登山における「注意義務」試論

(1)リーダー責任に関する法的な考え方



はじめに
 私たちの山の会は、活動・組織運営の履歴や山行実績の蓄積、会員の公募活動などを通じて、外部に対してある種の「専門的な団体」として立ち現れている。いわば社会的な認知を受け、または受けるべき立場にある。このような背景をもとに、初心者・非経験者を山行に案内(引率)する会山行では、ガイド登山とその顧客の関係になぞらえて、リーダーには特別の注意義務が課されると考えられる。その山行で万一、事故をひきおこしてしまった場合、リーダーが十分な注意義務を果たしていなかったときは、「過失」責任、さらには「業務上の過失」責任が問われることがありうる。
 本会では「山行自己責任の原則」を規定してリーダーの免責を明らかにしているが、それにもかかわらず、過失の程度や内容によっては、リーダーには注意義務違反に対する責任が免れられない場合があると考えられる。
 本会は会員外のメンバーが同行する山行は想定していないので、以下では、もっぱら会員どうしでの山行時における事故の発生にあたっての法的~権利的な問題を提示する。会員間の経験的な、もしくは技術的な格差が事故を起こした原因として考えられる場合、これは、会員どうしであると否とにかかわらず、経験・技術のある・なしの格差として法的には相互の権利~責任関係を構成する。つまり、会員間での関係をみることによって、登山において事故が発生した場合の類推適用が可能となると思われる。本会会員どうして行う山行を「会山行」と称しているが、会山行の事故関連の場面を徹底して追究することによって、第三者(会員外)が山行に同行していた場合の責任関係を想定することができるように思われる。(2016.09.07 T・K)


1.山行におけるリーダーの注意義務
 個人で行う単独山行(単独行)であるなら、他人との間で問題が発生することはほとんどない。しかし、私たちは、複数人でグループをなし、団体(集団)登山を常態として行っている。経験者・熟練者ばかりでなく、新入会員(初心者、未経験者)が山行に参加することがある。このような山行では、参加メンバー間のレベル(登山技術、経験、判断力など)には当然、大きな格差が存在する。ここに、3つの問題ないし可能性が潜む。1つ目は、パーティーの進行・運行における障害・遅滞(初心者が山歩きに慣れていないためにおこす障害作用)であり、2つ目は、初心者に危険(遭難事故)が現実化する可能性が高いこと、3つ目は、事故発生後の処理をめぐって初心者に対するリーダーの注意義務違反(業務上過失責任)が発生しうる点である。
 力量・経験などが同等か、さほど違わないメンバーで成っている山行パーティーであれば、メンバー間での互いに対する配慮は必要でない。個人が自分自身に対して払う注意を、「善良な管理者の注意」とか「自分自身に対する注意」といっている。その意味は、「他人」に対する注意義務が問題となるとき、自分にとって自分が最も大切だという観点から、「自分自身に対する注意」と同程度の注意をその「他人」に対して払っていたなら、その人の注意義務は果たされていたとみなすことをいう。対等のメンバーから成るパーティーであるなら、この「注意義務」を、すべてのメンバーが、他人にではなく自分自身のために果たすことが、最善で、最も能率的な方法である。これをもって、1つのパーティーの行動系は円滑に、安全に進むはずだと期待される。リーダーや熟練者など特定のだれかが、ほかのだれかに注意を払うというような錯綜した関係の煩雑さも、メンバー間の義務の不均衡も存在しないのだ。
 1人のメンバーが「自分自身に対する注意」を怠ったとき、自身に危険が及ぶが、そればかりではなく、パーティー全体の進行にもマイナスの影響が出る。事は隊列の進行・運行の問題だけにとどまらない。致傷・致死という重大事に発展した際、事の処理をめぐって、解釈は分かれる。その事態の発生が、①能力不足に起因するのか、②そのときの偶然(不運)によるのかによって、状況解釈は大きく異なる。②の場合は、例えば予想外の落石や岩崩れなど、経験の有無によらず突然発生することがあり、原則的に本人以外の者の責任は生じようがない(「不可抗力」となる)。だが、前者①の場合は、現場での行動のあり方、危険回避がどうであったか、危険の告知があったかどうか以外に、当人のその山行への参加の適否、参加に至った経過、指導の内容などが、さかのぼって問題視される可能性がある。
 以上のように、複数人のメンバーから成る行動単位(団体)の運行・実践において、構成員のレベルに著しい不均衡があったときには、隊列の進行がそれに障害されるだけでなく、責任がリーダーにまで遡及しうるという関係がたえずあることを念頭に置くべきである。この問題は、メンバー間の技術・経験上の大きな格差がある場合に限られるが、“引率”する立場に立つ側では、心して受け止めておかなければならない。

