(2) 遭難事故仮設を通した実践的理解


 前回(1)では、登山においてとくにリーダーに対して課されることとなる「責任」や、その責任の根拠などについて、判例なども含めながら法的な側面を中心として解釈を述べた。今回は、山に登ったと仮定して、事故に遭遇した場合にどのような法的な立場に立つのかについて、1回目よりもより具体的に考えていきたい。仮設だが、事例を用いる。

 山に行く当人は通常、自分は事故を起こさないという前提でいる。また、「山で自分が事故を起こしても、同行者に迷惑はかけない」という気持ちを抱いているというのも、共通している。どちらも、自分は事故に遭わないという信じ込み、あるいは楽観が先行する結果である。そして、事故は「忘れたころに」しかやって来ないほど低頻度だからである。しかし、事故は起こるからこそ事故なのであって、統計から見るまでもなく、一定の確率で間違いなく起こっている。平地よりも危険の多い山岳地帯に進んで出向いていく山好きたちの運命は、不透明なこと限りがないといっても過言ではない。終わるまで結果がどこまでも不明確である登山、その結果しだいでは、その人ばかりではなく、家族、周辺の仲間に甚大な影響、事の成り行きしだいでは不幸をもたらす。
 事故によって、最悪の場合にはその本人が「もの言わぬ」人となる可能性のあることを考えると、万一そのようになってしまった場合に、あとの処理を行うのは家族や、代理人である。このことを踏まえて、どのような事態が待ち受けているか、あるいは、その事態を避けるために、とくにリーダーはどのようにあらなければならないかという問題を突き詰めて考える意味がある。事故があったときどうしてほしいか、当本人の意思が家族に正しく伝わっていても、家族が故人の意思(遺志)を正しく引き継ぐとは限らない。本人の意思が実際に生きてこないこともある以上、そのような事態も覚悟しなければならない。しかも、そもそも山に行く人の心理的な楽観が前提となっている現状から、生前に同行者に対する配慮(あるいは自己責任貫徹の意思)から、「遺書」を書いていたなどという話はありえない。とすれば、事故後に事後処理がどのような条理、論理、根拠に基づいて一般的に行われるかということに関心をとめたい。
 同行者を守ることは自分を守ることであり、その逆もまた真なりという命題に即して、自他を「守る」という方法・要領を一応の法理に則り細かく検討していくことがここでは有効だと思う。最後には、一部、山岳地帯の危険をある程度具体的に取り上げて、危険予防の観点から注意を喚起した。山に潜む危険を、初歩から客観的な観点で逐一検証することが必要となってくるゆえんだ。いろいろなことを盛り込んだのは、山は多種の要素をはらんでおり、多面的に山登りを考える材料とすることによって、少しでも事故予防に寄与したいと思うからである。
 山に他人を同行させたとき、例えば同行させたAと同行したBとの相互の法的な立場はどのようになるかについて、「好意同乗」という概念を使って説明してみよう。


1.「好意同乗」とは
 第三者や知人など、いわば不特定の者を伴って行う登山における事故に関しては、「好意同乗」(「無償運送」ともいう)という場面が類似的に出されることがある。好意同乗とは例えば、知り合いの人から、ちょうど同じ帰り道だから乗せていってあげよう、と言われて、その人の車に同乗させてもらうような場合のことである(逆も当然ある)。
 問題は、そのときに不運にも交通事故に遭ってしまったというようなケースである。事故による被害が大きく、運転者に重大な落ち度(重大過失)や資格欠格(無免許、飲酒運転など)があったような場合には、同乗者(またはその家族)は運転者に損害賠償を求める訴えや、告訴(捜査機関に犯罪性を指摘して捜査および追訴を求める行為)を起こすかもしれない。一方、同乗させた側は、同乗する限りは危険は承知(これを「危険負担」の認識があったという;1回目で、サブリーダーを引き受けるに当たって、この危険負担の認識があっただろうことを述べたが、これと共通する。サブリーダーは「名誉」の見返りに危険を引き受ける)のうえでのことではなかったか、と反論するだろう。同乗自体は便宜供与なのだから、なにか事があったからといって、虫のいいことは言うな、という主張だ。普通の良好な関係の人なら、「私が誘ったばかりに、とんだ目に遭わせてしまって―」と恐縮がることになるかもしれないが、仮に本人不在となってしまい、家族や代理人が表に出ることになると、まったく違ったやり取りとなる可能性がある。
 山岳会の活動として公式に参加者を募り、仲間同士で山行を行っている限り、通常は、「好意同乗」は適用されないと思われる。家族構成員間にこの問題が立てられないのと同様である。好意同乗は特例的な場合をいうのであって、日常で繰り返される同じ種類の行動パターンに関しては適用されないと理解できるからだ。それゆえ、山岳会の公式の山行であって、いわば「身内」「仲間内」だけで行うときには、この問題は通常はおこりえない。ところが、同じ山岳会のメンバーでも、個人山行で同行することとなったときや、なにげない話の成り行きから、同行の事態となったようなときなどには、この「好意同乗」の問題が生じうる可能性がある。例えば、本人が消極的だったにもかかわらず、周辺の者たちが盛んに勧誘をし、それに突き動かされて結局参加することとなったときや、ある熟練会員が新人の会員を「好意」で山に誘って同行することとなった場合など、これらはいずれも「好意同乗」という意味合いを帯びてくる可能性がある。
 また、これは特殊だが、訓練山行として本会でも毎年2~4月に雪上訓練*が行われる。この瞬間こそが被訓練者にとっては最も危険である。というのは、訓練とはいえ、訓練場所の状況は現場を模しているので、少しばかりは危険を備えており、被訓練者には、訓練の前・最中に現実と経験・技術、つまり状況と力量との乖離が最大となるからである。このときに事故を起こす可能性が論理的に最大となる。

 *雪上訓練:本会では、雪山に参加する資格条件として会で実施する雪上訓練に少なくとも1回は参加することを会員に義務づけている。入会者で雪山を登る希望者が対象になるが、年間を通して本会では山行を行うため、予測外やたまたまとして雪の山を踏むことがある。そのため、できれば全会員が訓練を受けるよう勧奨している。入会早々の人で雪山を目ざすときには、最低でもこれに参加しておかなければならないが、仮にその人が登山はもちろん雪山も初心者であれば、訓練の最中が最も危険となる。訓練場所には、例えばピッケルを使っての滑落停止、登攀など、実践の現場に近い状況が備わっているほうが訓練の効果が大きい。とはいえ、危険をそのまま伴うドラスチックな場所を選ぶことはしない。急な傾斜では雪崩の可能性があるし、滑落停止訓練では停止部の安全が確実な場所を選ぶ。

 趣旨がやや異なるが、2000年3月に、文科省(文部省)登山研修所(長野県;現在は国立登山研究所)主催の立山(大日岳)で雪山訓練において休憩中に雪庇が崩れて、訓練に参加していた若者(学生)の2人が死亡した事例*があることは、前に報告した。この場合も、好意同乗の側面がある。相手を信頼して、そこに身を預けるという構図だからだ。好意同乗は無償で行われることが普通で、この訓練は有償で行われるものだから、この例はむしろ相乗りのバスにたとえたほうが適切かもしれない。

 *その両親が業務上過失の責任を盾に国を相手どって訴えを起こし、長期間の係争を経て、主催者側に過失があったという地裁判決が出たが、国が控訴した。その後、国が和解金を支払うなど、2008年に裁判は終結した。

