鍋割山荘/山荘の南面から望む秦野市・・・カーソルを写真の上に載せると写真が切り替わります。 |
◆実施日:2015年12月12~13日(小屋泊まり1泊2日) ◆参加者:我孫子山の会会員14名(男性6名、女性8名)+倉岡裕之さん(計15名) ◆行路・通過時刻:12日 5.49天王台-6.01我孫子-7.09代々木上原7.12-8.23渋沢8.46-9.01大倉9.20(登山開始)・・11.10登山口 11.25・・12.20後沢乗越12.30・・14.35鍋割山・鍋割山荘(泊)・・・歩行時間(休憩時間込み)=5時間25分 ※先着組は鍋割山到着14.15(歩行時間5時間5分/予定4時間10分) 13日 6.00起床/発8.15・・12.10大倉12.40・・13.05渋沢14.29-15.30帰宅 ◆装備:初冬期の日帰り山行装備 ◆経費:電車代(天王台-渋沢)、バス代(渋沢-大倉)、宿泊代6500円、打ち上げ代など込みで合計約11600円/1人 |
■今山行の趣旨 倉岡裕之さん(我孫子在住の高所山岳ガイド)と本会とは、同じ市内だというご縁以外に、語るには複雑な伏線がある。 2010年には、本会の創立20周年ということで市民を対象に記念の講演会を企画・実施し、そのときの演者を倉岡さんにお願いした。今年は8月28~30日の本会創立25周年記念山行(尾瀬)にもご一緒くださったが、今年はタイミングがうまいぐあいに合い、鍋割山のほうに本会のメンバーがご一緒することになった。 この山行が実現する経緯に関しては、倉岡さんの鍋割山荘(草野延孝さん)とのなれそめにまでさかのぼらなければならない。下の短文を参照してほしい。鍋割山は倉岡さんにおいて、いわば「処女登山」となった山である。倉岡少年はその後、大きな飛躍を遂げる。今や、わが国におけるエベレスト登頂回数で2番手に位置する登山家(ガイド)であるばかりでなく、国際山岳ガイド隊の要員としても嘱望され、世界をまたに広く活躍をしておられる。その倉岡さんも、海外登山で年中お忙しい時間を送り、山荘の草野さんにもすっかりご無沙汰しているので、一度都合を調整してご挨拶をしたいのだけれど、一緒に行きませんか、とのお誘いを本会に受けていたのである。倉岡さんのような方となら、お受けしない理由はない。本会の仲間に募って、山行計画を進め、今年の本会の山行計画に組み入れてもらった。具体的な計画などの段取り、参加者の取りまとめ、山荘との連絡などは当会に一任いただいた。さすがに、その影響力は大きく、多数のメンバーが参加してくれることになった。 ということで、倉岡さんと山行をご一緒し、山荘の草野さんご夫妻と久しぶりの再会を果たす機会に、私たちが同席させていただき、その模様をじっくりと拝見・拝聴しようではないか、という目論見なのである。山上の山小屋で、お二人を囲み、その酒の席を多数で楽しませていただこう、という流れである。誰しもの胸に大きな期待が膨らんだ。
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■道々のこと 前段 小屋泊まりは本会ではあまりなじみがなく、個人的にはいつからやっていないかを思い出すのに苦労するほどだ。そんな山小屋泊りの山行で、小屋の奥さん(草野恵子さん)から電話をもらった際に、倉岡さんのことをお話しした。語調が変わったのを感じた。その後、ご主人からも電話をいただいたときには「倉岡君」という表現を聞き、2人の関係を想像し、再会に立ち会うのが楽しみになった。 天候が気になったが大崩れはしないようなので、装備計画などで十分な備えをしておくように参加のメンバーには通知して、8日に山行の実施を決め、当日を待った。 12日 我孫子で14名が予定の千代田線に乗り込んだ。北千住で1人が合流し、15名がそろい、代々木上原で乗り換えた。