1)対等の関係 ―― 相互信頼の原則
 個人と全体の関係は、相互信頼の原則にみられる関係に似ている。この考え方は、自動車の運転の場面に生かされている理念である。自動車のすべての運転者は、決められた規則・法規を正しく守って運転してくれていることを、運転者は互いに信頼しよう、そして、それを全員に例外なく適用する、という申し合わせである。左折車は右折車に優先し、また交差点で赤信号だったときは、車も歩行者も完全に停止してくれることを信頼する、ということである。この信頼の原則が確実・厳重に守られていないと、青信号だからといって交差点を安心して直進していくことができない。
 登山の領域でも、各自が自己の領分をきちんと守ってくれているものと信頼しよう、それを前提に行動を進めよう、という申し合わせであり、約束である。1つのパーティーの進行を局地の交通の運行と考えればよい。
 道路交通と登山とで違うのは、構成員の資格の有無である。道路交通の場合は、一定の技術レベルにそろえるために免許(国家資格)制度を採用している。基準線はクリアーされているから、すべての構成員(運転者)はその範囲で同等の者であると前提される。いいかえると、通常の交通で課される注意義務はすべての運転者で同じあり、責任(注意義務)も同等だとされる。ただし、運転する車両の大きさ、危険物搭載の有無や、運行の目的(人を運ぶ車であるかどうか)などによって、違った大きさの注意義務が課される仕組みにはなっている(車両どうしの衝突事故では過失割合は、より大きな注意義務が課される車両を運転していた者に大きく按分される)。
 登山の世界では検定資格はなく(ただし、プロの世界は別で、フランスでは半ば公認のガイド資格があり、日本でも公益社団法人日本山岳ガイド協会などが検定資格に準じた資格認定制をとっている)、したがって1つのパーティーの構成員は必ずしも同等とはならない。登山では、構成員間で不均衡が生じることがあり、そのような場合には、道路交通における運転者どうしの対等の関係ではなく、運転者と歩行者、運行者(バスの運転者)と被運行者(乗客)といった、対等でない関係が立てられうる。自動車の運転者と一般の歩行者の事故では、運転者の注意義務が圧倒的に大きいことはご承知のとおりである。登山でも、このような関係が類推的に適用され、それぞれの注意義務が要求されることとなる。