 自動車の場合も登山の場合も、同乗者は「同乗」によって利益(便宜)を受けるのと引き換えに、ある種の危険(内在的な危険)を覚悟しなければならない。今日の車社会で車の危険は確率として非常に小さいが、確実に存在する危険ではある。危険が実際に現実化した場合、異なる立場の両人の主張は極度に際立つ。しかし、市民的な感情として、「善意」「好意」で他人に対して「善行」を施行する性善的な側面を人は持っており、このこと自体は否定されるものではない。いけないのは、危険を知っていながら便宜を受けたような場合や、また十分な運転経験がないにもかかわらず相手に善行を施そうとした場合である。無免許運転だった場合は論外である。
 これと同様に、自分が山での危険を避けうるだけの力量や経験が十分でないにもかかわらず、それと知らない人を山に案内する場合がある。参加者のレベルが十分であったなら問題を起こさず、また事故を起こしたとしても「不可抗力」が成り立つ公算が高いが、自分が案内しようとするところとその相手の力量との間のバランスしだいで問題を生じる。上にあげた雪上訓練がそれに当たる。
 好意同乗に関する直接の法律上の規定は存在しない。結論から先に述べるが、判例からみると、自動車に乗ることには利益と相伴う危険を予測できるものである以上、同乗者の側に、事故に遭遇した場合において、運転者に対する求償(損害賠償請求)権を前提的に放棄していたという側面を認めて、運転者が注意を怠らず運転を行い、また自動車に(事故につながるような)欠陥がなかった場合には、同乗者は運転者にその責任を追及することができない、とおおよそ結論づけているようである。運転者の重過失(重大な過失)が認められない限り、その責任を免除(免責)しようという考え方である。外国でもだいたいそのような法律上の規定(考え方)になっているようである。
 好意同乗は社会生活上で広く一般的に行われている行動様式であり、これを規制せず、通常のものとして追認しようという司法側の考え方と推測される。
 「同乗者」については、自動車損害賠償保障法(自賠法)第3条にある「他人」に好意同乗者が当たるかどうか、という側面から論及されている。この問題に関しては、いくつかの判例で「同乗者」は「他人」に当たると判示されている(少し古いが『模範六法』〔1999年版、三省堂〕;「『他人』にあたるとされた者」、p.1039)。ここで、「登山同行者」がどのような関連から、この「他人」に該当するのかという問題について考えてみよう。
 自動車損害賠償保障法(自賠法)第3条「自動車損害賠償責任」の項:
 「自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によって他人の生命又は身体を害したときは、これによって生じた損害を賠償する責に任ずる。ただし、自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかったこと、被害者又は運行者以外の第三者に故意又は過失があったこと並びに自動車に構造上の欠陥又は機能の障害がなかったことを証明したときは、この限りでない。」
登山の場合もこの例に類する側面があり、また、それになぞらえて解釈されることがある。好意同乗の場合に似通う登山のケースを考えてみよう。
【導入例】
新入会員Aさんが「会山行の○○山(岳)山行に参加したいんですが、自分に行けるでしょうか」と、リーダー役のBさんに相談したところ、Bさんは、「行けますとも、ぜひ一緒に行きましょう」と答えたとする。「私の運転する車に一緒に乗っていきませんか」と、まさしく好意同乗そのものである。行くことには、上述したように便益と危険の2面が相伴う。


2.浮き石の一般性と特殊性
 ここで、こんな事例を想像してほしい。
【事故事例】
 最近の登山ブームを反映して、60歳の男性(A)が山の会に入会してきた。彼は過去に4~5回低山ハイクの経験はあるが、3千メートル峰へは登った経験がない。その彼が穂高岳の会山行に参加し、不運にも岩場で過って浮き石に乗って転落し、大怪我を負ってしまった。救助隊の出動、ヘリでの搬出も行われた。その山行のリーダーあるいは山の会はその遭難に関して、どのような立場に立たされることになるだろうか。
〈この事故例は架空のものであることをお断りしておきます。〉
 新入会員のこの男性は、山行に参加するに際して迷ったに違いない。彼の登山歴からすると、この山は少々手ごわい対象だ。経験からして、自分ひとりでは行ける山ではない。でも(だからなおさら)、行きたいという欲求が湧いた。そこで、思い切って参加の申し込みをした。山岳会の力量を信用した。というよりも、山岳会主催ということで自動的に信頼するという心理的なスイッチが入った。どちらかというと、実態としては連れていってもらうこととなったが、実際には、その人においては訓練のしかたもわからなかったし、それに対する自助努力を格別に積むことなく、行くこととなった。リーダーからそれなりの心得、注意、必要な装備類などに関して説明はあったが、具体的な危険についての話はなかった。そして、運悪く、結果的に、単純なミスにより重大事故をおこしてしまった。下で論及するように、ここに込められる意味内容はさほど単純ではない。具体的に各場面を検証していってみよう。
 まず、「浮き石」というのはどこにでもあるかといえば、①これはある地域に、しかもある季節に生じやすい特異的な側面がある、という点が指摘できる。また、②浮き石に乗ることが転倒・転落にまで発展するには、それなりの特殊な状況が背景となるが、こうした状況の把握が初心者、この例では参加した彼に可能だったかどうか。浮き石による事故を、丹沢の一般登山道で想像するのはあまり実質的でない。やはり、北アルプスや上越の山域など、豪雪地帯にある劒岳や穂高岳を考えるのがより適切だろう。つまり、この事故は特定の山や山域で起きる可能性が高いといえる。山面の勾配や状態のみならず、浮き石の発生上の原因にかかわってくる問題も考えなければならないからだ。
 浮き石の原因:山の斜面はたえず風雪、温度差による変化にさらされているが、高山や多雪地帯では浮き石がより生じやすい。雪の力学的な力で石が下へ下へと運び下ろされることは想像に難くないが、寒冷地では「凍上」という現象によっても大きな岩でさえ持ち上げられ、下へと移動する。その結果、微妙なバランスで斜面に引っかかるようにして辛うじて静止している岩石が多数生まれる。雪解けの直後がとくにそうである。それらが一種の浮き石となっているほか、土砂の流下によって岩石は動きやすい状態に置かれる。さえぎるもののない高所では、そのような状態の岩石は低地でよりもつくられやすい。多数の登山者を迎える丹沢では、登山者によって浮き石は取り除かれ、落とされるなどの処理を受け、その状態の石はきわめて少なくなっており、また浮き石そのものができにくい。
 そうだとしても、Aの事故の原因のすべてが、穂高岳という山の特殊性にだけ限定されるだろうか。登山者の多い山域で登山者自体によってつくられる登山道の崩れや、もともと崩壊の激しい場所や不安定な場所、地質がもろい場所など、それ以外の山でも浮き石による事故を起こす可能性は大いにある。あるいは、平凡な山であっても、ささいな不注意によって運悪く浮き石に乗ることは、しばしば経験する。Aの場合も、運の悪さの偶然の一致が招いたものではないのか。

