述べていることとよく似ています。もちろん時間超過の遭難につながる場合は、できるだけ開けた場所で事前に携帯電話や無線機で下界に連絡をしておくべきです。
6) 今回の「岩登り」講習の目的がここにあります。岩登りを習得しておくと、この崩壊場所の通過にさほど悲観的になる必要がないかもしれないからです。このような場所は、私たちの経験の範囲内でいえば、鋸岳で第一高点から第二高点に向かう中ほどの「大ギャップ」といわれる地点でした。このあたりの山域自体が山面の風化と崩壊が激しく、私たちの通過に伴う刺激によっても、岩くずの崩れを簡単に生じるような、もろい岩質でした。ここでの通過の要領は、次のとおりです。
 ①全体の静止、②固定ザイルの設置、③ランニング通過、④ザイルの回収。②では、ザイル技術のある人が先頭に立ちます。まず、先頭者(トップ)にザイルを結索し、確保者(ラスト)も同じくザイルの片方の末端を体に結索します。これで2人はザイルで連結されました。したがって、他方が確保(支点、ビレイイング、プロテクションなどともいいます;その役割をするほうを確保者、ビレイヤー、またはアンカーとよびます)を確実にとる(確保者が立ち木などでとる確保点をA点とします)、つまりA点が十分に強力な停止力をもつならば、先頭者が万が一落下したような場合も、A点自体は不動ですから、ザイルが切れなければ、落下によって打撲やけがを負うかもしれませんが、先頭者の落下は止められます。
 さて、この行動を実施に移す際には、先頭者はアンカーに出発(登攀開始)を告げ、確保を頼みます。このとき、状況が相当に悪かった場合は、先頭者はザックを下ろして、空身になってザイルを伸ばすことだけに専念できる状態にします(ザックは上で引き上げるか、ザイルの固定が完了したあと取りに戻ります)。先頭者は立ち木や岩角、ハーケンなどでところどころ確保を取りながら(この確保を「ランニングビレー」と呼びます)先に進み、確保者は制動器(ATC;air traffic controllerなど)をセットしたうえで、ロープを送り出します。先頭者が危険地帯をまたぐような安全地帯に到達したところで、確保者と同じアンカー(確保点)を取ります。この時点でザイルの固定はひとまず無事行われました。その地点をB点とするなら、A点とB点とでビシッとロープが張られます(しかも、ランニングビレーによってA・B点以外でもこのロープ全体は保持されます)ので、ほかの隊員はこのザイルを手がかりや支えとし、または落ちた際にはこのロープにぶら下がれるような仕組みを講じれば、ここをフリーと比べれば格段の安全度をもって通過することができます。この仕組みがおわかりでしょうか。
 このザイルの固定が終わったところで、一人ずつ通過に移ります。おのおのは自分の腰に、短い補助ロープ(持っていればハーネス)をベルト状に結索します。そこにカラビナを通し、メインロープ(A-B間のロープ)にもカラビナをかけ、またはメインザイルには「プルージック」という方法でスリング(ドイツ語でシュリンゲ;「わっか」のこと)をセットし、腰のロープと連結します(プルージックなどのほかにクレムハイスト結びや、登高器〔商品名はユマール〕を使う方法などいくつかあります)。これによって、メインザイルでブレーキがかかるので、落下の距離が最小ですみます。
 A・B以外の隊員を中間者(ミッテル)とよびます。これらの中間者がAからBに通過しきれば、最後はAの確保者が確保(ビレー)を解いて、Bまで移動することとなります(Bの先頭者が荷物を回収するために戻る場合は、戻ったあと、まず先頭者が移動します)。確保者はここでは逆に確保される立場になります。A点の確保を解いたので、確保力(アンカーの保持力)としては半分になり、安定度も低下します。それを補うように、確保者の進行に合わせて、Bのロープを引っ張って張ります(岩登り用語では「テンションをとる」といいます)。そうすれば、落下した際には落下距離が短くなる理屈です。このようにしてB点のほうに移動しながら、確保者はランニングビレーに使ったスリング・カラビナやクイックドゥロー(ヌンチャクともいいます)を回収し、最終的にB点に到達して、はじめてこの危険地帯の通過が終わります(この一行程を「1ピッチ」とよびます)。