2)関係が対等でないときの注意義務
 登山で、例えば雪山研修の主催者やプロのガイドによる山行訓練では、必ず引率者(主催者)と生徒(参加者)との間に大きな経験・技術などの格差が横たわる。このような山行または実践講習で事故が発生したようなときは、事後処理をめぐってトラブルの発生する可能性は高い。実際に、主催者(文部科学省の下部組織)やプロの山岳ガイドの判断ミスで死亡事故を発生させ、裁判が行われてきた事例がある。
 素人集団であるが本会でもごくまれに、このような「プロ」(専門職)と「アマ」(素人)のような二分極編成が、一時的にせよ1つの行動単位(パーティー、登山隊)内に構造的に存在することがある。このような場合は、「プロ」の側になぞらえて、リーダーには「自分自身に対する注意」以上の注意義務、より高度の注意義務が課されるものと考えられる。
 山という、日常の世界からすれば危険な世界に初心者を導くリーダーには、1つには、そこでの「自分自身に対する注意」「善良な管理者の注意」自体がすでに高く(山の領域自体が初心者にとってはそもそも高度の注意を要すると解される)、全き「アマ」である初心者に自力でそのような注意を経験者と同等に期待することには無理があると考えられる。現実的に初心者に、いきなりの危険の認識、危険の予見・回避などを期待するのは、飛躍していると考えるべきであろう。このような背景に基づいて、案内者(リーダー)は彼ら・彼女らの「保護者」(ガイド)として機能しなければならないという役割面から、案内者には高度な注意義務が要求されると判断される。
 2つには、会活動として年間を通じて規則的に登山という同一行動を繰り返しとっているという事実に基づいて、「業務上」の過失が適用される可能性がある(「業務上」の問題に関しては本稿の別項目で詳述する)。「業務上」の過失、すなわち業務上の注意義務違反が問題となる場合は、通常の注意義務違反よりもさらに高度の責任が加重されることとなる。プロの山岳ガイドの場合は、この適用となる。
 初心者を伴って山に入る者は、このような基本軸を承知しておくべきである。

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2.責任の所在

1)判断責任の所在
 本会では、リーダー担当の機会均等(負担の均等化)ならびにリーダー育成の目的から、経験の比較的浅い者を(正=チーフ)リーダーに抜擢し、熟練者がその「副(サブ)」リーダーに就き、「正」リーダーを補佐するという方式を、年間を通じて会山行の一部に導入している。このような山行で、正リーダーと副リーダーの責任は、どのように考えられるであろうか。
 このような山行において、もし正リーダーがその山行にとって不適格なほどに経験・技術の程度が低かったときは、彼・彼女は形式上のリーダーとされ、実質的な判断を行うべき立場にあった者(副リーダー)が責任を問われることがありうると考えられる。そのパーティーの行動が、だれの判断によって実質的に行われたのか、行われるべきであったのか、あるいは山行参加者の大半と会自体がその山行で判断を託した者が実質的にだれであったのか、という主体同定の面から責任が追及される側面も見逃すことができないと思われる。実質的な判断・決定の主体の所在 ―― 行為主体(意思主体)の同定は、責任の所在確定に欠かせない要素だからである。

 注)責任:守るべきことが守られていなかったことに対して与えられる、道徳的・政治的・社会的・法律的などの非難・制裁や措置などを総称する。法律では責任は、民事責任と刑事責任とに分けられる。民事責任は違法な行為によって個人に及ぼした損害に関して賠償する、対個人的な責任であり、刑事責任は違法な行為によって社会に及ぼした害悪に関して社会的な制裁(刑罰)を受ける、対社会的な責任である(参考:『新法律学辞典』、有斐閣)。「責任をとる」とは、これらの責めを引き受ける、という意味である。

 他方、そのような山行を容認し、このような編成方式を認めた山の会自体、さらにはリーダーを選定・決定・承認する立場にあった者(複数)の責任も問題となりはしないか。しかし、副リーダーを引き受けたことに、危険負担の認識(危ないことを危ないとわかっていながら引き受けた気持ち)があったと考えられる面がなくはないか。―― などなど、複雑な問題が錯綜して派生してくる。

2)リーダー責任と自己責任
 一方、本会では、山行における「自己責任」の原則をとっており、形式論的には本人以外の者の
責任を免除しているので、リーダーや他の山行関係者の責任は理論上、発生しないこととなる。だが、ほんとうにそうなのであろうか。もし上に述べたようなリーダー責任が存在するのであれば、この原則に示す「自己」とリーダーの2か所に責任が存在することとなり、両者で責任の競合と相殺をめぐって複雑な問題が生じる。結論から大要を述べると、この規定があるからといって、リーダーが画一的にに保護されたり、リーダー責任が完全に免除されたりするものではないと考えられる。ガイドが顧客に「自己責任」の担保(つまりガイド責任の解除)を約させたとして、その覚書(または契約)は法的に有効といえるであろうか。答えは「否」である。
 ガイド(登山教室の教師)が伴う山行で、参加者(生徒)が事故をおこしたときの判断では、①職業としての専門性(業務;山行全体の誘導をはじめ、山行上の技術の保証、経路の選択、危険な行為類からの安全確保、危険の回避など)とともに、②同行者に対する意志決定上の絶対的な優位性、この2つの側面から責任を負わなければならないものと理解される。これらの相互の立場は、山岳ガイド業が社会的な認知と評価のもとに成り立っていることを背景とするが、この関係は、われわれの会で行うある程度高度な山行において、ここにとくに初心者が参加してきたときにも、類推的に適用されうる可能性があると考えられる。職業としての立場がどれくらい「業務上」として加重されるか、安易には判断できない(下記「業務上」の定義参照)。