3.自己責任と危険に対する認識
前回に述べたように、登山は「危険への自己投入行為」(冒険)であるが、誰も他人の冒険行為を制止することができない代わりに、その行為を自由意思で選択・実践した人は、その結果について当人が責任を負わなければならない。これが、「自己決定に伴う自己責任の原則」である。自由と責任は相伴うのである。単独登山の場合は、その責任をすべてその個人が負うしかないことはいうまでもないし、公道を走る車が他者に対して危険を及ぼす可能性があるのに比べて、個人が事故の原因として関係することも少ない。ところが、自己決定にもかかわらず、グループでの登山の場合には事情は異なる場合がある。
 好意同乗の場合、次のような問題点が考えられる。同乗させてもらう人は運転者(運行供与者)に対して、彼が普通の運転者と同等の安全運転の技術・経験・注意力を備えているものと信頼して同乗する。だが、同乗させてくれる人(運行供与者)の運転歴の浅さ、例えば運転免許を取り立てなのに、それを知らされ(知ら)ないで同乗させてもらったといった場合や、また本人ではなく、口添えでその代理人(本人ではなく、その知人など)の車にその知人が運転する車に同乗させてもらったような場合、また最悪の場合には無免許だったとか、飲酒していた場合に、結果的に大事故を引き起こしたとき、どのような問題点をかかえることになるのだろうか。
 ここで、自賠法第3条をもう一度確認しておきたい。上にもすでに述べたように、自賠法でいう「他人」には同乗者も含まれるとの判例を前提とする。運転者(または運行供与者:運転者ではなく、「自己」のために車を提供した人や、運行を管理する人)が、①「自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかった」場合、および②「被害者又は運行者以外の第三者に故意又は過失があった」(ことを証明した)場合は、「他人」に損害を与えたとしても免責される(損害賠償責任を負わない)、ということである。つまり、法律の規定は、運転者(および運行供与者)に注意義務を課すが、同時に②で、好意同乗者の側における故意または過失(これは単純にいえば状態の見損じということ)があれば、責任を問えない、と言っているのである。例えば、通常は赤信号を横断中や、横断歩道のない車道を渡る際に事故に遭った場合などが考えられるが、登山に似せて述べるなら、運転者が運転免許を取り立てだったり、または飲酒運転であることを知りうる状況にありながら、あえて知らない素振りを決め込んだ場合や、好意同乗者本人が酔ったまねをして、被保護者のように振る舞ったような場合である。これらの場合は、同乗者の過失が問われる。このようなケースでは、過失の相殺というのが行われ、関係者の過失度の大きさから個々の過失の程度が決められる。
 また、運行供与者の判断に瑕疵があった場合や、さらにはそのときの車がたまたま危険物を積載していたために大事故に巻き込まれたような場合、それによって同乗者が予想外の損傷を負ったときは、他の運行供与のケースと比べて供与者の責任(損害賠償責任)がその分増すこととなる。例えば、危険物を積載していたために、ただの打撲ですんだところが、重度の火傷を負ってしまったような場合は、被傷者には火傷について運転者に対する求償権が生じうる。その他の責任は、運転者が十分な注意を払って運転していた限り、免除されるとされる。ただ、同乗者がその部分についても、危険物をその自動車が積んでいることを知っていたか、または十分に知りうる状況にあった場合は、同乗させてもらった側の不注意(故意・過失)が問われる。
 山においても、このような事例と似通った問題が生じる。自動車=パーティー、運転者=パーティーのリーダー(運行供与者=山の会)、同乗者=同行者と置き換えてみてみよう。同行者は、パーティーとリーダーを信頼していただろう。その両者で、注意を払っていたなら避けることができた事故だったのだろうか。十分な注意を払っていたのなら、その山行のリーダーは免責されるのだろうか。Aの側の過失について問われることはないのだろうか。

4.事故に対する認識とその責任
山に当てはめて、浮き石を踏むという行為をさらに追跡してみよう。これがAの単純な過失(落ち度、ミス)によるものか、Aを同行させていた側(B)の過失によるものか、という問題である。
 Bの側の問題に関しては、普段はあまり意識することがないもしれない。先の穂高岳の例では、浮き石による事故⇒転落が、穂高岳ないしは北アルプスにおける急峻な斜面に特有のものである可能性について言及した。浮き石が危険であることは、穂高岳などに限らずいえることではあるが、一般にこのような山域ではいっそう浮き石による危険性は大きく、また重大な、ある場合には決定的な結果につながる可能性が大きい。このことをAがはたして知っていたかどうか。もし認識がなかったとすると、認識の欠如が事故を引き起こす主観的な要因のうちの大きな部分を形成したかもしれない。そのことについて、誰に責任があるだろうか。
 一方、Aがその認識を持ち、そこの歩き方についてのある程度の自覚を持っていたとすれば、その事故は、Aばかりでなく、他の熟練者でさえもが犯すミスとして理解されることになろう。しかし、Aの経歴からは、ここまでAに期待することは過大だろう。それにしては、危険への対応のしかたは絶対的に熟練者のほうが優れているが、だからといって熟練者が過ちを犯さないということはない。そもそも、ある物事をなすに際して、あるレベル以上の技量・経験・判断力があれば、それをさらに上回る技術が実際に役立つことはきわめて少ない(限界効用の法則*)。登山でも同じ理屈が当てはまる。「使うかもしれない」技術が実際に役立つ場合は、持っている技術レベルの高さが高くなるほど、少なくなる。ほどほどの技術・経験でたいていのことは問題なくやりきれてしまう、ということだ。きわめて高度な技術が披露されることは、通常の山行ではほとんどないといえる。
*限界効用の法則:経済学の用語で、あることに対する充足度が低い(欠けている)ほど、投じられる作用(手間や資金)の効用は大きいが、さらに作用を追加し続けていき、充足の程度が高まっていくと、作用があらわす効果は相乗的に低下していき、さらにそれを続けていくと、最終的には作用の効用は無限にゼロに近づくという法則。[例]空腹時のパンの一切れは、空腹の程度が大きければ大きいほど大きな充足度をもたらすが、満腹になるにつれて、そのありがたみ〔充足度〕は小さくなる。登山を例にとると、最高度のクライミング技術が生きるのは究極的な難度の場面であって、それが普段の登山で生きるケースは非常に少ない。しかし、競技としての水泳やマラソンはその究極の差を競う競技であるところが登山と違っている。登山の一面はそういうところにあり、限りなく素人がある程度困難な山登りができる種目だということをさす。反対に、そのことが登山の危険性を示し、「素人」(十分な経験・知識を持たない人)でもかなりの程度「高み」に近づけるため、他の競技種目に比べて生死が伴う場合が格段に多いという実態を示している。
 Aの認識の欠落が事故の原因として密接に関連すると考えられた場合、その認識の欠落は誰に責任があるのだろうか。穂高岳が危険な山だということは、山好き以外に多くの一般の人が知っている。それをAが知らなかったか、それとも知っていたけれども、「浮き石」という特殊な対象に細かく注意を払うほどまで深い認識に達していなかったのか、さもなければ状況の観察などに不十分さがあったのか、また疲労困憊していて体力的な限界にあったのか。
 上に述べたように、浮き石をその発生のメカニズムから理解したうえで見分け、浮き石がもたらす危険を山の斜面と関連づけて推測し、しかるのちにそこに足を乗せるかその動作を避けるかという選択判断は、かなりの高度な経験を必要とするだろう。しかも、この判断は一瞬のうちに行わなければならない。平均的なAのレベルの人では、この正確な判断はできないと考えるのが妥当であろう。とすれば、Aがこの山にいきなり登るのには飛躍があったとみるべきであろう。
 山で注意すべきは、第一に参加者の選抜、第二に山行対象・経路の設定、そして第三に山行中における判断である。先に好意同乗の例で示した、自動車における特別の危険因子に対する認識が同乗者に不可能であったのと類似して、Aの経験では、この山の危険を認識することがもともと不可能だったと推測される。もしそうであるなら、Aの経験・判断力をそのままにしてAを同行させたこと自体に、まず非があると考えられる。
 とはいえ、一般的、常識的なレベルでの認識として穂高岳の危険性は大きいといわなければならないから、参加に際しては自主的な情報収集や、危険性の実態に関して予習をし、さらにはそれなりの自己研鑽に努めるべきであっただろう。登山は他人依存の行為とは考えられず、「危険への自己投入行為」だと先に述べた。程度はさまざまだが、登山には冒険的な要素が伴っており、本人が自覚しようがしまいが、社会的な了解としてこの側面は否定できないから、この点でA自身の責任も看過できないと考えられる。ある情報を知りうる状態にあったのに、その努力を怠って好ましくない結果を生じさせた場合には、情報の周知をしなかった非よりも本人の怠慢が叱責される。
 ただし、とくにリーダーは山行の経路・行動を決める立場にあるため、一般的な山の危険性以上に、具体的な危険と偶然に遭遇した場合のリーダーの判断との因果関係が明らかであれば、リーダーの判断の是非が問題となる。大局面的に危険だといえない場面でも、間違って行路を選択し、またはなんらかの判断ミスにより隊列を危険に陥れ、ひいてはそれが遭難につながったとすれば、それはリーダーの責任となる。技術的にがむずかしくない場所であったなら、経験の差は問題の要素として介入せず、「凡ミス」として当人(当事者)の過失によるとすべきものとなる。言い換えると、大前提としての山域や山の一般的な危険性と同時に、そのときにとった行路の選択や、危険地帯での注意の喚起などの具体的な危険への対応の2つに区別して、それぞれの責任問題は考えていくべきものと考えられる。