1時間ちょっとで晴天下の丹沢の山並みが窓外に見え始め、渋沢に着いた。すでに登山客がバス待ちで長い列を作っていた。バスは臨時の増発便が出るほど込んでいた。なるほど、丹沢は人気の高い山だったのだ。 終点の大倉でバスを降りた。山の裾野にしては不釣り合いなほど立派なバスターミナルだ。ここは丹沢でも有数の登山基地(登山口)で、何本もの登山ルートが大倉を基点に出ているだけのことはある。思い思いに荷と衣類を整え、言いわけ程度に体操をして出発となる。 先頭をお任せしたMkさんがうっかりしていたのだろう、塔ノ岳へのルートに進み始めたが、数人がすかさず呼び止めて道を正す。丹沢については、うるさい御仁が何人も同行してくれているようで、心強い限りだ。行路どりは適宜お任せした。丹沢の裾野もすさんでいて、「袖(袖群落)」は森林に制圧されそうだった。 ゲートが下りているため一般車両は進入できないが、荒れているものの、林道だ。かつてはタクシーが二俣まで入ったと聞くが、現在、タクシーは大倉までしか入れず、登山者は大倉から歩くしかない。四十八瀬川を左に見ながら、くねくねと車道をたどると、谷の下に登山訓練所の建物が見えてきた。そこをさらに行き、右からの沢が車道を横切る二俣で橋(ここは勘七ノ沢への入渓点だ)を渡る。ここから塔ノ岳への行路が分岐する。そこからわずかで林道の終点に着いた。鍋割山荘関係の車だろう、車道の行き止まり近くに2台停まっていた。その先、車道の末端に、水の入ったペットボトルを多数見た。何十本、いや100本になるかもしれない。 倉岡さんが5リットル(後で4リットルだとわかったという)ボトルを2本ザックにしまい込んだ。さすがに倉岡さんと競うのは失礼でもあろう、僕は控えめに、2リットルボトルを2本ザックに入れた。めいめい、個々の判断で持った(その水が鍋割山荘の名物「鍋焼きうどん」のおつゆに使われることは後から知った)。 |
大倉のバスターミナルは、この僻地にしては不釣り合いなほど立派だ。渋沢間のバス便も多い。このバスターミナルから、いざ登山開始。バスターミナルから出たところにあった行路標示(▲上)。右は塔ノ岳だ。先頭が危うく間違いそうになったが、「早興」というものか。
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林道を行く。「統制のきかない」パーティーだった。前後で大きく隔たりができた。これも余裕なのだろう。二俣の先の登山道にさしかかると、これが見事に一列縦隊に復した。
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二俣の先、林道が尽きるところから、大丸を経て塔ノ岳、小丸を経て鍋割山に向かうルートと、単純に鍋割に上り上げるルート(左)が、ここで分かれる。鍋割山だけが目的の登山者はもっぱら左に行路をとるようだ。
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林道の終点に置かれたペットボトル。2リットルボトルと4リットルボトルが、水を充填されて、ボッカ(荷揚げ)を待っていた。100本程度あった。水の荷揚げは登山者のボランティアで行われているようだ。倉岡さんは4リットルを2本持った。 |
ここからが本格的な登山になる。地図では「小丸」という頭部に向かう行路が、ここで右側に枝分かれしている。急ぐ旅ではなく、たっぷりと休憩をとり、登山道に踏み出す。二度、橋を渡ると、石積みの堰堤があり、急な上りとなる。その上の、このルート一番の、短いが急坂箇所を過ぎると、明るい杉林の中の道となる。長く伸びる勇壮な隊列をカメラに収める。ここをジグザグに登ると落葉広葉樹林帯に代わり、後沢乗越に飛び出した。 ひと休みの後、隊列を立て直して出発する。やがて木道が続く道となり、傾斜はいくぶん緩やかになった。単調だが気持ちのよい、尾根通しの登山道だ。