  注1)本会会則第9条第8項:山行はすべて会員個人の責任において行うものとする。
ついでながら、学校の教師が生徒を山に引率した場合に生徒が事故をおこしたときは、法的にどうなるであろうか。1つには、国家賠償法第1条の適用となる。しかし、教師と生徒という立場の違いを基盤に、教師の刑事上の過失責任(業務上過失致死罪)が問題となっている事例がある(芦別岳遭難事件)(刑事責任>民事責任)。
 注2)国または公共団体の公務員が公権力の行使にあたって故意または過失によって「他人」に違法損害を与えたときは、国または公共団体に賠償責任が生じる。判例では公権力の行使には公立学校の教師の教育活動も含まれ、引率登山の生徒は「他人」にあたると判示されている(『模範六法』1999年版、p299)。

3)使用者責任
 そのほか、企業などの雇用(使用)者、責任(監督)者に課される「使用者責任」がある。これは、企業ではその組織の最高の意志決定者である経営者や、直接の業務総括者が名指しされることとなる。この責任を本会に当てはめて考えた場合、会長・副会長や、方針を示した係の者の責任が問題となるであろうか。
 本会はこれになじまない。使用者責任に照らして考えたときも、当会では、会長・副会長を含めた全会員の権利・義務は同等であり、また会の運営上における会長・副会長の特別の権限はないとの不文律にのっとり、会長・副会長が責任を負うという関係にはない。責任の所在に関しては、基本的に意思(意志)の介在が前提となる以上、指示や命令など意思の発現のないところに、責任も存在しない。
注)民法第715条:被雇用(被用)者が業務の遂行に際して第三者に与えた損害について、使用者が賠償すべき責任について規定している。
  「①ある事業のために他人を使用する者は被用者がその事業の執行につき第三者に加えたる損害を賠償する責に任ず。但し、使用者が被用者の選任及びその事業の監督につき相当の注 意を為したるとき、又は相当の注意を為すも損傷が生ずべかりしときはこの限りにあらず。②使用者に代わりて事業を監督する者もまた前項の責に任ず」。

4)山岳会としての社会的な自覚
 本会では、過去に一度、山行で死亡事故をおこしており、事故後に山行計画策定で山行の対象を検討する際に、山行のレベルについて意見が分かれたことがある。そのとき、危険度の高い山行計画に対して、「次に本会で事故をおこしたときは会は解散となるとの覚悟をもって臨むべきだ」と、危険な山行に対する抑制意見が出、山岳会機能論との間で議論が割れた。これは、山岳会としての安全確保の社会的な責任を問題としたもので、会のいっそうの責任の自覚を促す立場からの意見であった。
 さて、この意見に対して、「自己責任の原則」を盾に会の責任が逃れられるであろうか。「個々人はすべて自分の自由意思で山行に参加しているのだから、個人にどのような結果が生じようとも、会や他の会員に責任は生じない。だから、どのような高度な山行計画が立てられようとも、これは選択する個人が問題で、会のあり方や山行の実践方法は関係しない」といえるか、ということである。ここでは、この問題にはこれ以上は言及しない。
 法原則にのっとって述べるなら、自足的に私たちのような私的な集団で規定(決まり、約束事)を定め、それによって、例えば自己責任(ひいてはリーダー責任の免除)を明確にしているからといって、これが無条件に“隠れ蓑”(抗弁の根拠)にはならないことを承知しておくべきである。民間の私的な団体で行う規定や内部規制(このような決定を行うことも含めて)は「私的自治」といわれ、内部規範となってそこの構成員を拘束する。公権力は通常ここには介入してこず、幅広い自治が認められるが、こうした決定事項や規則などがいわゆる「公序良俗」(公の秩序と善良の風俗)や、社会条理・慣例などに反していたときは、この規定は無効とされる。上で述べたガイドの責任解除契約の無効性と類似する。