 なお、先頭者以外のメンバーは、安全地帯において身の安全は確実とし、手が空いたらザイルの回収などを手伝います。この現場がもっぱらの「下降」を要求する場面だったときは、先日、幕岩で行った懸垂下降が役立ってくれます。ザイルの回収とともに、支点(プロテクション)をどこにとるか、確実な下降を行う際の注意点なども勉強していくべきでしょう。懸垂下降には8字(エイト)環という器具を使いますが、安全環付きカラビナやATCで行う方法もあります。
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 以上、偶然、山行中に苦境に陥った場合に考慮すべき諸条件や、隊としてとりうる選択肢・考え方・方法などについて言及しました。このように、危険地帯に直面した場合に、岩登りの技術は絶大な威力を発揮してくれます。それ以外に、下記のような意義も岩登り技術の上達には含まれていると考えられます。
#1 通常の山行においても、危険を見る視点が違ってきます。危険を回避する、つまり安全を追求する眼が備わってくるようになると思います。危険をはらむ場面は多くが「岩場」だからです。
#2 自らより高みと、困難をはらむ山行が行える能力の涵養によって、より深い、高度な山の経験をつむことができる基盤が持てるようになります。その結果、高い山、つまりいい山に登れるようになるということです。いい山に登るためにも、もう少しだけ基礎を固めましょう。

C.岩登りの知識のおさらい
 
岩登り(岩壁の登攀)をするときの心得をひと通り振り返っておきます。実践で復習しないと身につかないかもしれませんが、このようなことを履修したのだということと、岩登りではこのような事項の知識・技術が必要なのだということだけでも知っておいてください。
 ①トップロープ方式:岩登りの初心者に適用する方法です。登りきった上部に支点(確保点、アンカー、プロテクション)を取っていますから、登攀中に落下してもロープにつるされる形となって落下は免れるので、安心して登攀を行うことができます。
 ②ハーネスの着用:登る際は、ハーネスを着用します。装着部がきちんと「8字(エイト)結び」で連結されていることを確認しましょう。登攀行為で岩壁で実際により高所を目ざす場合(本番の登攀)は、登攀が終わるまで、めいめいのロープは連結したままで、外すことはありません。初めにきちんと結んでおかないと、登攀の途中で危険を生じます。
 ※ハーネス:正確にはチェスト(胸)ハーネスに対してウェスト(腰)ハーネスといいます。ウィランズ式とレッグループ式があります。以前は前者が使われていましたが、落下時に上体が下向きに逆転することが多いため、現在では後者が使われるのがほとんどです。これですと、落下したときは、椅子に腰を入れて座った状態で止まることとなっています。レッグ部分は、ある程度きつく締めるのがいいとされます。
 ③付属品の着用:練習では付属品は必要でありませんが、上部の支点に達したあと懸垂下降に移る際に使う付属品類(8(エイ)字環(トかん)とスリング類2~3本、カラビナ2~3枚ぐらい)は携帯しておくほうがいいでしょう。落下時に首に絡まったりしないように、装着は正確に。
 ④意思の伝達:登攀を開始する前には、確保者に「登ります。確保をお願いします」と声を掛けて、その旨はっきりと伝達します(大げさでなく命を預ける相手にですから、ちゃんとやりましょう)。役割分担の確認という意味もあります。
 ⑤登攀の方法:まずどことどこをつないでどう登るか、「ルート」を読みます(ルート取りを「ルートファインディング」と呼びます)。ところどころに出っ張っている岩角や穴など登攀の際の手がかり、足がかりとなる部分を「ホールド」とよびます(ハンドホールド、フットホールド;押し付けて取るものをプッシュホールドなどといいます)。うまく登るには、このホールドをつなげていくことが必要です。残地ハーケンの頸部をつかむのはかまいませんが、その穴に指を入れてはいけません(落下したとき、指が切れる危険性があります)。行き詰まるのは、傾斜角度が急で、先にホールドが切れた(なくなった)ときです。
 なお、本番でそれより先にまったくホールドがなくなった場合は、「ボルト」といって岩に孔(小穴)をうがって(掘削して)、そこに楔のついた金具を埋め込む操作が行われます(この方法は人工登攀と呼ばれ、この方法をとれば垂直の岩壁をどこまでも登ることができます。この方法は、人工物を残していくので、マナーが問題視されています)。