5.過失と注意義務
 「過失」(加害の意思がない)とは、「故意」(加害の意思がある)の対立概念である。過失は、一定の事実を認識することができたのに、注意を怠ったために認識せず好まざる結果を招来した(結果を防止しなかった)ことをいう。そのために、本人以外の人たち(他人)になんらかの不利益的な結果がもたらされた場合である。それは逆に、そのような不利益的結果(損害など)をもたらさないように回避すべき義務(「注意義務」という)があるにもかかわらず、その義務を果たさなかったことを意味する。つまり、過失は「注意義務」が前提になっているということである。
 注意義務は、①抽象的注意義務(⇒抽象的過失)と、②具体的注意義務(⇒具体的過失)に分けられる。①は、その職業や社会的な立場の人として一般的に要求される注意(「善良な管理者の注意」という)の程度に、②は、その人の日常の注意能力に合った注意の程度にそれぞれ対応するもので、それらを欠いていたために本人以外の人に不利益的な結果をもたらした場合に関して、「過失」というとらえ方で、その行為者とその行為の結果を問題視し、追及する際に検証されることとなる。
 なお、注意義務は、特殊な業務などに対応させて個々に法律で規定されている(例:道路交通法、道路運送車両法など;刑法第117、118条では爆発物・ガスなどの取り扱い業上での過失、第129条では往来危険を生じさせた場合の過失、その他)。これらの注意義務に対する違反(過失)は、一般の過失に比べて責任が加重される(これが一般にいう「業務上の過失」ということとなる)。

6.業務上の過失と登山
 ここで、「業務上の過失」と登山との関係をみていこう。業務上の過失は、上の①の場合に含まれる。
 「業務上の過失」とは、既報のように業務に従事する者が特別に払わなければならない注意義務を怠った場合をいう。刑法211条で、業務上過失致死傷の罪を規定している。この場合の業務は、主として危険を他に及ぼしうるいくつかの業務について、法律でその注意義務(注意義務違反=過失)が明記されている。タクシーやバスの運転などのほかに、上で述べた爆発物や危険物の運搬・取り扱い(刑法第117・118条)、往来の危険(同第129条)、有害な産業廃棄物処理(環境基本法、人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律)などがある。法律で規定されていないものについては、判例から判断することとなる。
 注)刑法第211条----業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は---(中略)---重大な過失により人を死傷させた者も----。
 ところで、<b>「業務</b>」とはどのような場合をさすのだろうか。判例では「業務(上)」とは、「人が継続(反復)して」行う事柄であって、「公私」の別や報酬・利益・欲求を伴うかどうかは問わず、またその人の主たる業務と従たる(副業的な)業務との区別も必要ない、としている(大塚仁『刑法概説--総説』、有斐閣、1987年)。自動車の運転は、運転資格を得ていることによって、繰り返し行う前提が保証されており、職業的なドライバーであると否とを問わず、業務上となる。なお、業務の加害性が大きくなるほど、その注意義務は大きくなる。自転車の使用に伴う注意義務に比べて、自動車の運転者に課される注意義務は当然、自転車の使用の場合よりも数段大きい。
 注)業務上過失致死等:「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者――」「重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」(刑法第211条)
 さて、では登山の場合、「業務上」という考え方が適用されるだろうか。その結果いかんでは、業務上の注意義務が生じ、登山における別の観点が必要になってくるだろう。Aに対するBの責任も、大きく変わってくることとなる。年間に何度も山に(高い山であればなおさら)登っている人であれば、「業務上」とみなされる可能性があると推測される。「業務上」については、上に示したような理解がなされるが、さらには慣習や条理、常識なども加味されると考えられている。
 プロの山岳ガイド業は当然「業務」に当たると考えられるが、われわれ素人の範囲となると、にわかに結論めいたことをいうことはできない。しかし、「反復して」「無報酬で」行うという面は、われわれにも十分に当てはまる。年間に数十回繰り返し山行を行っている団体の活動内容であれば、その人において「従たる」ものであっても、「業務上」が適用されることになると思われる。また、リーダーを引き受ける回数が多く、会の中でもそれなりの信頼が置かれた人であれば、山行が「業務」だとの理解もいっそう成り立つと思われる(しかし、そういうことになるなら引き受けないという人もいるだろう)。
 同等のメンバーから成っている組織(同好会や山岳会)、または山行パーティーであれば、会員・メンバー間の注意義務がどの人といって特別に加重されることは通常はない。しかし、一般の人を募集して、まだ十分な経験や技術のない初歩のメンバーを難度の高い山行のパーティーに加えたような場合、パーティーの成員間の実力には相当の格差が存在する。例えば、本会で一度行った、一般の市民に対して呼びかけ実施した「公募登山」(ふれあい登山)である。
 本会では、会則の規定で「山行はすべて個人の責任で」行うものとする、と山行における自己責任の原則を明記しているが、会員間にはさまざまな意味の格差が実際にはある。この隔たりは、危険への対処能力の格差ともなる。経験の違いばかりではない。その違いを承知のうえで、本会(例会)が、運営体としていわば初心者に参加を認めるという手続きをとっている。この場合に、会として認定を行ったことに対する責任を逃れることができるか、という問題に連なっていく。ついでまでに、例えば銭湯(温泉)や有料駐車場で「盗難に遭った場合も責任は負いかねます」というような札を見かけるが、この宣言は法律的な効果を持つだろうか。会における山行自己責任と同じ側面を持つ。解答はここでは出さないでおく。
 参考までに、個人の場合よりも「法人」の場合のほうが、こうした業務上の注意義務は大きく、責任が加重される。例えば、従業員(被用者)が注意怠慢で外部の者に損害を負わせた場合、「使用者責任」として雇用者・監督者の賠償責任を明確にしている(民法第715条)。
 本題に戻すと、山行パーティー内のリーダーに対して、初心者がメンバーに加わっていたとき、この2者の間の実力格差がきわめて大きかったような場合、リーダーはプロの山岳ガイド-顧客と似た立場に立たされ、業務上の規定が適用されることがある。くどいようだが、山岳の危険負担は参加者が全員、確実に、自身のこととして認識しなければならないが、「瞬間的に」主催者と参加者の相互の間には業務上の関係が成立する可能性が推測される。
《文献》山田卓生著『私事と自己決定』、日本評論者、1980。
1)登山も、グループでする場合には、本人のみの行為であるにとどまらず、他人との関係が問題になる。リーダーの判断の誤りで事故が発生した場合には、リーダーの業務上過失致死傷罪が問題になる。いわゆる芦別岳遭難事件では、生徒6名を引率した教師がコースを間違え、生徒2人が転落死した場合につき、教師が業務上過失致死罪で有罪とされた。
2)登山者の転落死について、ガイドが業務上過失致死容疑で書類送検された事件(略)。
 3)1979年9月6日、阿蘇中岳で3名、9月12日にシチリア島のエトナ山で6名が噴火により死亡する事故が発生した。これは、自己危険行為というよりも、観光目的と、危険地域への立ち入り禁止の問題で、管理者への危害防止義務に関連する。
《事例》山岳遭難をめぐる係争事件は増えている。
1)1989年3月17~19日に長野県山岳総合センター(文化省の下部組織)主催で、県下の高校生・教師を対象に行われた研修で1人の教師(24歳)が雪崩で死亡し、主催者の注意義務違反の判決が行われ、主催者側に8400万円の賠償金の支払いが命じられる。
2)2000年3月2日、国、文部科学省、登山研修所の主催で行われた大日岳での訓練研修で、雪庇が崩れて参加メンバー2人が死亡。判決では主催者側の過失を認めた。