 注)民法弟90条:公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とす。法律行為とは、売買・貸借・遺言など法律が効果を認めた行為をいう。


3.登山における会の責任と個人の責任
 山は本来、危険を内蔵している以上、山に入る個々人は自分自身のために、その危険を十分に認識し、それを避ける手立てを「まず自分自身で」講じなければならないという大前提がある。また、下で述べるように、登山は程度の差はあれ、危険に対する自己投入行為、いいかえれば「冒険」という側面を含み、その範疇の行為群を選択する個人はその結果をすべて個人で担い、他者に責任を転嫁しないという考え方が、社会的にも浸透してきてはいる。「自己責任の原則」という考え方である。

 注)自己責任の原則:別の機会に述べた(『ともしび』№.125、p.51「登山における自己責任」)ように「自己責任の原則」とは、法律では意味合いが多少異なるが、「行為者の意思(意志)を媒介しなければその者に責任を帰せしめえない」という考え方である(『民法(1)総則』〔有斐閣双書〕p.13)。登山でいわれる自己責任は、みずからの自由な意思で選択した(自己の意思を媒介した)行為であるから、山でおこったどのような結果に対しても本人だけが責任を負う(すなわち本人以外は責任を負わない)、という考え方である。これによって、本人以外の者に責任が波及するのを遮断する(防波堤)規定となっており、とくにリーダーの免責の理論的背景をなすものと考えられる。