 ◆登攀では、できるだけ水平面に対して垂直に立ち、上体を岩から離して、岩面や上部が観察できるようにしながら、一歩ずつ切り開いていきます。初心者は岩にしがみつこうとしますが、これは間違いです。
 ◆本番では、数メートルの登攀距離ごとに、岩壁の隙間(リスとかクラックとよびます)に「ハーケン」を打つなどして(立ち木や岩角など自然物を利用することもしばしばあります)、そこに支点を取りながら(落ちても、その支点が持ちこたえるなら、そこからの落下が免れる;このような支点を取って登る方法を上でいいましたが、ランニングビレーとよびます)、そのような支点を何か所も取って、一定の安定した地点まで到達します(確保者からこの地点までが1ピッチです)。
 ⑥確保者:ビレイヤーと同じです。確保者はまず、登攀者の落下などによって体勢が崩され、または岩場から下に引っ張られるなどの可能性があるため、確保者自身の自己確保(セルフビレー)を確実に取らなければなりません(必ずメインロープに、クローブヒッチ〔インクノット、マストノット〕で取ります)。
 ◆次いで、登攀者が登攀を始めたら、確保者は登攀者の動きをよく見ながらロープを操作します。落下しそうなところではロープを張り(これをテンションをとるといいます)、大きな動きをしている際は自由を束縛しないようにロープをゆるめます。
 ◆以前は、登攀者につないだメインロープは、確保者自身の確保点か別の確保点からとって、それを介して間接的に登攀者を確保していました。したがって、登攀者が落下したときも確保者にはなんらの衝撃も加わりません。しかし、現在は確保者のハーネスからじかにロープを送り出す方式が主流です。落下したとき、登攀者が登高中か下降中かで、確保者にかかる引っ張りの力は異なります(上に引っ張られるか、下に引っ張られるかの違いです)が、じかに自身から確保したほうが安全性が高いとされます。
 ⑦下降の方法:練習では、この間行ったロワーダウン(和製英語)と、あとでやった懸垂下降(アップザイレンや、仏製英語のラッペリングrappelingということもあります)。ロワーダウンは確保者が確保器具(ATCやシュテヒト環;8字環も使えますが、停止のときに急制動をしてしまうとされ、使われなくなっています。また安全環付きカラビナで「半マスト」〔マストノット=クローブヒッチのひねりを半回はずす方式〕とか「イタリアンヒッチ」などといわれている方式もあります。器具のないときに応用できるように、これらの方法についても習熟しておきましょう)。
 ◆懸垂下降の前に行うべきことがあります。登高して到達した地点から急な傾斜地を引き返す場合や、そこまでフリーで下降してきてフリーでの下降に行き詰まった場合ですから、危険地帯にいます。しからば、まずは自己確保(セルフビレー)を取り、身の安全を図ったうえで、懸垂下降の準備に入ります。
 ◆懸垂下降は、登高時よりも下降時のほうが危険が大きく、また難しいために行う技術ですが、その代わり、支点が破綻したときや、セット(取り付け)にほころびがあったときは、一大事(死亡事故)に至ります。確実に下降用の支点を取ることと、8字環をセットすることが必要です。8字環のセットをしたあと、初心者の場合には、さらにメインロープに「プルージック」でバックアップを取るのも恐怖感の緩和や安全対策上有効です。
 ◆8字環とメインロープの連結は、まずハーネスにつけた安全環付きカラビナに8字環の小さなほうの穴をかけ、空いている大きなほうの穴にメインロープをダブルで通してから、カラビナから8字環を外し、利き手(右手)側が下降方向(下)に来るように小さな穴をカラビナセットします(環は閉じます)。セットの際に注意しなければならないのは、うっかりして8字環を落としてしまうこと(この操作は自宅で十分に練習を積んでおきましょう)。
 ◆懸垂下降に入る前に、ダブルのロープの末端は8字結びで結んで、下に放り投げます(下に人がいる場合もあるので、要注意です)。さらに、懸垂下降が終了したときは、伸びたロープの反動で振られることもあるので、着地したあと、腰を落とすなどして、ロープの伸びによる振られをなくしておきます。
                                                                       〈以上〉


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