7.法律上の注意義務の考え方
1)不法行為による賠償義務
 注意義務が具体的に規定されている法令は上にあげたが、登山についてはどう解釈されるだろうか。1つは、民法上の「<b>不法行為</b>」(第709条)で説明される。ある人の行為が第三者に損害を及ぼし、その損害を賠償する責任が生じる場合、その行為を「不法行為」という。民法では次の要件を規定している。①故意または過失によって他人の権利(損をしない権利や安全である権利、自分の財産や利益が守られる権利)を侵害する行為、②行為と損害との因果関係(相当因果関係という)があること、などで、一般的には損害賠償は金銭によって行われる。
2)犯罪の構成要件としての過失
 民法(第709条)上だけではなく、刑法上においても、過失は大きな位置を占めている。刑法上、犯罪は本来、「故意」がある場合と規定されている(第38条)。しかし、故意がなければ、たとえ結果的に人に傷を負わせた場合でも、責任が問われないのかというと、ここに「過失」という概念が導入されて、行為者に落ち度(過失)がある場合は、その責任は免れないことを明らかにしている。結果が重大であったときは犯罪を構成する(例えば、過失致死傷罪、過失致死罪、業務上過失致死傷罪;これらは過失の程度がひどく、社会生活上看過できないときで、公権力によって犯罪として裁判を求める手続きとなる)。
 通常、刑事上の責任は、民事上の責任と均衡するので、過失の程度の重さに合わせて損害賠償の程度も増す。
 なお、過失とは本来、行為者に対する非難として、その人格と結合させて論じられるべき一面を持つとともに(これを「責任過失と呼ぶ)、これを人格的な非難とはいちおう切り離して、違法性の面における現象として考える立場(これを「違法過失と呼ぶ)の2つの考え方がある。後者の場合は、法律上客観的に要求される注意を払っていても、その犯罪事実の実現が避けられないときは、「不可抗力」として過失による責任は問われないこととされている。
《文献》山田卓生著『私事と自己決定』、日本評論者、1980。
1)登山も、グループでする場合には、本人のみの行為であるにとどまらず、他人との関係が問題になる。リーダーの判断の誤りで事故が発生した場合には、リーダーの業務上過失致死傷罪が問題になる。いわゆる芦別岳遭難事件では、生徒6名を引率した教師がコースを間違え、生徒2人が転落死した場合につき、教師が業務上過失致死罪で有罪とされた。
2)登山者の転落死について、ガイドが業務上過失致死容疑で書類送検された事件(略)。
3)1979年9月6日、阿蘇中岳で3名、9月12日にシチリア島のエトナ山で6名が噴火により死亡する事故が発生した。これは、自己危険行為というよりも、観光目的と、危険地域への立ち入り禁止の問題で、管理者への危害防止義務に関連する。
《事例》山岳遭難をめぐる係争事件は増えている。
1)1989年3月17~19日に長野県山岳総合センター(文化省の下部組織)主催で、県下の高校生・教師を対象に行われた研修で1人の教師(24歳)が雪崩で死亡し、主催者の注意義務違反の判決が行われ、主催者側に8400万円の賠償金の支払いが命じられる。
2)2000年3月2日、国、文部科学省、登山研修所の主催で行われた大日岳での訓練研修で、雪庇が崩れて参加メンバー2人が死亡。判決では主催者側の過失を認めた。