 話題は替わるが、アメリカで喫煙者によるタバコ会社に対する提訴問題がおきている。喫煙は本人がその有害性を認識して行う嗜好で、これも自己責任論で簡単に片づくと思ってきたが、商品を販売していることの罪悪性について、アメリカ国民は自分が肺がんなどにかかったからといって、企業を訴えている。私にはとうてい理解ができない。
 なお、自己責任の原則は、近現代の自由な企業活動の精神的・原理的な基盤となってきたが、この原則と一体となっていたのが「過失責任論」という考え方である。これは、自由な経済活動(自由主義経済)に伴って、たとえまずい結果が生じたとしても、過失(故意も含めて注意義務の履行違反)がなければ、責任は発生しない、という考え方である。一方、経済行為の投機的な性格をふまえ、損失をこうむった場合も、結果はすべて自身が受け持つ、という原則である。
 しかし、企業活動の規模の大きさ、影響力の大きさ・広域性をふまえて、この原則は修正を余儀なくされた。過失を問うだけでは結果に対する責任追及は不十分であり、過失がなくても結果によって損害がまわりに及んだときは、責任が生じるという「無過失責任」の考え方が広範囲に適用されるようになった(下記「公害裁判」)。また、使用者責任についても、条文では「過失責任」をとりながら、判例では「無過失責任」に近い考え方がとられているという(経済活動=利益追求活動にはそれなりの帰責があって当然とし、また被害者救済の立場から、事故をおこした当人以外に使用者にも求償範囲を広げることによって、被害者に対する保証力を拡大するという意味がある)。
 上に述べたように、まず①構成員(同行者)間で経験や技術の大きなレベル格差がある場合、②判断・決定などの主体性の偏在から、意志決定において一方が他方に対して絶対的に優位にある場合、③教師と生徒などのように明らかな固定した上下関係がある場合などにおいて、意志決定を行う立場にある者(優位者;意志決定者)には、その意志決定に伴う、同行者(劣位者)に対する注意義務、ひいては業務上の注意義務が課されると考えられる。意志の発現者と責任の所在は、不即不離なのである。しかし、ガイドではなく本会の活動でこのような責任が生じうる関係があって、なおかつ「自己責任」の拘束規定がある場合は、どのように考えればよいであろうか。
 本会は定期的に会員の募集(公募)を行っており(この活動から本会の存在は市民の多くに知られている)、相当数のメンバーを擁し、一定の目的をもって相当期間にわたって安定して活動を持続させてきた。このような事実から、本会に対する社会的な認知は現存し、会のメンバーが初心者を案内(引率)する場合、本会に対し一般市民として感情的に寄せる信頼・期待は無視できないと解すべきであると考えられる。
 あるレベル以上の山を対象として登山を行う場合には、現実的に登山のある程度高度な「専門性」が必要となる。低レベルの参加者にとっては、本会の山行の案内者は専門性を有する者、つまり半「専門家」として立ち現れていると考えられ、会は個人の集合による単なる私的な存在の枠を超えた実体となっている。この場合、その初心者は、山岳会、ひいてはその山行のリーダーが自分の安全を確保してくれることを信じる、という心理的な依存状態にあるはずである。両者の関係は、上にも述べたようにガイドと生徒(顧客)の関係になぞらえることができる。この場合における報酬の有無は、下に述べるように「業務上」のものかどうかの要件とはならない。
 また、例えば訓練を目的とする山行では、依存-被依存の精神的な関係にとどまらず、現実的な実力レベルにおいても、この不均衡な関係が成立しているといえる。訓練によって初心者が上達すれば、その不均衡は是正される方向に推移し、互いの依存関係もある程度は解消・緩和に向かう。そして、格別の問題なくこの期間が過ぎ、両者は対等の関係となっていく。これが当たり前の経過であろう。しかし、その訓練の前・間には瞬間的に、理論的・現実的な不均衡が存在する。その不均衡が事故をひきおこすきっかけとなることも、想像に難くない。訓練の最中におきる事故の可能性に注意が注がれるべきであり、皮肉にも訓練の瞬間こそが最も危険だということもいえるのである(実際にその種の事故がおこっている)。
 山岳会は、法人格(団体として法律行為ができる主体としての資格)を付与された団体ではない(同好会、町内会、PTAなど、私人により作られたこのような民間の組織・団体を「権利能力のない社団」という;法律上どこにも規定がない存在だが、とくに運営・手続き上の民主主義の保証について、民法上の〔社団〕法人に擬して判断される)が、以上のような観点から、会または会を背景とする登山行為には、相応の責任が生じるものと推測される。ガイドのように専門の業として行うものでなくとも、それだけ「業務上」の拘束(業務上の過失責任)は強くなるとの自覚が必要となる。
   注)その後、山岳会などの団体は活動内容、公益性などを条件として、いわゆる「NPO(特定非営利活動法人)」として国の認可が受けられるようになった。町内会、自治会も改正地方自治法によって法人化への道が開かれた(地方自治法第260条の2による「認可地縁団体」)。

 注)業務上の過失:「業務上」の過失は、致死、致傷などの罪となる。業務上過失致死では、「業務上必要な注意を怠り、よって人に死傷を致した者----」(刑法第211条)。①この法律が適用となる対象は、「死傷の事故をおこしやすい一定の業務に従事する者」とされる。「業務」は「②本来、人が社会生活上の地位に基づき反復継続して行う行為であり、かつ③他人の生命・身体に危害を加えるおそれのあるものであることを要するが、④行為者の目的がこれによって収入を得ることにあるとその他の欲望を満たすものであるとを問わない。娯楽のためであってもよい。」
  このように業務は社会生活を維持するうえに従事する種目であるなら、職業や営利である必要はなく、また私務であると公務であるとを問わない、としている。本会の山行活動は、「社会生活上の地位に基づき反復継続して行う行為」に該当していると考えられる。「業務」者(業務上の行為に従事する者)には通常人と異なった特別に高度の注意義務が課せられており、注意義務違反は通常の過失に比して重く罰せられる(参考:大塚仁『刑法概説-総論』、有斐閣、p45-47、1977;『判例六法平成7年版』有斐閣)。③の「他人」は同じ山岳パーティーの構成員に適用されると考えられる(上記、国家賠償法第1条の「他人」に類する)。【判例】高校教師が山岳部の活動として行われた山岳合宿訓練に同行した場合に適用された(1974年、山形地裁判決)。