やや行くと富士山が左手(西南西)の枝越しに見えてきた。倉岡さんがつい数日前に富士山に登ってこられたそうだが、八合目以下には今年は雪がないという。姿を見せているのは八合目以上だから、見えている富士山が真っ白だったわけだ。尾根道半ばでNkさんに足の痙攣(ひきつり)が起きた。速度を落とし、倉岡さんと僕とで挟んで、休み休み行く。隊列が割れたが、間違いのない尾根道なので、成り行きとした。 20分ほどの遅れで山頂に着いた。鍋割山は山荘と山頂とが一緒になったような山だ。この場所を鍋割山山頂と呼ぶべきか、鍋割山荘(山荘の庭)と呼ぶべきか、一瞬迷ってしまいそうだ。すでに先着隊は十分すぎるほどにくつろいでいた。その様がまた悠揚であった。山頂に立ったとき、登山者が自然ととる、独特の解放感に浸る仕草、表情、そしてその横顔に漂わせる雰囲気がある。それが、10人以上の仲間たちで“合奏”しながら醸しているように感じられた。なんともいえずうれしい情景だ。 山荘への挨拶を後回しにしていた。鍋焼きうどん作りで多忙な様子だったが、頃合いを見て初対面の挨拶を切り出した。そして、あらためて今宵のことを「よろしくお願いします」と告げた。とても快く対応くださり、ここまで来た疲れが吹き飛ぶ気がした。 缶ビールを買い求め、山頂のデッキに戻って仲間とともに祝杯を交わす儀式が待っていた。太陽が傾き始める前の山頂に射す光が、山荘を赤く照らし出した。仲間の面々も夕暮れの太陽を受けて頬を赤くし、感動をその笑みに表現していた。黄昏れ始め、小屋に入った。 |
登山道に入り、橋を2つ渡ると、石垣(堰堤)がある。 | このルート一番の急坂。 |
明るい杉林に伸びる隊列。 | ジグザグにたどる登山道。すぐ上が後沢乗越だ。 |
後沢乗越を後にする。 | 尾根の途中で休憩。気持ちのよい行路だ。 |
さあ、再度、出発。 | 遅れた3人。木道がよく整備されていて、歩きやすい。 |
鍋割山荘の周辺の景観。右下は、かすかに見える富士山。山荘は太陽光発電パネルを多数設置している。 |
山頂でくつろぐ仲間たち/若者たちが求めてやって来るという鍋焼きうどん |
それぞれ部屋の指定を受け、ザックを持って、いったん各自の部屋に入った。女性は全員、二階となった。30分ほどして、小屋が準備してくれた大広間のスペースにめいめいコップと飲み物、ツマミを持って集まった。掘り炬燵に火が入れられ、ほんのりと暖かかった。すでに三々五々、献杯が始まっていた。早速に小屋の食事が出された。最初に前菜だと、1人ごとにおでんとてんぷらが一皿ずつ出された。かなりの盛り付けだ。仕事が一段落したのだろう、ご主人の草野さんが宴会に合流された。倉岡さんとの間で待っていた会話が始まった。倉岡さんも相当だと思うが、草野さんの記憶力も負けていなかった。 ヒマラヤ遠征時の高所談義や、ヒマラヤで名を遂げ、また山で早世した人たちの名前が頻々と2人の口から上がった。内外の名だたる登山家たちだ。その一部だが、小西政継や尾崎隆、長谷川恒男、重広恒夫、加藤保男、松田宏也、禿博信ら日本人のほか、ラインホルト・メスナー、ペーター・ハーベラー、イエジ・ククチカ、トモ・チェセンなどの名が、自ら交錯してきた2人の記憶から引き出された。 原眞先生の名前も出た。それというのは、草野さんは若い時代に一時期、原先生の主宰する高山研究所(名古屋)にいたと聞いた。自らヒマラヤの7千メートル峰(サトパント登頂、ダウラギリ遠征)やアコンカグア南壁登攀を経験しているという。 前菜に引き続いて、どかんと豪勢な鍋が来た。エビや魚、肉がたくさん入った、心尽くしの石狩鍋風の料理だ。草野さんが、今夜の消灯は9時半まで延長する、と管理令を発した。しかし、その後も席を移して話が延々続いた。 草野さんからは、山小屋を始めて40年目になること、ボッカ(荷揚げ)は3000回以上やったこと、担いだ最も重い荷物は114㎏だったこと、1日に売り上げた最多の鍋焼きうどんは614杯だったことなどを聞いた。