7.法律上の注意義務の考え方
1)不法行為による賠償義務
 注意義務が具体的に規定されている法令は上にあげたが、登山についてはどう解釈されるだろうか。1つは、民法上の「不法行為」(第709条)で説明される。ある人の行為が第三者に損害を及ぼし、その損害を賠償する責任が生じる場合、その行為を「不法行為」という。民法では次の要件を規定している。①故意または過失によって他人の権利(損をしない権利や安全である権利、自分の財産や利益が守られる権利)を侵害する行為、②行為と損害との因果関係(相当因果関係という)があること、などで、一般的には損害賠償は金銭によって行われる。
2)犯罪の構成要件としての過失
 民法(第709条)上だけではなく、刑法上においても、過失は大きな位置を占めている。刑法上、犯罪は本来、「故意」がある場合と規定されている(第38条)。しかし、故意がなければ、たとえ結果的に人に傷を負わせた場合でも、責任が問われないのかというと、ここに「過失」という概念が導入されて、行為者に落ち度(過失)がある場合は、その責任は免れないことを明らかにしている。結果が重大であったときは犯罪を構成する(例えば、過失致死傷罪、過失致死罪、業務上過失致死傷罪;これらは過失の程度がひどく、社会生活上看過できないときで、公権力によって犯罪として裁判を求める手続きとなる)。
 通常、刑事上の責任は、民事上の責任と均衡するので、過失の程度の重さに合わせて損害賠償の程度も増す。
 なお、過失とは本来、行為者に対する非難として、その人格と結合させて論じられるべき一面を持つとともに(これを「責任過失*と呼ぶ)、これを人格的な非難とはいちおう切り離して、違法性の面における現象として考える立場(これを「違法過失*と呼ぶ)の2つの考え方がある。後者の場合は、法律上客観的に要求される注意を払っていても、その犯罪事実の実現が避けられないときは、「不可抗力」として過失による責任は問われないこととされている。
*過失責任と無過失責任:交通事故の場合、多くが過失責任である。通常、運転者は事故を起こそうと意図はしない。にもかかわらず、過失(不注意)で事故を起こす。一方、過失があったかどうかは問題とせず、結果に対応した責任を追及すべきだという考え方が、1970年前後から台頭した。「公害」事件が多発したことが背景にあった。結果があまりに大きかったのを国家として放置できなかったのである。当初、公害では、企業の過失に議論が集中した。企業側は過失を否定しようとしたが、結果的に問題企業の周辺の人々が甚大な被害を受けた。さまざまな法律理論が出たが、過失があろうがなかろうが、言い換えると故意とか過失とか主体側の都合は問題とせず、どのような結果をもたらしているかという事実性を一義的に判断して、そこから不合理な行為を追及することが基準となった。無過失責任主義とは結果責任主義とも言い換えられる。
3)注意義務の内容
 ここで、注意義務違反と不法行為、そして損害賠償責任との関係についてみておこう。損害賠償とは、好ましくない結果を招いた事態に対して、行為者の違法性や責任があった場合に、それを金品で代償することをいう。十分に注意していたのに、他に損害を及ぼしてしまったような場合だ。ところで、では注意の程度はどれくらいであれば問題がないといえるのだろうか。
 先に述べた具体的に法令に過失(罪)として規定されている場合を除いて、一般的には民事では民法709条(不法行為)が適用される。これらの場合、注意義務としては、①思慮ある一般人の立場においてとられなければならない注意を基本として、②社会における具体的な要請(それぞれの客観的な場面と、その人の立場・地位・職業などに応じて応分と認められる程度の荷重と特質が求められる)が加味される。さらに、先に述べたように、③慣習や社会的な条理などによる判断が介入する。いずれにしろ、山行で問題を生じたときは、個々のケースに応じて、行為者および被害者の両方の立場を考慮して判断されることとなる。
4)注意義務とリーダー
 注意義務は、①結果予見義務と②結果回避義務に分けられる。①、②のどちらも十分に尽くされていたにもかかわらず、結果事実を招来させてしまった場合は、「不可抗力」として違法性および責任が軽減ないし免除される(これは違法性阻却事由や、責任阻却・軽減事由となる)。なお、違法性は、注意義務規定に反して招いてしまった結果に対して、その過失の程度が大きかった場合に、適用される。違法性と責任性とは刑法上では、犯罪であるかどうかを決める重要な要件となる。重大な過失(重過失)が明らかな場合はもちろん、社会的な条理に照らして過失と認められる場合は、過失は犯罪を構成する決め手となる。
 さて、山行のパーティーですべてのメンバーが、あまり違わない力量と経験・判断力を持っている場合や、メンバー全員で協議して行動の方針などが決められるようなら、問題は生じえない。この場合は、全員が納得ずくで隊列の多数の判断や、リーダーの判断がある場合はリーダーの判断を信頼して、このパーティーと行動を共にしているからだ。
 ただし、協議によって方針の決定がなされた場合においても、メンバー間の認識に著しい隔たりがあり、ある者は危険を予見することができずにその判断や方針に従い、別の者は危険を承知でパーティーの分裂を避けるためにその方針に従ったとしたら、その結果に対して異なる立場が生じることとなる。
 グループ登山では通常、リーダーが存在する。同等のレベルのメンバーで構成されている山行パーティーであっても、通常はリーダーの判断を優先させる。しかし、リーダーの判断の結果、不運にも事故を引き起こしてしまった場合、どのように判断されるだろうか。また、力量や経験において格差のある(著しくレベルの低い)メンバーをパーティーが抱えていた場合、リーダーの判断はどのような意味を持ち、リーダーの責任はどのように考えられるだろうか。
 リーダーは、その山行を円滑・安全に行うために、全メンバーの承認を前提として、山行のリーダーシップ(優越的決定行動)をとる。この権限は、「リーダー特権」といわれる。登山界の不文律である。リーダー特権はいたずらに行使すべきではなく、パーティー構成員の同意と納得・承認を前提に成り立つし、すぐれたリーダーは指揮をしないといわれる。だが、リーダーのその権利の行使に伴って、応分の義務・責任が生じてくる(義務とは責任を果たすべき責務)。その責任が、先に述べた①と②の義務だ。
 まず①その山行で、リーダーは山行における危険を看取すること、すなわち、どこがどのように危険であるかを、通常のリーダーが行うだろう程度の先見性と注意力、ならびに真剣さをもって見て取ることが要求される(「気がつかなかった」ではすまないわけだ)。さらに、②その見通しのうえに立って、どのように対処するか、その内容が問題となる。山の現場においてだけでなく、事前の状況調査や準備、同行者に与える注意・指示など、あらかじめとられるあらゆる怠りない配慮が含まれる。当然、参加者がその山行に参加するに際して欠けている部分があれば、指導や事前の指示が必要となる。
 ところで、こうした義務の程度は、どの程度ならいいのか。一般に、①②の注意義務は、平均的(この山をやるリーダーとしてはそんなものだろう、と山を知るおおよその者が考える程度)であれば足りる。これを、「自分自身に対してするのと同等の注意または配慮」というようにいう。しかし、自分自身はよいとして、自分よりも経験などのずっと少ないメンバーを抱えていた場合には、そのレベルに応じた特別な配慮が必要となる。これも結果予見・結果予防義務として加わってくるとみなければならない。平均的な注意だけですまないことは、いうまでもない。
 また、こんな問題を生じる。①リーダーの決定権の大きさ---他のメンバーに対する優越的な立場とでもいうもので、この大きさのゆえに他のメンバーの意向を介入させないでリーダーが行う決断は、そのパーティーの行方を決定づける。その意味で、リーダーの判断は重い。だが、危険負担はそのリーダーの率いる山行に参加することを決断した時点にさかのぼって、参加者に負わされるべき性質のものでもある。ゆえに、リーダーが格別に判断ミスを犯したのでなかった場合には、リーダーの責任は免除されると理解される。下にも述べた、「包括的な危険の承認」という受容を山行の参加者は行っており、そのもとにその山行の包括的な危険の受容を行ったものとみなされるからである。