4.注意義務違反=「過失」の一般的な意味合い

1)過失責任とは
 憲法第31条で罪刑法定主義(どのような行為が「犯罪」に当たるかを法律で明文化しておく制度)を明らかにしている日本の法(刑法、その他)体系では、犯罪はもともと「故意」(加害の意志)を前提とする(前提として故意がなかったときは犯罪とならない)が、故意がなかった場合でも、注意義務違反すなわち「過失」(わかりやすくいえば、ひどい「うっかりミス」「落ち度」「不注意」)があったときは、その行為を犯罪(事犯)として扱う、としている(例:刑法第209条の過失傷害罪、第210条の過失致死罪など)。重大な結果をまねいたときは、過失は故意と同格の、「犯罪」を構成する要素(構成要件)となる、と法律が規定しているのである。過失とは、それなりに注意していれば避けえたにもかかわらず、注意を払わなかったことによってその結果をひきおこしてしまったことをさす。
 しかし、刑法の規定だけではない。民法第709条でも「故意又は過失により」と規定し、故意と過失を同格として扱い、このどちらにせよ、ともかく結果としてそれらが原因で他人に損害をもたらしたときは、損害賠償責任が生じる、と規定している(なお、この第709条の規定する内容は「不法行為」といって、民事訴訟上の大きな根拠規定となっている)。

 注)民法第709条:故意又は過失によりて他人の権利を侵害したる者は之によりて生じたる損害を賠償する責に任ず。

 ちなみに、故意も過失もなかった場合であって、第三者に損害・危害などを及ぼしたときはどうなるであろうか。この場合に関しては、「無過失責任」という考え方がとられる。故意は結果に対する意志(意思)を前提とし、過失はある結果による損害の発生に関する共通認識・予測(だれもが、その注意を怠ったら、そのような結果になるだろうと考えること)が前提となっているが、無過失責任は、結果の予見可能性や、結果自体の一般的な評価(悪いという判断基準)が行為の時点で存在せず、その後の経過で結果に対する否定的な評価が証明されたような場合である。
 1960~70年代、「公害」が大きな社会的な問題となったことは、私たちの世代にはまだ記憶に新しい。水俣病しかり、イタイイタイ病しかりである。これらは大企業の企業活動に伴って発生した。当時では、利益追求の活動であったが、これらが外部にまずい結果をもたらすことについて明らかな知見(科学的な基準)が存在しなかったということをもって、企業側は抗弁した。膨大な量の工場廃液を公海に垂れ流し、工場の排ガスを大気中に放出した。海水や大気が有害な物質を限りなく薄めてくれると考えた。ところが、有害物質が魚介類たちに蓄積して、これを食した住民が甚大な被害をこうむったし、汚染された大気が住民に深刻な打撃を与え、四日市喘息といわれたような健康被害をもたらした。こうした現実に対して、公害裁判では、過失がなくても第三者に不利益的な結果を生じたときは、行為者には賠償責任が発生する、と判示した。