小屋で使う食材などはすべてボッカに頼っているという。どの話もすごかったが、僕と同年配ながらこれまでの無理が影響したのかもしれない、草野さんの姿勢に歪み(円背)を見た。ボッカも50㎏を切るようになったと漏らした。倉岡さんの初来訪からも40年近い時間がたったのだ。 倉岡さんと草野さんの間に挟まれて、眠るに眠れない仲間もおり、笑いをこらえた。最後に、小屋に手伝いに来ている2人の若者の話も聞いた。みなさん、眠たさをこらえて興味深そうに聞き入っていた。結局、その夜の消灯は、山小屋では異例の11時となった。 |
豪勢な鍋を囲み、杯を重ね、話が盛り上がる。掘り炬燵がありがたい。 | |||
倉岡さんと草野さんの「打ち解けた」表情と会話。 |
13日 小屋の中がざわつき始めた。早朝の6時だった。7時前に食事が並べられた。塩鮭と生野菜、海苔、みそ汁に果物たっぷりの朝食をおいしくいただいた。 そして、下山だ。8時、出発の前に小屋の方々も加わって集合写真を、小屋の方(渡邊佑さん)が撮ってくれた(後日、倉岡さん経由で転送してくださったので、勝手ながら下に加えさせていただいた)。 残念ながら雨模様で、倉岡さんの意見も容れ、塔ノ岳経由の計画は変更して、もと来た道を下ることとする。上下の雨具を着て、15分遅れで下山にかかる。 霧雨の中を、ゆっくりと下る。木道は、段ごとに水平面が保たれ、歩幅も適度で、滑る危険のないように造られていた。登山道の整備もされたに違いない草野さんら関係の方々の、こまやかな配慮を感じた。休憩後、先頭を替わった。思い切り速度を落として下る。雨がほぼやみ、登山客が次々と登ってきた。圧倒的に若者が多い。行き違いになるとき聞くと、小屋の鍋焼きうどんが目的だという。複数のパーティーの若者たちが同じ答えだったから、多くがその目的でやって来るのだろう。しかし、何十年も、世代を超えてこの小屋に人を引き付けている背景には、草野さん夫妻のこれまでの営み、努力とその存在があるに違いない。 最後の傾斜を木の根っこを掴みながら下り、橋を渡ると、林道に出た。二俣の手前で、小屋の方が追い付いてきた。長い林道をだらだらと行き、3時間半ほどでバスターミナルに着いた。 渋沢駅で、一足先に帰られるという倉岡さんを見送って、14名は駅前の「食堂」に入った。ビールで乾杯し、今回の山行を喜び合い、締めくくった。倉岡さんを主役にした多数での山行は、ひと味違い、本当に楽しかった。小屋での草野夫妻との再会に立ち会えたことも幸いだった。たくさん会話も聞けた。また機会を作り、ぜひ訪れたいと思う。 参加して山行を盛り立ててくださった多数の方々、各種役割を引き受けていただいた方々、会山行の管理にかかわられた方々、そして倉岡さん―今回の山行はこれら多数の方々で成し遂げられたことを記し、お礼の言葉としたい。
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下山間際の集合写真(写真提供=山荘の渡邊佑さん;前列左から2人目) |
この度の鍋割山、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。図らずも私と草野さんの鍋割山荘40周年でした。皆様にお付き合いいただいたかたちとなり恐縮の至りです。 10リットル上げたと思った水は実は8リットルだったことが小屋に着いてから発覚し、草野さんの冷たい視線を感じたような気がしました、笑。確実に衰える体力を感じる次第です。今でも40kgの歩荷をする草野さんにはかないませんが、ヒマラヤなどでごまかしながら登山を続けていきたいと思います。 我孫子山の会の皆さまも末長く山登りを楽しんでいただきたいと思います。また次回、我孫子で、山で酒を囲める機会があればさいわいです。 |