5)リーダーの結果予見、結果回避義務
 本多勝一氏の『リーダーは何をしていたか』(朝日新聞社、1997年)という有名な文庫本がある。伊那谷に生まれで高校時代から中央アルプスに何度となく登り、大学時代には山岳部・探検部に所属し、ヒマラヤにも足跡を残している、登山に通暁している著者なりのモチベーションが込められており、また新聞記者ならではの執念を感じさせる1冊だ。逗子開成高校の北アルプス(八方尾根)での遭難(1980年、6人全員死亡)に始まり、いくつかの山岳遭難事故を詳細に追跡し、その原因を喝破している。
 この1冊を紐解くまでもないが、山行が実施に移されるのは、例えば自主的に話がまとまった山行でなければ、「この指とまれ」で自由な参加を促す方式だ。専門の山岳ガイドが募集する山行もあるが、それらのうちに、学校の先生が学生を引率する登山がある。それは、自由参加という方式では必ずしもない。同じクラスや学年の者同士であれば、仲間から外されたくないという意識からも登山は断れない。運動会や遠足が半強制であるのと似て、登山も半ば強制に近い。そして事の性質上、原因が何であれ引率教師の責任というものが付きまとう。行路の選択はもちろん、全体に対する引率・統制のうえからも、引率教師の圧倒的な優位性がある。生徒は自分がへたばらないように努めることに精一杯で、行路の問題などに目を配りようがない。そもそも危険が存在するなどということを考えない。
 このような登山における、落雷事故も取り上げている。偶発的であり、不運としかいいようがないが、時期によればかなりの確率で落雷の危険性が伴う以上、その時期や天候時の登山に慎重になるべきである。事故は過失が原因として伏在している場合が多いが、それはなすべき注意を怠ったためである以上に、拒絶することができたはずだったというミス判断によることがある。悪天候であるにもかかわらず、登山計画を実施してしまった場合である。「気象遭難」といわれる山岳遭難事故が、3月前後に多数起こった年が数年前にあったことが想起される。
 そのほか、3~5月の残雪期に、雪面が微妙に変化し、高所地帯では見えない危険が出現する。著者が取り上げた犠牲者のほとんどがまだ若い、青春真っただ中の学生だ。学生の引率登山には教師がいる。ところが、その教師が「運転免許」を持たない(無免許運転だった)がゆえに、その登山は起こるべくして起こった、と著者は説く。乗車した者にとっては、たまったものではない。結果的に遭難を起こして、その実態がばれたのだ。その責任が許されるはずもなく、犠牲者が続く事態を押しとどめたいと、著者は筆を執った。
【リーダーの資格】リーダーが確実になすべきこと
①危険の予見~察知
 以下、リーダー(運転手)がパーティーの一般隊員(参加者)よりも、経験値、技術、知識において優れている、もしくは優れていなければならないということを前提に、どうあらねばならないかを簡単に述べる。
◎潜む危険
 危険はあくまでも未知数である。だからといって、危険が顕在化しないという保証はない。起こる前の予防的な観点が決定的に重要である。
 危険は実際に起こってからでは遅いので、結果予見はできるだけ早いほうが望ましい。かといって、例えば次のビルの角を曲がったら、そこに危険が控えていたといったような現場が、事前に透視できる能力は誰にもない。車を運転していた場合に、その危険を現実化させないためには、速度を落とし、不可視の部分への注意を注ぐことしかない。結果予見はこの場合には、見えていない先に対する危険の存在の可能性をもとに、そのまま角の向こうに突き進んでいったときにも衝突などが避けられるような運転をすることである。
 山では、どこそこの状況における危険性の認識という行為が先になければ成り立たない。その場合に、直接的なまたは局所的(具体的)な危険を真っ先に把握できるのは、先頭を行く者である。先頭者はある程度、行路の選択を行うこともある。1人のリードのもと、道迷いをおこすこともあれば、上掲書で述べられている東京都立航空高等専門学校の学生を引率した教師のとったリードによって、自ら雪崩遭難を引き起こすこともある。後者の場合には、雪山を知っていたなら、けっしてそのルートは選ばなかったと著者は断定している、きわめて初歩的な間違いから遭難に至っている事例だ。同感である。3月という時期に、雪の多い中央アルプスの雪稜の風下側(南東)の急斜面をトラバースするという自殺的なルートの取り方を著者は原因と断じている。そのルートの選択は、もっぱら引率教師に責任がある。山を知らない=「無免許運転」の登山(バス)に学生たちは「同乗」してしまったのだ。不幸が待ち受けていたのは必然といえる。
 一方、直接的な原因に対して、包括的または一般的(抽象的)な危険というものがある。雪山では、尾根のとくに風下側(雪庇ができやすく、また軟らかい雪が降り積もりやすい)には近づかないことといった「禁忌」事項がいくつかある。原則事項だ。私も南アルプスの赤石岳を含むあたりの有雪期(厳冬期)の縦走を考えたことがあったが、冬の行路は尾根通しとすることが鉄則であり、そうすると夏道はあまり使えないことになる。稜線の最上部を連ねた線をつなぐように進む必要がある。
 間接的な情報だったが、ある経験者の話として、赤石岳~小赤石岳間は尾根通しということとして、懸垂下降を1か所入れなければ通過できないと聞いていた。そして想像すれば、南アルプスの大きな岩稜の通過ですべて稜線部を這うように連ねるのだと、ある部分では岩を乗り越えるなど危険な行動が不可避となると理解した。その結果、その力は自身にないと判断して実施しなかった。とくに厳冬期の3100メートルで、大きな荷を背負って懸垂下降を断行しようという勇気が結局持てなかった。
 これらのように、大まかに雪崩の回避、寒冷(寒さ)からの防衛、ビバークの備えと生存環境の維持、岩稜帯でのスリップ、転落・滑落の防止、行路の確保(ルートファインディング)、現在地の把握、体力の温存など、必ず厳冬期にアルプス級の山岳地帯に入山するには必須の大項目がある。アイゼンをきちんと装着することやピッケルの適切な使用など小さなことは、確実な歩き方(転倒の防止)に含まれる。小さなことは場面場面で生じるから、これを一くくりにはできない。これらは局所的な危険として、個々に対応するしかない。
 15年程度前の正月に池山吊尾根から北岳を目ざしたときのことである。不吉にも元旦早々に、爆音を轟かせて北岳バットレスの周辺をヘリが騒がしく旋回した。そのときは、正月の写真を報道ヘリが撮りに飛来したのか、という程度にしか想像しなかった。そして下山時に、その原因がわかった。豊橋の山岳会のパーティーだという20人程度が登ってきて、道を譲った。遭難が起きたのだと聞いた。しかも、その遭難は、北岳山荘から八本歯ノコルへトラバースそのものとなる夏道をたどり、雪崩を引き起こしてしまったためだったという。確かに、南アルプスの正月の積雪量はまだ多くない。とはいうものの、その斜面は北からの季節風が南アルプスの稜線を越えて、雪をふんわりとした積雪状態に運び、層状に積む。そこの横断だから、雪崩を起こさんとするばかりのまずい行路選択だった。尾根通しなら、北岳山頂への分岐まで進んで八本歯ノコルに至る迂回路をとらなければならない。厳冬期に南アルプスの縦走をするくらいのパーティーだから、おそらくは相当の経験を積んだメンバー構成だっただろう。それでも、そういったミスを犯すのかと疑問に感じられてならなかった。
 直接的な危険は先頭者がそれを予見、察知しなければならない。先頭の隊員にその認識が期待できないときは、リーダーは自身が先頭に立つべきとされる。リーダーは通例、隊全体を把握するために最後尾に付くが、行路が困難度を増したときや、「本物の」ルートファインディングが必要となったときなどには、リーダーが先頭を交替する。行路の開拓、ルートファインディングは進路を見いだす以外に、危険から距離をとった行路の開削という重要な意味がある。実際の登攀も重要だが、天候の悪化した厳冬期などにはルートの確保が最も重要である。私は、行路が正確に切り開ける人には信頼を置く。