2)登山における過失責任
 では、登山においては、過失はどのような場合に言われるのであろうか。上に述べたことを振り返りながら、問題点を簡単に整理しておこう。
 ①適用対象:過失責任は注意義務と一体の関係にある。特別な注意義務が課される関係、すなわち山岳ガイド、学校の教師、実践講習会主催者など、行動の決定・判断で絶対的に優位な立場に立つ者などに限られる。これらは、多くが「業務上」と考えられる行為群の類型に該当し、本会では、初心者をその者にとって高いレベルの山行に同行させる(引率する)ような場合のリーダーである。
 ②違法性:法律上の注意義務規定が適用される行為類において、注意義務違反=過失、すなわち違法性が明らかで、相当程度であったときである。
 ③因果関係:行為者の注意義務違反と当人(事故者)のおこした結果との間に、因果関係が成立する場合である。すなわち、例えばリーダーが初心者に対して誤った指示を与えたときや、危険箇所で適切な予防処置を講じなかったときなど。
 ④注意義務の広範性:注意義務が必要な範囲は、相手の状態によって山行前から山行終了までのあらゆる段階である。技術的、非技術的などあらゆる部面にわたる。もちろん、現場での細かな指示や注意は不可欠である。
 ⑤自己責任との拮抗:参加者に「自己責任」で参加を確認していた(あるいはそのような口約束が結ばれた/ツアー契約の約款、山岳会の会則などに規定があった)としても、これらがリーダーの絶対的な免責事由とはならない。
 ⑥事故者の過失:登山の危険行為としての特質からは、まず基本的な自助努力が事故者自身にも求められた、と考えられるべきである。この努力を著しく欠いていたときは、事故者の過失が考慮される。
 ⑥を除いてこれらのすべての注意義務がリーダーによって果たされていたときは、リーダー責任は「不可抗力」として免除される。

 注1)違法性:違法性とは、広く法律が定めた規定に違反することをいう。過失の程度が軽微だったトきは、違法性はあると認定されても、可罰性はない(罰するに値しない)と判断されることがある(これを「可罰的違法性がない」という)。例えば、赤信号でありながら車が来ていないので歩行者が横断するとか、公けの場所にごみを捨てるといった行為(前者は道路交通法違反、後者は軽犯罪法違反となる)が該当する。どちらも違法行為だが、ことさらに処罰の対象とまではしない。
  一方、違法性はあっても、特殊な理由があったときは違法性はなかったとみなすという規定があり、これを「違法性阻却事由」という。これらには、正当防衛、緊急避難、正当行為(医師による注射や手術)などがある。緊急避難は、急な斜面で上から石が落ちてきたのでよけようとした際に体がほかの人に当たって、その人に危害を及ぼしたというような場合だ。なお、誤った正当防衛(相手を間違った場合など)は過失となる。また、これらの行為は、それによって避けえた法益を超えてはならず(法益権衡の原則)、そのとき他にとるべき方法がなかった場合でなければ(補充の原則)ならない。もはや存在しない過ぎ去った危険だったり、行為によって周囲に及んだ危害が大だったときは過剰防衛となる。
 注2)過失の程度:交通事故や法規違反(反則)をおこしたとき、略式手続き(裁判をしないで書面審査で刑を言い渡す)というのを受けた経験のある人は少なくないだろう。罰金いくら、免停(免許停止)何日と、命令(略式命令)が出される(これに異議がある場合は正式の裁判が請求できる)。これは違法性や過失の程度が小さかったときに科される過料であり行政罰だが、もし過失の程度が著しく、第三者に重大な損傷(重傷や死亡など)を負わせたような場合(致死傷)は、検察庁(国)から正式起訴が行われる。罪の大きさが看過できないため、公権力による罪責の追及となるわけである。このときは行政罰を超えて刑事罰となる。運転による事故の場合は、仕事で運転をしていたか、レジャーで運転をしていたかなどと関係なく、「業務上」となり、重過失では実刑判決が下ることもまれではない(自動車の運転が職業であるバス・トラックなどの運転手は、それだけ業務上の責任が加重される。これと同様に、登山でも職業的なレベル、「業務」の域に近づくにつれて、責任が加わる)。

【参考文献】
 1)溝手康史著:登山の法律学、東京新聞出版局、2007。
 2)本田勝一著:リーダーは何をしていたか、朝日文庫、1997。
 3)三省堂編集部編:判例六法 1999年版。

=2014年8月15日 T・K 


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