 局所的な危険はそれぞれである。それを危険としない人もいれば、安全策をとったほうがよいメンバーもいよう。その人の力量に応じて適宜、判断するしかない。その際に、その隊の中で最底辺レベルの経験者を基準に考えなければならないことは述べるまでもない。
 雪山ばかりが危険ではない。無雪期の川苔山とか蕎麦粒山とかの奥多摩・奥武蔵の山々にも危険は潜んでいる。一時期、奥多摩は山が堅固な岩質で、崩壊地は少ない割に、沢への裾野部や山の斜面の落ち込みが非常に急峻で、しばしば事故が起こったことがあった。道迷いの多いところとしても、山岳雑誌で川苔山は取り上げられる。私の経験で、登山道が荒れていて危険を感じたのは、傾斜の厳しいところを開削して造った登山道だったためだろう、風化や浸食によるだけでも、登山道は傷む。その例が、酉谷山から奥多摩側への下りだった。右に100メートル近い、70度以上の傾斜で落ち込みとなる峡谷を見ながら、長いトラバースの下山道を下った。そこは特殊かもしれないが、登山道の周辺には「ワニ」が大きく口を開けて登山者を待ち受けている。
 日原側からの川苔山への上りの登山道はよく整備されているが、わずかに視線を横にそらせば、険しい谷筋が待ち構えている。そこは見ないで通過したほうが安全かもしれないと感じるような箇所が次々に出てくる。近場でもけっして安穏とはしていられない。それが登山という行為である。
 こんな場所もある。北アルプスは温度差や気象的な厳しさから、山が険しいことは多くの人が承知している。岩の尖り方は南アルプスよりも顕著で、登山道周辺にもその特徴が随所に出てくる。それが一般的な理解だ。ところが、例えば奥穂高岳~前穂高岳の間のいわゆる吊尾根の登山道に入ると、まるでハイキング道といったような平和な遊歩道が敷かれている。南稜から下には岩場も出てくるが、たいしたことはない。一般的な北アルプスの印象がここでがらりと翻る。危ないのは、けっして状況として変わったのではない危険だ。道の左右には、やはり「ワニ」がいる。完全に安全な場所は、たとえ転倒や滑りが生じても、それ以上への行為の発展が起きない場所だ。尾根が太く、左右への傾斜も緩い場所だ。疲労はしていても、命にかかわるのだから、注意を怠らぬことだ。さらには、リーダーたる者は、隊を代表して倍の注意力をもって周囲を観察するという心構えがほしい。
 北穂高岳の下りも危険である。その意味は、傾斜が相当に急だという点にある。今年(2014年)の8月中旬に不順な大雨が北アルプスを襲ったときに、北穂沢にいた数人の登山者が濁流に流されて犠牲となった。急峻な傾斜は、動き出すと停止を許さない。ましてや、濁流、鉄砲水の勢いに飲まれたら、一気に何百メートルも流されてしまうに違いない。天候急変時には、その一般的な危険に、別の危険が加わる。悪天候にもかかわらず入山した場合には、それらの一切の状況に対する予防的な対応がなければならない。包括的な危険への対処という意味では、悪天候の場合の登山中止の決断が最も賢明である。装備をよけいにそろえたからといって、場所しだいでは役に立たない。
 ついでに悲痛な事故の話を追記する。15年程度前に前穂高岳北尾根と北穂高岳東稜を初めてトレースした。東稜を進行中にヘリがかまびすしく飛び交った。北穂高岳の小屋に着いて聞いたのが、遭難だった。成人した息子さんを伴う父子が穂高岳山荘側から涸沢岳を越え、北穂高岳に向かう最中に、息子さんが岩をつかんだ瞬間、岩が抜けて落ち、その下敷きで即死したことを聞いた。今もそのときの記憶が鮮明だ。自分たちも2日間、危険な山行をやってきていたが、なぜこうも危ないところに人は来たがるのだろうかという疑問が今も解けないでいる。もはやそのような場所に私が向かうことはほとんどなくなったとはいえ、人の性(さが)のようなものを感じて、哀切な気持ちになる。「行くな」「登るな」とは言わないが、登山にはそれだけ死の危険が伴っていることを、もっと自覚すべきではなかろうかという思いがしてならない。登山の危険や責任問題を考えることは、登山を慎重に行うことにつながると思うがゆえに、こうして書いている。
②危険の回避
 本会では、広域的な危険(その地一帯が危険をはらむ)に近づいたときには、その場所が安全であることを確認してから、「一時停止」を指示し、周辺の危険の認識を、声を発してメンバーに高めてもらう指示がよく行われてきた。まずリーダーが発声をする。停止は必ず安全な場所で行うことが肝心だ。私がリーダーとなったときは、適宜、これを実践している。そして、互いに「気をつけて!」と言い合うように促している。
 危険回避は危険の予見・察知と裏腹だ。危険回避に特殊な装備が必要となることがある。その代表がザイル(ロープ)だが、本会ではどの山行にもツェルトを携行することになっている。ザイルは目ざす山域、山に応じて選択する。ツェルトは数人分に適用できるが、場合によっては小さなシュラフと冬用のシュラフカバーのセットでもよい。誰かが骨折などを起こして動けなくなった場合に、無雪期ならこの2つで当面の生命の安全は確保できる。
 10年余り前の12月に鳳凰三山からの下りで、われわれの隊に事故が起きた。メンバーの1人が、もうすぐ鳳凰小屋だという地点で足を滑らせて、沢筋に滑落したのだ。彼はその山行のリーダーだった。そこは花崗岩質の砂地で、その上に薄く雪が載った状態だった。その縁に足を乗せて、ズルッと滑った。状況が悪くその下が沢への崩壊地となっていて、木々がなくなっており、あっという間に姿が消えた。やってしまった! と思った瞬間に、下から声が届いた。大きな倒木が堰のようにあって、そこにはばまれるようにして下まで落ちないですんだのだ。下までは100メートルはあっただろう。その距離を滑り落ちたらどうなったかは、容易に想像がついた。
 事故を起こしたTさん本人は冷静さを失って、おそらく体がガタガタ震えていただろう。「動かないで!」と彼に告げた。救出に下るが、そこは木々が払われて裸地で、季節柄、凍結していた。この方法しかなかったが、ピッケルのブレードで足元をカッティングして足場を造り、落下地点に近づいた。そして、そこに到達した。10人近いメンバーがおり、ザイルはなかったが各自のスリングをほどいて連結し、下ろしてもらった。ザックを引き上げてもらい、あとはカッティングした足場を正確にたどってもらった。結果的になんでもなかったが、むしろその結果のほうがまれとしかいいようがなかった。ロープがほしかった例であると同時に、なんでもないところに危険が潜むことを銘記した。
 樹林中の下山では、周辺の状況がよくわからないときがある。この例もそうだった。待ち受けている状況があらかじめ把握できていたなら、そこで注意を向けることができたが、現場にさしかかり、さらに事故を起こしてみて初めて気がついた危険であった。教訓である。スピードを落として下れということなのかもしれないと了解した。リーダーではなく、まず自分(個人)が気をつけなければいけないと痛感したしだいであった。
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【参考文献】
 1)本多勝一:リーダーは何をしていたか(朝日文庫)、朝日新聞社、1997。
 2)溝手康史著:登山の法律学、東京新聞出版局、2007。
 3)大塚仁:刑法概説---総論、有斐閣、1987。
 4)前田雅英:刑法総論講義(第2版)、東大出版会、1994。
 5)星野英一ほか編:有斐閣・判例六法、1994。

 いちおう、ここまでで2回目を終了します。
 登山における具体的な危険については、今後も書き足していこうと思っています。 
2014年8月31日 T・K


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